第25話 兗州
秋になった。実りの季節といわれ、各地で作物が収穫されるころ。
たった一州だけ、それとは真逆の光景が広がった。
これに至る経緯はさまざまに言われる。綜合してみると、袁紹派であった曹操の父、
いずれにせよ、陶謙も張闓に対して何か罰を下そうとした記録はないようなので、曹操から見れば陶謙が
のちに
「徐州大虐殺」
ともいわれる一連の侵攻行為には、袁紹も
ここでの援助行為は曹操の仇討ちを支援する意味ではなく、あくまで袁術派として圧力をかけ続けてきた陶謙を弱体化させるためだったのだろう。
もっとも、この時代は
「
という考えが美徳であったため、特に自らの父に対しての仕打ちに憤激した曹操を、純粋に応援する意味合いもあったのかもしれない。
翌年に当たる興平元年(194年)。曹操は兗州で反乱がおこったことを機に、徐州より撤退した。
陶謙は病を患い、そしてそれが重くなっていくと、後継者をだれにするのか悩んだ。
二人の子がいるが、いずれもひとつの州を支えられるほどの器を持っていない。配下にいる人間も優秀ではあるが、彼らの
陶謙は散々思い悩んだ挙句、各地を流浪しながら
劉備はこれを
一方、曹操は兗州一帯の反乱に苦慮していた。
信頼していた
この一戦のみで兗州の多くの城が張超らに投降し、寄る辺を無くしたのである。
曹操に味方をする城もあったが、それはたった数城に過ぎなかった。曹操も徐州から帰ってのち、
呂布はこのまま一気に曹操を叩き潰そうとしたが、
曹操は
──これで、また戦略を立て直せる
と一息吐くことができたが、いまだ穏やかな状況ではない。そこで、袁紹に対して
袁紹はこれを承諾して、曹操を援助した。
この時期、袁紹は地盤固めを進めており、
徐州牧となった劉備に対しても、もともと対立していた過去を洗って友好関係を築こうとした。袁紹が劉備の支配を容認し、劉備は袁譚を
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます