地下水道牢獄

@accumulation

序章

 その男の一家が消えたという話は、大学の中では噂として扱われていました。

 事件でも事故でもなく、単に「いなくなった」という扱いです。講義の合間や、学食の列、コピー機の前で、断片的に語られる程度でした。誰も詳しい事情を知らず、知ろうともしていませんでした。


 消えたのは、大学に通う男子学生でした。

 オカルト研究部に所属していた、という情報だけが、噂に一貫して付随していました。部の活動内容は曖昧で、学内でも半ば冗談のように扱われていました。私は彼と面識はありませんでしたが、名前には聞き覚えがありました。


 彼だけでなく、家族全員が消えた。

 両親と、同居していた妹。住んでいた家は空のままで、生活用品も残っていたらしい。警察は介入したが、夜逃げの可能性が高いとして、それ以上の動きはなかった。そういう話でした。


 私が直接その件に関わることになったのは、友人から声をかけられたのがきっかけです。


 昼休み、学内のベンチで履修表を確認していると、彼女は私の前に立ちました。顔色が悪く、唇の色が抜けていました。目は開いているのに、焦点が合っていないようにしer ていました。私は、その時点で、何かが起きているのだと判断しました。


 「手伝ってほしい」


 彼女は、そう言いました。

 声は低く、抑えられていました。泣いてはいませんでした。泣く余裕がない状態だと理解しました。


 彼女は、消えた男の恋人でした。

 交際していることは知っていましたが、詳しい事情を聞いたことはありません。彼女は、警察に相談したこと、しかし夜逃げとして処理され、捜索が打ち切られたことを、順序立てて説明しました。感情は混じっていませんでした。ただ事実を並べているだけでした。


 「連絡が取れなくなる直前まで、普通だった」


 彼女はそう言いました。

 借金の話も聞いていない。家庭内の問題も知らない。置いていった物が多すぎる。携帯も財布も、家に残っていた。彼女の話は、どれも決定打に欠けていましたが、それだけに切実でした。


 大学にも相談したが、個人の問題として扱われた。

 オカルト研究部の活動についても調べたが、正式な記録はほとんど残っていなかった。彼女は、そうした経緯を、淡々と話しました。途中で言葉に詰まることはありませんでしたが、何度も同じ内容を繰り返しました。


 「せめて、何が起きたのか知りたい」


 彼女はそう言いました。

 私は、その言葉が「助けてほしい」と同義であることを理解しました。


 彼女は、大学内で情報提供を呼びかけていました。

 掲示板に紙を貼り、共通の知人に声をかけ、噂でもいいから教えてほしいと頼んで回っていると言いました。その手伝いを、私に頼みたいのだと。


 私は、即答しませんでした。

 善意で動くことに、慣れていません。ただ、午後の講義は出席を取らないこと、レポート提出までに余裕があることを思い出しました。時間的には問題がない。それが、私の判断基準でした。


 「単位のついでなら」


 そう言って、私は了承しました。

 彼女は、それだけで十分だったようで、何度も小さく頭を下げました。


 数日後、私たちは、彼の家に行くことにしました。

 警察の立ち入りはすでに終わっており、立ち入り禁止にもなっていない。外から様子を見るだけなら問題はない、というのが彼女の判断でした。


 場所は、大学から電車で数駅の住宅街でした。

 駅から歩いて十分ほど。道は整備されており、周囲の家々も新しくはありませんが、荒れてはいませんでした。


 家は、ごく普通でした。

 一軒家で、外観に異常はありません。郵便受けには広告が溜まっていましたが、数日分程度です。庭の植物も枯れていません。生活が、途中で止まったような印象でした。


 私たちは、玄関の前で立ち止まりました。

 チャイムを押す理由はありません。誰も出てこないことは分かっていました。それでも、そこに「人がいた痕跡」が残っていることが、妙に現実感を伴って迫ってきました。


 私は、そのとき、違和感を覚えました。

 家が静かすぎる。音がないというより、音が入り込まない。風の音も、遠くの車の音も、ここだけ少し鈍っている。


 気のせいだと判断しました。

 そう判断するしか、ありませんでした。


 この時点では、まだ私は知らなかったのです。

 この家が、彼らの不在を示す場所ではなく、何かに触れてしまう場所だったということを。




 家に入るつもりはありませんでした。


 私たちは門扉の前で立ち止まり、外観を確認するだけのはずでした。警察の規制線はすでに撤去されており、立ち入り禁止の札もありませんでしたが、それは「自由に入っていい」という意味ではありません。私の中では、境界は明確でした。


