第12話 張純

 黄巾こうきんらんから三年経った中平ちゅうへい四年(187年)。中山ちゅうざん国の太守たいしゅを務めたこともある張純ちょうじゅんという人物が反乱を起こす。彼はこのときゆう州にいたが、黄巾の乱によって辺境の地における漢の勢力が弱まったことを見て

──いまならば張温ちょうおんと漢に仕返しができる

と、かつての恨みを晴らすように烏桓大人うがんたいじん丘力居きゅうりききょと手を組んでゆう広陽こうよう郡のけいを中心にして周りを荒らし、右北平ゆうほくへい郡や遼西りょうせい郡の太守を殺して幽州を掌握しょうあくした。

 このとき朝廷は、同じく反乱を起こしていた涼州りょうしゅう軍閥ぐんばつの討伐のために、各地に派兵を求めていた。それに応じた公孫瓚こうそんさんは、自らの本拠である遼西りょうせい郡の令支れいしからりょう州に向かおうと幽州を移動していたおり

「張純反乱」

の報を聞いたのである。

 実を言えば、張純の乱の原因の一端はこの公孫瓚の出師すいしにあった。

 涼州の反乱に対処せんとした朝廷から、その督軍とくぐんを引き受けた張温ちょうおん将帥しょうすいを選定する際、張純が従軍を望んでいたのにも関わらず、彼ではなく公孫瓚を呼んだのである。

 張温が張純を敢えて呼ばず、公孫瓚に従軍の指令を出した理由はよくわかっていない。

 あるいは、張温は臆病だったとあるので、張純の動きにある自ら戦に参加しようとしたり、恨みを抱いて乱を起こしたという人物描写から想像できる、彼のはげしい性格を嫌ったのは一因にあろう。


 さて、公孫瓚の軍と張純、丘力居の軍は幽州にて戈矛かぼうを交えたが、強力な騎馬部隊を編成していた公孫瓚が野戦において連戦連勝した。

 叛乱軍を都度敗走させたが、いまだ黄巾の乱の余波が残っているせいで、張純の乱とは別に各地で叛乱が起こってしまう。

 張純は遼東りょうとうに近い石門山せきもんざんという地で公孫瓚に敗れると、多勢に無勢であると思ったのか、長城の北へと逃れた一方で、丘力居は逆に州、せい州、じょ州に進出して各地の反乱勢力を糾合し、十万ともいえる勢力を築き上げて、再び幽州に向かった。

 張純を追いかけて深追いをしてしまった公孫瓚は、北辺にある管子かんし城にて南から戻ってきた丘力居に包囲を受けて、数百日という戦闘の末に両軍の糧秣りょうまつが尽きて双方が撤退すると、朝廷はこの乱がなかなか収まらないのを見て宗正そうせい(皇室の名簿管理や諮問しもんなどを行う)の劉虞りゅうぐを幽州へと派遣した。

 この劉虞は、後漢創設者の光武帝の長男である劉彊りゅうきょう末裔まつえいという由緒ある血統と、幽州の刺史を務めたときの徳治に評判があった人物である。


 彼が幽州に入った途端、状況は一転した。もともと烏桓うがんなどの異民族に対して融和的な態度をとって、それによって慕われていた人物であるため、烏桓大人たる丘力居も

──劉虞殿なら間違えまい

 と講和の準備を始めた。

 しかし、これに焦ったのはこれまで命を懸けて戦ってきた公孫瓚とその配下である。

 たくさんの将兵を失いながら張純や丘力居に対峙してきたというのに、劉虞の舌口ひとつで納められてしまっては自分たちの面目が立たない。

 その焦りから公孫瓚はなんと、丘力居が劉虞に送った使者を捕らえて斬ってしまった。

 公孫瓚はこの首を

りゅう伯安はくあん様からの返答である」

という書簡しょかんとともに丘力居へ送ったが、これまでの劉虞があくまで融和を基にした外交を敷いてきたことを知っていた丘力居は

──きっと公孫瓚の策謀に違いあるまい

と相手にせずに再び使者を出し、今度は見つかりにくい間道を通らせて劉虞のもとに辿り着かせた。

 劉虞は

「確かに」

と短い言葉のもとにこれを受け取ると、展開していた軍を撤退させ、万一の時に備えて土地勘のある公孫瓚を、そのまま右北平うほくへいに駐屯させたうえで帰還した。

 張純は孤立したため鮮卑せんぴのもとに逃げ込んだが、のちに自らの食客に殺されることになる。

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