第16話 合従

 翌年、初平しょへい元年(190年)の正月。東郡とうぐん太守たいしゅ橋瑁きょうぼう檄文げきぶんを発した。

董卓とうたく、権をほしいままに暴虐を働くとは、許すまじ」

 彼らの起こした反董卓の動きは、よく漢の衰退を見越した各諸侯や群雄による決起である、という見方をされることがある。

 確かに一国の相国となった董卓に対して反抗するということは、その権力基盤を確保させた朝廷に対して叛意はんいを向けるということである。もとは陳留ちんりゅう王であり、少帝の代わりに推戴すいたいされた献帝けんてい(ここではあえて通りの良いこの諡号しごうを使う)も

──われの生殺与奪は董卓が握っているのか、諸将が握っているのか

そのことで恐怖心があったはずである。

 ところが、この見方には疑問もある。

 これまで外戚がいせき宦官かんがんの間で争われていた、天子を元手とした権力争いがあった。そして劉辯りゅうべん劉協りゅうきょうの帝位争いの際に、もしくはそれ以前の党錮とうこきんの際に官僚とまで結びついて拡大され、収拾しゅうしゅうがつかなくなった結果が、この動きなのではないか。

 つまり董卓と献帝は距離が近いだけで、決して反董卓は漢から離脱する動きであると直結はできないだろう。

 いずれにせよ、天子を守らんとして漢の内から決起したはずの諸将が、今度は天子のいる宮城の外から漢を攻めるような図式になったのは、この国の衰退を露骨に表す事態であった。

 その反董卓を抱げる連合軍で盟主として推されたのが、勃海ぼっかい太守とされていた袁紹えんしょうだった。

 前述したとおり、袁紹は名門の生まれであり、ことに及んで果敢な人である。えん氏の生まれの嫡流ちゃくりゅうにあたる人物に、同じ年代の袁術えんじゅつという人物もいるが彼はこの時期、朝廷の中にあって動くことができなかった。

 州よりった袁紹の軍は、洛陽らくようから黄河こうがを挟んだ位置にある河内かだい郡に駐屯し、都をにらむ格好としたが

──董卓、ひいては漢の軍は精強である

として攻め込むことを躊躇ちゅうちょしていた。


 顔良がんりょうはその能力を買われて、兵を監督する任についていた。

 しかし買われた能力は賊将を討った剛腕ではなく、そこに至るまでの機転である。

「袁太守は、何を思われて河内に駐屯されているのだろうか」

 戦では機先を制する者こそが勝利するのではないのか。董卓の疑心が膨れ上がる前に軍を洛陽に入れてしまえば、自然と洛陽の内から董卓を討つ者が出るはずである。

──私の眼は狂っていたのか

 そんな疑問が頭の中を巡った。

 初めて袁紹の立ち振る舞いを見たとき、顔良は

──太陽のような人である

 と感じた。言葉がはっきりとしていて、おごりを見せない。鷹揚おうよう両手もろてを振って歩いたと思えば、将兵とはいつくしみを持った態度で接する。

 この人の下で働きを重ねれば、まず間違いはない。この明るさと温かさに照らされない人はいないだろうという直観である。

 しかし、ここでは軍をいつまで経っても進発させない。曹操そうそうという人物からも

躊躇ためらってはいけない」

発破はっぱをかける文が届いているらしいが、袁紹らの軍は動かなかった。

 これは当然、単純に怖気づいたというわけではなく、河内郡と洛陽のある河南尹かなんいんの間には、言わずと知れた黄河があるためである。これを渡って突撃をかけるのは通常の進軍より労力がかかるし、渡った後に反撃を仕掛けられれば水を背にしてしまう。

 さらに言えば袁紹は盟主であって、その軍が打ち破られるようなことがあれば連合が離散しかねないという理由もある。

 この文を本当に曹操から受け取ったのならば、袁紹はむしろ

──宴ばかりの酸棗さんそうの軍に言え

という感想を持っただろう。むろん記録には曹操は酸棗の軍にも送ったとあるので、曹操には水を背にしたとしても、勝つ道筋が見えていたのかもしれない。

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