 友人は、玄関の前で立ち止まり、ドアノブに手をかけました。

 私は反射的に、その手首を掴みました。


 「開いてるかもしれない」


 彼女はそう言いました。

 声は低く、確信めいていました。私は首を振りました。開いているかどうかは問題ではありません。


 ドアノブは、回りませんでした。

 施錠されていました。金属が噛み合う感触が、指先に伝わってきました。


 友人は、一歩下がり、周囲を見回しました。

 私はその時点で、嫌な予感を覚えました。彼女の視線は、窓に向いていました。


 勝手口の窓は、古いタイプでした。

 曇りガラスで、外から中は見えません。鍵の位置が低く、工具があれば外せる構造です。私は、それを知っていました。なぜ知っているのかは、考えませんでした。


 友人は、足元に落ちていた石を拾いました。

 私は止めませんでした。止める判断が、一瞬遅れました。


 ガラスが割れる音は、思ったよりも小さかった。

 高い音ではなく、鈍い音でした。蜘蛛の巣状にひびが入り、友人はその中央を、躊躇なく叩きました。破片が内側に落ちる音がしました。


 私は、すぐに周囲を確認しました。

 人影はありません。通行人もいない。時間帯と場所を考えれば、不自然ではありませんでした。


 窓から手を入れ、鍵を外す。

 友人の動きには、迷いがありませんでした。私は、そのことに違和感を覚えましたが、口には出しませんでした。


 玄関のドアは、内側から開きました。


 中に入った瞬間、空気が変わりました。

 湿度が高い。埃の匂いはありません。人が生活していた匂いが、そのまま残っていました。


 友人は、靴を脱ぎ、上がりました。

 私は、数秒遅れて、同じようにしました。


 廊下は静かでした。

 床板は軋まず、時計の音もしない。電気は落とされていましたが、昼間の光で十分に見渡せました。生活が、途中で切り取られたような印象でした。


 友人は、一直線に台所へ向かいました。

 迷いがありませんでした。私は、その背中を見ながら、判断を誤ったと考えました。


 台所で、彼女は立ち止まりました。


 蛇口の前です。


 しばらく、何も言わずに立っていました。

 呼吸が浅く、肩が強張っている。私は声をかけようとして、やめました。邪魔をしてはいけないと判断しました。


 「……聞こえた」


 友人は、振り返らずに言いました。


 「蛇口から、声がした気がする」


 私は、即座に判断しました。

 錯乱状態です。


 将来を誓っていた恋人と、その家族一家が忽然と消え、警察にも否定され、大学でも取り合ってもらえない。その状況で、幻聴が出ても不自然ではありません。


 私は、彼女の肩を掴みました。

 拒否されましたが、力は弱かった。私はそのまま彼女を引き寄せ、台所から離そうとしました。


 「今日は帰ろう」


 彼女は抵抗しました。

 蛇口に手を伸ばそうとしました。私はそれを抑え、無理やり玄関へ引きずりました。乱暴だったかもしれませんが、必要な処置でした。


 外に出たとき、彼女は泣いていませんでした。

 ただ、同じ言葉を繰り返していました。聞こえた、確かに聞こえた、と。


 私は、それ以上取り合いませんでした。


 それから、彼女の様子は日を追うごとにおかしくなっていきました。


 講義に来なくなり、連絡が取れなくなり、会えば同じ話を繰り返しました。蛇口、水音、配管、オカルト研究部で恋人が調べていたという資料。内容は断片的で、繋がりがありませんでした。


 私は、精神的疲労による一過性の錯乱だと判断していました。


 二週間後、彼女は私の部屋に来ました。


 インターホンを鳴らし続け、私が出るまで止めませんでした。

 ドアを開けると、彼女は段ボール箱を抱えて立っていました。


 中身は、紙でした。


 床に叩きつけられた印刷物は、膨大な量でした。論文、記事、掲示板のログ、意味の分からない図。彼女は、据わった目でそれらを指差し、涙を流しながら言いました。


 「地下に、王国がある」


 私は、冷ややかに笑いました。

 錯乱が進行していると判断しました。


 「明日の夜、手伝う」


 なだめるために、そう言いました。

 彼女は、その言葉だけで落ち着きました。


 その日の夜、一本の動画が送られてきました。


 動画は、すぐには再生しませんでした。


 必要性を感じなかったからです。

 錯乱状態の記録に、意味はありません。私はそう判断しました。


 それでも、数分後には再生していました。


 画面の中で、友人は台所に立っていました。

 例の家です。蛇口の前。床には血が落ちていました。量が多い。転倒によるものではありません。意図的に皮膚を傷つけた痕でした。


 彼女は、何かを呟いていました。

 音声は乱れており、言葉としては聞き取れませんでした。錯乱が進行している、と私は考えました。


 彼女は、蛇口に頭を突っ込もうとしました。

 何度も失敗し、血が増えていきました。私は画面から目を離せませんでした。


 そのとき、蛇口が大きくなりました。


 そう見えました。

 画面の歪みではありませんでした。友人の頭が、飲み込まれました。


 動画は、その後も数十秒間、流れ続けました。

 何も映らない台所。ごぽごぽという音。最後に、ガタンという音がして、切れました。


 私は警察に届けました。


 しかし、動画は消えていました。

 端末の中から、完全に。


 友人の情報も、消えていました。

 大学の在籍記録は残っていましたが、死亡扱いでした。私が過去に行った海外ボランティア活動の最中、地雷原に入り、死亡したことになっていました。


 私は、自分の記憶に齟齬が生じていることを確認しました。


 そして、意思を固めました。


 時間は、動画の最後のフレームから推測しました。

 窓に映り込んだ月の角度。方角。高さ。正確である必要はありません。同じ条件を再現できれば、それで十分でした。


 私は、自宅の台所に立ちました。


 本来なら友人が消えた例の家で行うことが再現性を高めるものだったのかもしれません。

 ですが私には自主的に犯罪に手を染めることはできかねました。ネット社会故の怯えです。


 床に広げた印刷物から、必要なものだけを拾い上げました。意味があるかどうかは考えません。友人が信じた手順を、なぞることが目的でした。


 蛇口の周囲を飾り付け、煙草に火をつけました。

 冷ややかに笑いました。


 思い出したのは、海外でのボランティアでした。

 医療を目指した理由。戦争を止めたいという幼稚な願い。助けた数より、助けられなかった数の方が圧倒的に多かったこと。


 記憶が鮮明になるほど、唇が震えました。

 煙が、波打ちました。


 ごぽごぽと音がしました。


 幻覚だと判断しました。


 蛇口が大きくなったのか、

 それとも、私が小さくなったのか。


 ぬるりと、何かが頭皮を覆いました。

 それが何なのか、私には分かりませんでした。










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