第8話「泥と汗と、命の輝き」

土屋(つちや)の朝は、爪の間の黒い土をブラシで落とそうとすることから始まる。

けれど、いくら擦っても、染み付いた大地の色は完全には消えない。

「……汚ねえ手だ」

彼は洗面所の鏡の前で、ゴシゴシと赤くなるまで指を洗いながら自嘲した。

三十五歳、専業農家。

毎日、太陽に焼かれ、泥に塗れ、野菜と向き合う日々。自分が育てた野菜は誇りだ。瑞々しくて、甘くて、市場でも評判がいい。

だが、その野菜を作り出す自分の「手」や「姿」は、どうしようもなく洗練されていないように思えた。

特に今日のような日は、その劣等感が胸を刺す。

「はい、カット! サラさん、今の笑顔最高です!」

畑の向こうでは、地元の観光PR動画の撮影が行われていた。

カメラの中心にいるのは、菜葉サラ。

泥一つない白いブーツ、鮮やかなグリーンのワンピース。彼女が微笑むだけで、田舎の風景が一瞬で華やかなステージに変わる。

(……住む世界が違うな)

土屋は、作業着の裾で泥だらけの手を拭い、カメラに映り込まないよう、そっと木陰に身を隠した。

美しい野菜は歓迎されるが、それを作る泥臭い過程(プロセス)は、美しい画面には不要なノイズのように思えたからだ。

その時、畑の空気が凍りついた。

風が止み、鳥の声が消える。

「……臭うわ。生々しい、腐敗と隣り合わせの臭いが」

畑の入り口に、日傘をさした貴婦人が立っていた。サプリ帝国幹部、レディ・プリザーバだ。

彼女が優雅に歩を進めるたび、豊かな黒土が、カチカチに固まった無機質なコンクリートへと変質していく。

「な、なんだあんたは! 畑に入ってくるな!」

土屋が慌てて飛び出す。

「あら、この不潔な場所の管理者かしら?」

プリザーバは土屋を一瞥し、ハンカチで鼻を覆った。

「土、微生物、虫……。なんと非衛生的な。野菜とは本来、無菌室(クリーンルーム)で管理され、規格通りに生産されるべき工業製品よ。こんな泥の中で育つなんて、野蛮極まりないわ」

彼女の背後から、消毒液のタンクを背負った怪人『ジョキン・スプレー』が現れる。

「消毒ダ! 滅菌ダ! 雑菌ハ、排除スル!」

シューッ!!

怪人が白い霧を噴射する。霧を浴びたキャベツや大根が、瞬く間に白く変色し、ビニールのような質感の「作り物」に変わっていく。

「や、やめろぉっ! 俺の野菜が!」

土屋はたまらず駆け寄った。

泥だらけの手で、まだ無事な小さな苗を覆い隠すように庇う。

「どいて! 汚らわしい!」

プリザーバが指を弾くと、衝撃波が土屋を襲った。

ドサッ。

土屋は泥水の中に倒れ込む。顔も服も、泥まみれになった。

「見てごらんなさい。泥に塗れて、地を這いつくばって……なんと醜い」

プリザーバが見下ろして嘲笑う。

「あなたのその手、その姿。美しい野菜を作るには相応しくない『汚れ』よ」

「……っ」

土屋は反論できなかった。

彼女の言う通りかもしれない。自分は汚い。スマートじゃない。こんな泥だらけの手で作ったものを、人は本当に食べたいと思うのだろうか。

心が折れかけた、その時。

バシャッ!

