第21話 界橋

──公孫瓚こうそんさん、出陣せり

 その報が届いたのは、初平しょへい二年(191年)に入ってからだった。

 この前年、州での袁術えんじゅつ袁紹えんしょうによる領土の奪い合いと、袁術のもとに派遣した公孫越こうそんえつの死が伝わってきた。

 これに怒った公孫瓚は、そのまま軍を州に侵入させる動きを見せたのである。

 袁紹も公孫瓚が大きな動きを見せたことに危機感を抱いて、公孫瓚の従弟である公孫範こうそんはんに、自らの持つ勃海ぼっかい太守の印綬を送った。公孫瓚も印綬を受けはしたものの

──狐狸こりのごとき袁紹にしたがうものか

という思いは変えず、勃海郡に現れた黄巾賊こうきんぞく残党の三十万を公孫範と共に打ち倒すと、のちに迎える袁紹との決戦に向けて大量の捕虜を獲得した。

「領内の賊は討った。これからわれらは冀州に向かう」

 公孫瓚の軍は勢いづいて、州の内に侵入した。

 もともと、公孫瓚の軍は騎兵を主とした精強な軍である。また、もともと冀州は韓馥かんふくのものであり、それをだまし取った袁紹の動きに反感を持った城主が多かったことも想像できる。そのこともあってか、冀州各地の城主はこぞって門を開けた。

 袁紹は各地の城に軍を送って、奪還しようと図ったが、ついに界橋かいきょうにまで軍を進められたのである。


 顔良がんりょうにとって、戦場は黄巾が決起して以来の場所であった。公孫瓚が橋の向こうに軍を駐屯させているのが、よく見える。

 まだ戦闘を始めていないせいか、この場所に血が流れるとは思えないほどに穏やかな風があたりを吹いている。

「兄上──」

 公孫瓚がここまで、ほぼ抵抗のないままに進んできたということは、兄の居るも門を開いたということであろう。ただ、長兄ならば許せ、とは言わないはずだ。顔毅がんきという名の通り、一本気なところがある。むしろ

──えん冀州きしゅうに命じられたのならば、遠慮なく攻めるが良い

とすら言うかもしれない。そうして敵同士になったのなら、兄は自分に容赦はしないだろう。

 実家の次兄はどうしているであろうか。くらから不要に徴発されていないだろうか。満遍まんべんなく畑を耕すことはできていようか。

 さきに自分が講じた策が、混迷を極めるための一助になったような気がして、悔いる気持ちがあった。

きく将軍、公孫瓚の軍は整っています。本当に歩兵が騎兵にかなうのでしょうか」

 顔良は先陣の主将である麴義きくぎに問いかけた。

 袁紹が韓馥から冀州を譲られた際に、先んじて袁紹の下に降った人物である。

 麴義は黙って公孫瓚の軍を見ていた。あごさすりながら、じっくりと吟味するような恰好をしている。

「お前は、勝てないと思うか。叔善しゅくぜん

「歩騎を比べると八倍の差があるといいます。かの軍とわれらの軍を比べると、数は変わらないのに騎兵は圧倒的に向こうのほうが多く、洗練されています」

 顔良は自分の思う正直な所感を述べた。しかし、これを聞いた麴義は鼻哂びしんした。

「甘いな。数と質だけで判断するのは戦を知らない」

 戦の経験は麴義のほうが圧倒的に多い。彼はりょう州の生まれで、何度となく異民族と戦った経験のある男である。

 顔良は個人で戦ったことはあるが、将軍として戦場を俯瞰ふかんしたことはない。きっと知らない視点が自分の目の前にはあるはずだ。

きく将軍、我々はどのように動けばよいのでしょうか」

「聞くだけか。知らないのなら、知ろうとするのなら、黙ってこれから起こることを目に焼き付けろ。そして、後から考えろ。盗めるものは盗め」

 麴義は革袋に入った水を一口飲むと、自分の寝る場所へと帰っていった。


 翌日、公孫瓚の軍は本隊を除いた主力が、橋を越えてきた。そして袁紹軍の目前に迫ると、陣形を整えて今にもぶつかり合おうという姿勢をとった。

 麴義らの軍は袁紹軍の本営から突出するようにして、布陣していた。

 将である麴義と顔良の前には大きな盾を持った歩兵が八百。そして両翼には兵が二百五十ずつ並んでいる。

──こんなに少ない兵で白馬義従はくばぎじゅうを止めることができるのか

 彼方には厳綱げんこうの帥いる歩兵の大軍と、翼を広げるようにして左右に並ぶ白馬の軍勢が見える。彼らは間違いなく、突出して配置されている自分たちを狙ってくる。

 麴義の配置した千三百の軍勢は、みな盾に身を隠し、防御の姿勢をとっている。

 攻めてこないと見た公孫瓚の軍は、袁紹軍の先鋒が少なく突出しているのを見て

──まずは、この軍を討って士気を挙げる

と狙いを定めて軍を動かした。

「将軍、きましたぞ」

 顔良が麴義にそういったが、麴義は何も反応を示さなかった。敵の騎兵はすでに一里(約400m)もないところまで来ている。

 顔良の心の臓が、鼓動を速くした。

──このまま、われはかれて死ぬのではないか

 そういった想像が冷たい汗を流させる。その焦燥しょうそうを抱えた顔良とは対蹠たいしょ的に、麴義は平静としたままであった。

 あと半里(約200m)。蹄音ていおんが大きく聞こえる。敵の兵があげる殺気立った声も、耳元で炸裂しているように感じる。

 あと百歩(約140m)。顔良は眩暈めまいもよおした。勝つための策とは何なのか。空気が揺れて、砂で空気が煙る。

 あと五十歩(約70m)。突如として麴義が立ち上がり、手に持っていた小旗を振るった。

 周りの兵もそれに従って立ち上がる。大音声を発し、弩を放つ。

 ここまで駆けてきた騎馬たちは、突如立ち上がった鎧士がいしたちの姿と、雷鳴のような兵の声とでその足を急に止めた。

 後ろから来る兵と、前から撃たれる矢の雨とに揉まれ、混乱した敵軍をた麴義は

「突撃をかけるぞ」

と更なる気勢を上げさせ、一気に突っ込んでいった。

 顔良も剣を抜き、駆けていく歩兵を後ろから追いかける。敵との距離は近い。百歩も行かぬうちに敵兵の集団と当たった。ひたすらに剣を振り二、三人を斬った。

 すると、馬に乗った一人の武者が鋭い眼光をこちらに向けて、突っ込んできた。

「袁紹軍の将とみた。覚悟」

 そう叫びながら武者は矛を振り上げた。顔良はすんでのところで一撃を避けると、次の一撃に備えて剣を構える。

 二回、三回。相手の斬撃を避けたが、姿勢を崩してしまった。

──ここでわるか

 そう思った瞬間、武者に矢が当たって馬から落ちた。顔良はすかさず剣をその武者に突き刺し、止めを刺す。

 武者の乗っていた馬が逃げると、その陰には麴義が立っていた。

「ぼさっとするな。来い」

 そういうと、橋の方向に向かって走り出した。顔良も、これにおくれを取れば自分は大きな経験を失うと思って、すぐにその姿を追いかけ始めた。

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