第6話 帰還
週が明ける頃、九条は「私用のため」とだけ書いた有休申請を提出した。
多胡は宿の手配も移動手段もすでに整えていた。村の名は公には出ていない。地図上では小さな地形の凹みに過ぎず、住所も行政区画も、いくつか前の統廃合で忘れられてしまっている。
出発の朝、東京は薄く晴れていた。
山手線の車窓を流れる景色はどこまでも平坦で、規則正しく塗り重ねられていた。だが新幹線で長野へ入り、さらにレンタカーで山道を登り始めると、空気の層が変わった。視界の奥に、何かが横たわっている。
多胡は地図も見ずに運転する。
車内ではほとんど会話がなかった。九条の膝の上には、あの夢の記録が綴られたノートが入った鞄置かれていた。
午後三時、山奥の峠道で車が止まった。
「ここからは歩きです」
多胡が静かに言った。
荷物を肩にかけ、登山道とも呼べない細道を、ふたりは黙って歩いた。苔の匂いと濡れた土の感触が、足裏から這い上がってくる。鳥の声も虫の声もない。葉の擦れる音だけが、音のすべてだった。
やがて視界が開け、山肌のくぼみに、かすかに人の痕跡が現れた。
「ここが……?」
九条が声を出すと、多胡はわずかに頷いた。
村は、声を持っていなかった。
誰も彼らを迎えに来なかった。犬の鳴き声も、焚き火の煙もなかった。
ただ、風の音のなかに、九条は認識できない何かを感じた。
あの夢で何度も聞いた音が、木々の隙間から、まるで“土の下”から滲み出すようにして、耳の奥に染み込んでくる。
九条は立ち止まり、無意識のうちに辺りを見回した。
「ここで……何があったんですか?」
九条は、なぜかわからないまま頷き、歩き出した。
土を踏みしめるたび、夢の記憶が背中にまとわりつくようだった。
そこに家があった。
茅葺の屋根はすでに一部が崩れ、壁面には蔦が這い、軒先には黒ずんだ竹箒が立てかけられていた。
九条は、無言のまま戸口に立ち、少し躊躇してから、軋む戸を引いた。
中は暗かった。
光の差さぬ空間に、湿った木の匂いと、炭のような残り香が満ちている。柱には手の跡のような煤が付き、床には誰かの靴跡が、かすかに乾いた泥の輪郭を残していた。
「……これは」
九条が呟いた。
そのとき、背後で足音がした。
斜面の奥から、黙って歩いてくる人々。老いた者、若い者、男、女──誰もが目を伏せたまま、ひとつの流れのように村の奥へと歩いていく。
「……彼らは?」
九条の問いに、多胡は短く答えた。
「“縁の者”です。」
「縁……?」
「この地に、あるいは“もがり”に何らかの形で関わりを持つ者たち。
彼らは村を離れて久しいが、こうして自然と集まってくるのです。」
九条は思わず人々の顔を探した。誰もが無表情で、ただ静かに歩いていた。
どこから来たのか、どこへ向かっているのか、わからない。
だがその歩みに、誰ひとりとして迷いはなかった。
そして、その流れに導かれるように、一人の老女が現れた。
背は曲がり、白髪は一つに結わえられ、手には布の包みを抱えていた。
彼女は九条の目の前で立ち止まり、わずかに顎を上げて九条を見た。
その瞳の奥に、夢でしか知らないはずの“火”が、かすかに揺らいだ気がした。
「……始まりますよ。」
老女はそれだけを言うと、ゆっくりと屋内に入っていった。
戸口の奥から、すでに複数の足音と、布が擦れる音が聞こえ始めていた。
九条は足を踏み出した。
家の中には、すでに数人の人影があった。誰も声を発していない。ただ、それぞれの動きが、長い時間の中で繰り返されてきた「何か」をなぞっていることだけが伝わってきた。
土間に、古びた木の棚。囲炉裏の跡。そこに、祭壇のような低い台が据えられている。白布が敷かれ、その上に布で包まれた細長い何かが横たわっていた。
──九条は、理解していた。
この場面を、すでに夢のなかで何度も見ていたことを。
いや、夢ではない。
記憶だ。
──自分の記憶ではない、しかし確かに刻まれている何かの記憶。
床には、炭で引かれた薄い線がある。円のようでいて、角がある。閉じているのに開いている──言語では捉えきれない構造。彼の脳が、それを解析しようとした瞬間、どこかで微かな音が鳴った。
──「火」が灯る。
誰かが、布を捲っていた。
あの老女だ。夢で何度も見た、あの痙攣するような手つき。その指が、白布の結び目を解いていく。
周囲の人々が少しずつ距離をとる。
老女の指が、中の「骨」に触れた。
それは、九条が初めて夢に見た夜と同じものだった。
脊椎に似て、昆虫に似て、海藻に似て、どこにも存在しない形に似ていた。
白布の下から現れたのは、脊椎にも似た、管のような骨のような、名のないもの。
老女がそれに薬指だけを添えたまま、しばらく動かなかった。
周囲の誰もが呼吸を潜めている。
──その瞬間、九条の視界が“二重”になった。
指がほどく、布の結び目。
ピンセットが、検体に触れる。
骨の輪郭が、あらわになる。
鋏が、融解された組織を断つ。
水が、何かと混じり合う。
濁った乳剤が、泡立つように揺れる。
呪の声が続く。
遠心機が、唸りを上げる。
白布の上に、濾されたものが残る。
試験管の上澄みに、何かが浮かぶ。
すべては「混在するものから、声を取り除く」ための作業だった。
──これは、同じだ。
目の前の老女の指先と、自分の指先が、ひとつに重なる。
微生物と声。
声と意識。
意識と記憶。
科学と儀礼。
──何も違わない。
脳がそれを解析していた。
けれど、ある瞬間から、九条はそれを追うことをやめた。
理解は訪れた。
しかしそれは、もはやどうでもよいことだった。
意識が、何か大きな流れに沈んでいく。
脈打つような静けさが、体の奥で広がる。
老女が再び手を動かし、何かを結び直す。
人々が呼吸を再開し、小さな音を立て始める。
床の線が、ほんのわずかに光を帯びる。
九条はただ、それを見ていた。
自分が見ているのではなく、何かに見せられているという感覚も、もうなかった。
ただ、そこにいた。
自分が個であるという感覚が、ゆっくりと奥へ奥へと退いていく。
やがて、もがりは終わった。
人々はそのまま、ゆるやかに立ち上がり、それぞれの方向へと歩き出す。
九条は動かなかった。
座ったまま、ただ、空気の変化だけを感じていた。
屋内の空気が少しだけ軽くなっている。
それが、すべてだった。
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