第4話『もう一度会いたい』
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### エピソード「石ころ一つ分の正義」
**【数日後・警察署 取調室】**
幾度目かの聴取が終わり、取調室には気怠い空気が流れていた。
富樫が書類を片付け始める。その背中に向かって、少年は黙って俯いている。
「しかし、人が悪い。『いうわけねーだろ!』とはな」
富樫は、肩越しに軽口を叩いた。
「おかげでこっちは、本人から直接特徴を聞く羽目になったぞ」
「……」
返事はない。
少年の頭の中では、あの夜の出来事がぐるぐると回っていた。
なぜ、あんな反抗的な言葉を叫んでしまったのか。
違う。
格好つけたかったわけじゃない。
思い出していたのは、自転車の後ろに乗せた背中の温もり。街灯の下で見た、涙に濡れた長いまつげ。公園で聞いた、消え入りそうな「ありがとう」の声。
そのすべてが、胸の奥に小さな石ころのように引っかかって、取れないでいた。
沈黙を破ったのは、少年の方だった。
「…なあ」
「なんだ」
書類を綴じる手を止めず、富樫が応える。
「…あの女に、もう一度会えるか」
ポツリと漏れた言葉は、自分でも驚くほど弱々しかった。
富樫の手が、ぴたりと止まる。ゆっくりと振り返ったその目は、からかうでもなく、ただ静かに少年を見つめていた。
「……会いたいのか」
核心を突く問いに、心臓が大きく跳ねる。
「ち、ちげーよ!」
咄嗟に声を荒らげたが、その動揺は隠せない。
「ただ…元気にしてんのかって、思っただけだ!」
富樫は、少年の必死の抵抗を黙って聞いていたが、やがて、ふう、と静かに息を吐いた。
「…難しいだろうな」
その声は、厳しい現実を告げる大人のものだった。
「彼女は今、遠くの親戚のところにいる。新しい生活を始める準備中だ。…あの夜のことは、彼女にとっては思い出したくもない記憶の一部だ。お前の顔を見れば、嫌でも思い出す」
少年の喉が、ごくりと鳴った。
「それに、お前自身も、これから自分の罪と向き合う。しばらくは、誰かと自由に会える立場じゃなくなる。…わかるだろ?」
それは、否定しようのない事実だった。
わかっていた。わかっていたはずなのに、はっきりと突きつけられると、胸にぽっかりと穴が空いたようだった。
少年は唇を噛みしめ、俯いたまま小さく頷いた。
初めて人を助けたいと思った。守ってやりたいと思った。
それが、恋だったのだと、会えないとわかった今、痛いほどに理解した。
しばらくの沈黙の後、少年は顔を上げた。その目から、涙も動揺も消えていた。
「…わかった。もう、いい」
「いいのか?」
「ああ。…その代わり、見てろよ」
少年は、富樫の目をまっすぐに見据えた。
「俺が、ちゃんとケジメつけて、今よりずっとマシな男になるとこをさ。そしたら…いつか、どこかで会った時に、胸張れる」
それは、叶わない恋に捧げる、少年なりの誓いだった。
富樫は、一瞬目を見開いた後、その口元に深い笑みを刻む。それは、面白いものを見た時の笑いではなく、確かな成長を見届けた男の、満足げな微笑みだった。
「…フッ、言ってくれる」
富樫は立ち上がると、少年の肩を一度だけ、力強く叩いた。
「わかった。特等席で見ててやる」
窓から差し込む西日が、取調室をオレンジ色に染めている。
一つの石ころが始めた物語は、ひとつの恋の終わりと、一人の男の始まりを告げて、静かに幕を下ろそうとしていた。
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