誰かが、土屋の隣の泥水に、躊躇なく足を踏み入れた。

白いブーツが泥に沈むのも構わずに。

「……サラさん?」

菜葉サラは、プリザーバを真っ直ぐに睨みつけていた。

彼女はゆっくりとしゃがみ込み、土屋が守ろうとしていた苗の根元――湿った黒い土を、その素手で掬い上げた。

「汚い……? 笑わせないで」

サラは立ち上がり、泥だらけになった掌(てのひら)を、誇らしげにプリザーバへと突きつけた。

「この泥の中にはね、無数の命が詰まってるの。バクテリアも、ミミズも、枯葉も……全てが循環して、新しい命を育んでいるのよ!」

「なっ……何をするの、不潔な!」

「土屋さんの手はね、汚れてるんじゃないわ」

サラは、呆然とする土屋の方を振り返り、ニカっと笑った。

「命を育むために、大地と戦っている証よ。……私には、どんな宝石よりも美しく見えるわ!」

土屋の胸の奥が熱くなった。

コンプレックスだった黒い爪。ガサガサの掌。

それを「美しい」と言ってくれる人がいる。

その言葉だけで、今まで流してきた汗のすべてが報われた気がした。

「……ああ、そうだ。俺は……農家だ! 泥んこが俺の正装だ!」

土屋が立ち上がる。その目には、もう卑屈な色はなかった。

「感謝するニャ、土屋! その誇り高き泥への愛が、野菜の甘味を育てるのニャ!」

どこからともなくミャスターの声が響く。

「行くわよ! 私の『泥パック』は、ちょっと刺激的よ!」

サラの腕にブレスが出現する。

「オーダー! 五色五味、チェンジ!!」

バァァァンッ!!

一陣の風が吹き抜け、サラはベジグリーンへと変身した。

彼女は泥濘(ぬかるみ)をものともせず、滑るように駆け出した。

「消毒! 消毒ゥ!」

ジョキン・スプレーが消毒液を乱射する。

だが、グリーンは避けない。泥を跳ね上げながら突進し、わざとスーツを汚しながら肉薄する。

「無菌室のお嬢様にはわからないでしょうね! 泥の重みと、温かさが!」

バシィッ!!

グリーンの回し蹴りが怪人のタンクを凹ませる。飛び散った泥が、プリザーバのドレスの裾を汚した。

「キャアアッ! 私のドレスが! なんて野蛮な!」

「野蛮? 褒め言葉ね! 野菜はね、行儀良く育つだけじゃないの。雨風に耐えて、泥を吸って、逞しくなるのよ!」

そこへ、ライスレッドたち四人も駆けつけた。

「サラちゃん、待たせたな!」

「おう! 泥仕合なら俺も得意だぜ!」

「みんな、仕上げよ! 大地の怒りを味あわせてあげる!」

グリーンが空高く跳躍する。

背景に、広大な畑と、力強く根を張る大根の幻影が重なる。

彼女の両足に、緑色のエネルギーと共に、大地のマナが集束していく。

「必殺! 大地の恵み・マッド・スタンプ!!」

隕石のような急降下キックが、怪人の脳天を捉えた。

ドゴォォォン!!

衝撃波と共に大地が揺れ、コンクリートに変えられていた地面がひび割れ、元の黒い土が顔を出した。

「無菌ハ……免疫力ガ……サガルゥゥ……」

怪人は消毒液の霧と共に消滅し、ビニールのように変えられた野菜たちも、瑞々しい元の姿へと戻っていった。

夕暮れの畑。

戦いを終えたサラは、変身を解いて土屋の前に立っていた。

あの白いブーツも、ワンピースも、泥だらけだ。けれど、彼女はそれを拭おうともしない。

「……すみません、サラさん。綺麗な服を汚しちまって」

土屋が恐縮すると、サラは採れたてのキュウリを一本、袖でキュッと拭いて土屋に差し出した。

「ううん。これが『現場』の色だもの」

土屋はそれを受け取り、自分も一本手に取った。

パキッ。

二人並んで、畑の真ん中でキュウリをかじる。

洗いきれていない土の匂いが、ほんの少し鼻をかすめる。けれど、それが野菜の青臭い香りと混ざり合い、強烈な「生命」の味となって体に染み渡った。

「……美味い」

「ええ。土の味がするわ」

土屋は自分の手を見た。

やっぱり、爪の間は黒いままだし、節くれだっていて無骨だ。

でも、もう隠そうとは思わなかった。

この手は、この美味い野菜を生み出すための、誇り高き道具なのだから。

「また、買いに来ますね。土屋さんのお野菜」

「ああ……いつでも待ってるよ! とびきり泥んこのやつを用意しておくからな!」

夕日に照らされた二人の笑顔は、どんな加工アプリのフィルターを通すよりも、力強く輝いていた。

(第9話へ続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る