第5話 突合

土曜日の午後三時。

窓の外では雲が重く垂れ込め、光と影の境界が曖昧になっていた。

室内は静かだった。時計の秒針だけが、時の進行を律儀に刻んでいた。


九条は夢を記録したノートを鞄から取り出し、無言で多胡の前に差し出した。


多胡もまた、自分の手帳を開いていた。

ふたりは互いの記録を、ゆっくりと読み比べた。


数分の沈黙。

しかしそれは緊張のそれではなく、確認のための、慎重な沈黙だった。


やがて、ページを閉じた多胡が口を開いた。


「人物の動き、儀式の順序、骨のかたち、火の現れ方──」


九条は乾いた喉を意識しながら、水に手を伸ばした。

グラスの中で氷が静かに揺れる。


「しかし、あなたはもがりに参加していない…村に親族は?」


九条は首を横に振る。


多胡は机の上の白紙に一本の線を引いた。


「仮説ですが──これは、あなたと私の“意識”の経路です」


彼は、線の両端にそれぞれ「九条」「多胡」と書き込んだ。


「今、あなたと私は、ある“夢”を共有しています。

ただし、それは同じ夢を同じ時間に見ているのではなく、

“同じ構造の記憶”を、別々の経路から受け取っている状態です」


「構造の記憶……?」


「はい。記憶には個人的な記憶と、構造的な記憶があると仮定します。

後者は、個人の生とは無関係に刻まれる。

たとえば神話、儀式、特定の感覚、言語以前の知──それらが構造的な記憶です」


「では、それを私たちに見せているものは……何なんですか?」


多胡は少しだけ目を伏せ、そしてゆっくりとした声で語った。


「“意識ではない意識”。古層の記憶、あるいは、集合意識の断片。

私たちが夢と呼んでいるもののうち、ごく一部は、こうした外部からの流入によるのかもしれません」


「流入……?」


「私はもがりに参加した。しかし…」


「私は何もやっていません。夢を見始めた日も、ただ自分の仕事をしていただけです。」


そう言って、九条は鞄から実験ノートを取り出した。

奇妙な夢を見たことが記録されているページを開き、多胡に示す。


「このノートに記載されている通り、私はこの日、実験室でウイルス分離をしていました。家と研究室以外の場所には行っていません。」


九条の手元のノートを見下ろしたまま、多胡はしばらく動かなかった。


ページには、機械的な観察記録の合間に、一行だけ震える手で書かれた文字があった。


《自分がいない夢を見た》


「……なるほど」


小さく呟いた多胡は、視線を上げた。


「ウイルス分離の日付と、あなたが初めて夢を見た日。確かに一致していますね」


「ええ。細胞も正常で、何も出なかったはずなんです。けれど……」


「なぜか手が止まらなかった?」


九条は、頷いた。


「それは、“何か”があなたに接触した兆候です。あなたの意識に起きた異物感、それ自体が──既に、接触の証です」


「まるで、それを“もがり”と呼ぶような口ぶりですね」


多胡は薄く笑った。


「それは本来、村でしか成立しない儀式のはずでした。ですが、偶然とはいえ、あなたの手によって──それが実現してしまった可能性があります」


九条は、その言葉の意味を飲み込めず、思わず眉をひそめた。


「私が……なにかを、“継いだ”と?」


多胡は頷き、ポケットから薄い書類の束を取り出した。


「これは、ある村の葬送儀礼に関する古い民俗資料です。学会誌には掲載されていません。おそらく、かつて誰かが記録しようとしたものの、意味が解明されなかったのでしょう」


九条はページを受け取り、そこに描かれた粗いスケッチに目を落とした。


祭壇のようなものを囲む人物たち。その中央に横たわる布を被せられた遺体。そして、指を動かす女。


「この女が、毎夜夢に出てくる女性……?」


「その可能性は高いでしょう。」


「儀式の担い手……」


多胡は静かに頷いた。


「ただし、記録では彼女は既に何代も前に死んでいる人物です。

──けれど、その所作は、世代を超えて伝わっている。“記憶”として、あるいは“媒体”として」


「じゃあ、僕が見ているのは……彼女の記憶なんですか?」


「彼女だけではありません。彼女を通じて流れ込む、“集合の意識”。太古から脈々と続いてきた意識の断片たちです。

あなたの中に、それが──“触れた”」


言葉の最後に、多胡はわずかに声を落とした。


九条は、自分の体が冷えていることに気づいた。

グラスの氷はすでに解け、ただの水になっていた。


「ただし、これはまだ“仮説”にすぎません」


多胡はそう言って立ち上がった。


九条は顔を上げた。


「何です?」


多胡は小さく息を吸った。


「“村”に行きましょう」

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