第5話 霊安室
霊安室へと向かい、俺たちは階段を降りていた。
できるだけ音を立てないよう、足裏に神経が行く。それでも鳴る足音が鼓膜に響く。
消毒液のような香りが満ちている。それでも清潔感は感じない。
頬に貼りつく湿気が不快だった。
「凛さん。話してもいいですか?」
「なんだ」
「仮に、戦闘になったとして、こちらに武力はあるんですか?」
凛さんは引きつった笑いを見せた。
「戦闘ねぇ」
「まあ、武力は安心しろ。切れる札はある」
凛さんが黒く輝いた気がした。
凛さんは声色を変えて言った。
「そんなことより、帰ってもいいぞ? お前ら」
「正直、私の想定不足だ。これは素人が関わっていい事案じゃない」
俺はしばらく首をひねった。
「やめときます。いざって時に俺と卯月さんだけ売られそう」
凛さんは、息だけで笑った。
「まあ、正解だよ。お前たちが来る以上、守るべき対象は咲希だけじゃなくなる」
想定内。あるいは、俺たちをオトリにすることが彼女の安全策だったのかもしれない。
「というか、こんな地下に浮気の証拠があるの?」
卯月さんは身を震わせていた。
……そう言えば、浮気調査という名目だった。
「まあ、夫人の違和感の正体はわかるさ。きっと」
――霊安室前。
「多分、ここだ」
凛さんは霊安室の隣のドアを指差した。
「霊安室そのものだと人目がある。なら、そこから導線のいい場所」
凛さんの声色が少しかすれた。
自分の唾を飲む音がやけにうるさく聞こえた。
ドアノブを回す。
ガツ。
……鍵に行く手を阻まれた。
「よし、帰りますか」
「うん。咲希、お前だけ帰れ」
凛さんは速やかに髪留めのピンを変形させ、鍵穴にそれを通した。
「もう、探偵というより泥棒では?」
「黙れ。ここにおいてくぞ」
凛さんの目の色が一瞬変わった。
ガチャリ
今度こそ扉が開いた。
――
扉の奥から吹き出すのは消毒液の匂い。それに雨に濡れた鉄のような生臭さを混ぜた空気だった。
部屋に入るたび強まるのは冷気と腐敗臭。甘い匂いまで重なって、尋常ではない嫌悪感を抱かせた。
部屋の中央にある鈍色に光る解剖台が目についた。
卯月さんは喉を詰まらせながら言った。
「こ、こんなとこに証拠があるの?」
凛さんは眉間を押さえていた。
「まあ、さっきの日誌をUSBに入れてある。それに加え確たる証拠がほしい、かな」
「なあ、もうそろそろこいつにも説明を……」
凛さんがそう言ったところで、何かの物音が外からした。
俺たちは即座に外に出た。
――廊下。
奥から、ずるっ、ずるっ、っと肉を引きずる音。
ぐちゃぐちゃに縫い合わされた肉の塊が、何体も、足を引きずりながらゆっくりとこちらに近づいてきた。
毛の抜け落ちた頭皮、赤くただれた皮膚、口の端で泡立つ唾液。そんな生理的作用に”人間味”を感じてしまう。
日誌にあった『失敗作』だ。
「凛。まずいです。後方、私たちが降りてきた階段方向もグールで塞がれてます」
ほぼ同数、後方に見えた。十はくだらない数。
「なるほど、部屋の侵入がトリガー。入ってきたやつは口封じってわけだ」
距離は10mほど。ジリジリと腐った圧が近づいてくる。
凛さんはコンクリート壁に両手を当てた。
「おい、ちょいと時間を稼げ。私の魔法は時間がかかる」
「わ、わかんないけど、あれ倒せってことね?」
困惑しながらも、卯月さんは全身を白く輝かせながら、右腕を振った。
風切り音が鳴り、前方に鎌のような形を持つ風が射出された。
ズバンッ、とグールの人体が縦2つに割られた。
「はっ! なんだ、てめぇも魔術師様かよ! ずいぶんと楽になった!」
凛さんは吐き捨てるように叫んだ。
ボトン。
グールの中から、人間の脳みそや臓器がこぼれ出て、床に落ちた音がした。
