第5話『会いたいよ』
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### エピソード「石ころ一つ分の正義」
**【数日後・警察署 取-調室】**
富樫が書類を片付け始める。その背中に向かって、少年は黙って俯いていた。
「しかし、人が悪い。『いうわけねーだろ!』とはな」
富樫は、肩越しに軽口を叩いた。
「おかげでこっちは、本人から直接特徴を聞く羽目になったぞ」
「……」
返事はない。
少年の脳裏に焼き付いているのは、あの夜の公園だ。
静かなブランコの前。「もう大丈夫だ」と告げ、去ろうとした背中に、「待って!」という声が突き刺さった。
振り返ると、すぐ目の前に彼女がいた。涙で濡れた瞳が、真っ直ぐに自分を見上げている。冷たい指先が、必死な力で自分の手を握りしめた。
「ありがとう!」
はっきりとした声だった。
そして、何かを言う前に、彼女が少しだけ背伸びをした。
柔らかい何かが、唇に触れた。
一瞬の出来事だった。驚きで固まる少年の前で、彼女はすぐに身を引くと、もう一度「ありがとう」と囁き、夜の闇へと駆け去っていった。
唇にかすかに残る感触。握られた手の温もり。
あれは、何だったのか。
「…おい、聞いてるのか」
富樫の声で、少年はハッと我に返った。
気づけば、声が漏れていた。
「…なあ」
「なんだ」
「…あの女に、もう一度会えるか」
それは、心の底からの問いだった。
富樫の手が、ぴたりと止まる。ゆっくりと振り返ったその目は、ただ静かに少年を見つめていた。
「……会いたいのか」
核心を突く問いに、もう虚勢は張れなかった。
唇の感触が、脳裏で何度も再生される。あれがただの感謝だったのか、確かめたい。いや、もしそうじゃなかったら、と期待する自分がいる。
あれは、恋だったのだ。
「…会いてえよ」
絞り出すような声で、少年は認めた。
富樫は、その必死な表情を見て、ふう、と静かに息を吐いた。
「…そうか。まあ、難しいだろうな」
その声は、厳しい現実を告げる大人のものだった。
「彼女は今、遠くの親戚のところにいる。…あの夜のことは、彼女にとっては思い出したくもない記憶だ。お前の顔を見れば、嫌でも思い出す」
少年の喉が、ごくりと鳴った。
「それに、お前自身も、これから自分の罪と向き合う。しばらくは、誰かと自由に会える立場じゃなくなる。…わかるだろ?」
わかっていた。わかっていたはずなのに、唇に残る感触が「また会える」と囁く。だが、富樫の言葉がその淡い期待を打ち砕いた。
少年は唇を固く結び、俯いたまま小さく頷いた。
たった一度のキス。それが、最初で最後の思い出になる。
しばらくの沈黙の後、少年は顔を上げた。その目から、涙も動揺も消えていた。
「…わかった。もう、いい」
「いいのか?」
「ああ。…その代わり、見てろよ」
少年は、富樫の目をまっすぐに見据えた。
「俺が、ちゃんとケジメつけて、今よりずっとマシな男になるとこをさ。そしたら…いつか、どこかで会った時に、胸張れる」
それは、あの夜の唇に捧げる、少年なりの誓いだった。
富樫は、一瞬目を見開いた後、その口元に深い笑みを刻む。それは、面白いものを見た時の笑いではなく、確かな成長を見届けた男の、満足げな微笑みだった。
「…フッ、言ってくれる」
富樫は立ち上がると、少年の肩を一度だけ、力強く叩いた。
「わかった。特等席で見ててやる」
窓から差し込む西日が、取調室をオレンジ色に染めている。
一つの石ころが始めた物語は、唇に残る淡い感触と共に、一人の男の始まりを告げて、静かに幕を下ろそうとしていた。
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