「え、え? あれって」
卯月さんの表情が固まる。
「え? ひ、人、じゃないの?」
凛さんが当てた壁が格子状に黒く光った。骨組みのように見える。
それが手元に引き寄せられ、気づくと鉄の棒が握られていた。
鉄を打つような音と火花を散らせ、それは鋼に練り上がっていく。
「待たせた。完成だ」
彼女の手には刀が握られていた。
それを振り下ろし、
ズバン、グールの頭部を切り落とす。
ゴトン、頭部が地面に落ち、床を転がる。
だが、一体倒しても、状況は変わらない。
距離が近づき、腐肉の壁の圧が強まる。
「おい、桃! こっちだ! 階段方向のグールを片付ける!」
卯月さんは震えて固まっていた。
「え? 私、魔法で人を……」
「おい、馬鹿! 何やってんだ! 魔力なんざ十分だろ!」
「だって凛! あれは人、じゃないの?」
「……だろうな、だからどうした!」
凛さんの声は少し震えていた。
卯月さんは顔を真っ青にして言った。
「だって、じゃあ! ”これ”は人殺しじゃん!」
大きな舌打ちが聞こえた。
「人殺しだよ! 倫理が何だと言ってる場合かよ!」
卯月さんは戸惑い続ける。
「おい、頼むって! 私一人じゃ厳しい!」
凛さんの目には真剣さが映っていた。
「わ、わかってる……。でも……」
卯月さんはブンブン、と右腕を振った。何度も。
それでも白く輝くことはなかった。
「で、でない。私の魔法がでない……」
彼女はそう、つぶやき続けた。
「クソが! 今それ起こすかよ!」
「だからテメェを連れて来るの嫌だったんだよ!!」
刀の軌跡が白く光る。
卯月さんの震えがさらに強くなった。
先程よりグールが近づく。腐った息がかかりそうだ。
――ああ、もう限界だ。
衝動に駆られ、俺は凛の胸ぐらを掴んだ。
その瞬間、指先がぬるく滑った。俺の手が水で濡れていることに気づいた。
「てめぇ! いい加減にしろよ!!」
「……痛ってぇな! 言ってる場合かよ!!」
パシュ。
跳ねた水が、俺の耳の後ろを叩いた。
「最後の罵倒は、お前の八つ当たりでしかないだろ!!!」
パシュ。
首筋をつたって、冷たい水滴が落ちていった。
更に近づく。グールの影が伸び、足元まで舐めてきた。
「謝りゃ、グールが消えるのかよ!!」
「私はお前らを守るためにやってんだろうがよ!!!」
「だったら!!」
「だったら、卯月さんの『心』も守ってあげろよ……」
体の奥底、心臓の辺りに透き通るような温かさを感じた。
ぷつ、ぷつ、と何ががちぎれる音がした。
グシャリ。
甘ったるい腐肉の匂いが濃くなった。何故だか晴れやかな空気も感じた。
俺は右腕で空を掻き続ける卯月さんに近寄り、手を取った。
「もういいから」
「大丈夫。魔法なんて使おうとしなくていいから」
「俺たちでなんとかする」
できるだけ声色を落ち着かせてそう言った。
鼻で笑う音が聞こえた。
「ここにきてヒューマンドラマかよ。馬鹿馬鹿しい」
再び口論が始まろうとしたその時、
チョイチョイ、と咲希に袖を引かれた。
「お二人さん。あれ」
咲希は何かを指差した。
「あ? 咲希、てめえもそっち側か?」
「違う違う。もう戦う必要ないかも」
咲希が指さした方向はグールがいた二方向。
そこには、まとまりのない、ただの肉片があった。
濡れた縫合糸が、青白く泡立ち溶けていた。
ドサッ。
俺と凛は地面に体を預けるように倒れこんだ。
何故か俺の両手がうっすら濡れているように見えた。
青い光が滲んでいるようにも見えたが、瞬きするとそれは消えていた。
……疲れているせい、だ。
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