第2話 死者の目覚め
朝の教室は、いつもより静かだった。
静か、といっても無音じゃない。人がいる以上、椅子を引く音もするし、消しゴムのカスを払う音もする。誰かが小声で「マジかよ」と言うのも聞こえる。
ただ、笑いがない。
いつもなら一つは飛ぶ、くだらない冗談が飛ばない。
その原因は、教室の前に立っている担任の顔を見れば分かった。いつもは眠そうで、でも適当に明るくて、「お前らさー」って軽く言う人なのに、今日は口元が固い。
「……今朝、連絡が入りました」
担任は黒板に手を置いたまま、ゆっくり言った。
「二年の神崎洸介くんが、昨夜、亡くなりました」
一瞬、教室の空気が止まる。
次に、ざわざわと波が広がった。
「え……」
「神崎先輩って、あの……バスケ部の?」
「寝てる間のやつ?」
誰かが「マジで?」と声に出す。担任は眉を寄せた。
「死因はまだはっきりしていないそうです。昨夜、自宅で就寝中に……」
そこまで聞いたところで、僕の耳は勝手に遠ざかった。
神崎洸介。
名前を聞いて、やっとはっきりした。
夢の中で、廃遊園地のゲートのそばに立っていた先輩だ。
あの顔。あの制服。あの、何か言いたげな目。
それが、現実の名前と繋がった瞬間、胃がきゅっと縮んだ。
僕は昨日の夜、夢の中で死んだ。
そして、先輩は現実で死んだ。
偶然にしては、嫌な一致が多すぎる。
「……相原」
担任が僕を見た気がして、僕は顔を上げた。
「大丈夫か? 顔色悪いぞ」
「……大丈夫です」
嘘だった。でも、こういうときに「大丈夫じゃないです」と言うのは、普通じゃない。
僕は普通でいたい。
だから、嘘をつく。
教室のざわめきは、じわじわと別の方向に流れていった。
「でもさ、ニュースで見てたやつ、ほんとだったんだな」
「怖……霧ヶ丘やばくない?」
「寝るの怖いとか言ってる奴、昨日もいたし」
誰かが笑って言う。笑いの種類が変わっている。面白いから笑うんじゃない。怖いから笑う。そういう笑いだ。
僕は机の下で手を握った。指先が冷たい。カイロをもらった昨日の感触が、まだ残っている気がした。
真白は、ちらっと僕のほうを見た。
目が合う。
真白は笑わない。ただ、眉が少しだけ寄る。昨日の夜、僕の家に来たときと同じ顔だ。
知っている。
真白は、僕が何かを抱えていると知っている。
授業が始まっても、僕の頭は上滑りだった。黒板の文字が、意味のある形に見えない。先生の声が、ただの音に近い。
ノートにペンを走らせるふりをして、僕は何度も胸に手を当てた。
昨夜、怪物に貫かれたところ。
そこが、まだ痛い気がする。
気のせいならいい。夢の余韻ならいい。
でも、昨日の床に残った足跡も、スマホに届いた「次は君だ」も、気のせいで片づくものじゃない。
昼休み、真白は容赦なく僕のところに来た。
「凪斗」
名前で呼ぶときの真白は、たいてい本気だ。
「顔色ガチで悪いけど、大丈夫?」
「大丈夫だって」
「大丈夫な人は、そういう目をしない」
真白は僕の机の端に指を置いた。軽い圧なのに、逃げられない感じがする。
「昨日の夜、寝た?」
「寝たよ」
「で、また悪夢?」
「……ちょっと」
「ちょっとでその顔?」
真白はため息をついた。
「ねえ。あんた、昔から悪夢見てうなされてたじゃん」
「そんな昔の話」
「昔の話じゃない。今の話に繋がってる」
真白の言葉はまっすぐだった。
「小学生のときさ、一回だけ、あんたが『夢の中で死んだ』って言ったの覚えてる?」
僕の背中がぞくっとした。
覚えてる。
でも、普段は思い出さないようにしていた。あれは怖すぎたから。夢の話なのに、夢の話じゃないみたいだったから。
「……トラックの夢だろ」
僕が小さく言うと、真白はうなずいた。
「そう。あんた、通学路でトラックに轢かれて、ぺちゃんこになったって。泣きながら言ってた」
「言い方」
「事実でしょ。で、そのあと」
真白は僕の顔を覗き込む。
「一週間、高熱で寝込んだ」
僕は喉を鳴らした。
そうだ。
小五の冬、僕は悪夢を見た。夢の中で道路に倒れて、トラックが迫ってきて、ブレーキの音がして、次の瞬間、世界が潰れた。
目が覚めたとき、息ができなくて、胸が痛くて、泣きながら母を呼んだ。
そして、その日から熱が出た。
ただの風邪と診断された。インフルでもなく、何かの感染でもなく、原因不明の高熱。僕は布団の中でうなされ続けた。
「……関係あるのかよ」
「分かんない。でも、関連があるなら、放置は危険」
真白ははっきり言った。
「凪斗、今の話、誰かにした?」
「してない」
「じゃあ、これからも勝手に他人に言わないで。変な噂になるから」
「そこは現実的だな」
「現実で生きてるからね」
真白は少しだけ口元を緩めた。でもすぐに戻る。
「ねえ、昨日の足跡、今朝どうなってた?」
「……消えてない。母に見つからないように、新聞紙かぶせた」
「隠したの?」
「説明できないし」
「正解」
真白は短く言った。
「で、今、胸。どう?」
「……痛い気がする」
「気がするじゃなくて見せて」
「ここで?」
「ここで」
真白は机の陰になるように僕を引っ張った。昼休みの教室は騒がしいけど、誰も僕らの細かい動きまで見ていない。
僕は制服のボタンを一つ外し、シャツを少しずらした。
胸の中央より少し左。
そこに、薄い痣みたいなものがあった。
紫とも茶色とも言えない、曖昧な色。形もはっきりしない。だけど、確かにそこにある。
「……なにこれ」
真白の声が低くなった。
「昨日、夢で貫かれた場所と一致?」
「たぶん」
「たぶんじゃない。確認して」
「一致だよ」
僕が言い切ると、真白は唇を噛んだ。
「夢が現実に残る。足跡も痣も」
「……うん」
「じゃあ、夢の中で起こることが、現実の誰かを殺してる可能性もある」
真白はそれを、昼休みの教室で言った。怖い言葉なのに、声は落ち着いている。
僕は思った。
真白がいなかったら、僕はもう心が折れていた。
「放課後、一緒に帰る」
真白が言った。
「寄り道じゃない。ちゃんと観察する」
「観察って……僕を実験みたいに言うな」
「実験じゃない。生き残るための作戦会議」
真白はそう言って、僕の机に手を置いた。
「凪斗、今日は絶対に一人で帰らないで」
「……分かった」
午後の授業が終わり、ホームルームが終わって、放課後の空気になった。
廊下では、神崎先輩の話が飛び交っている。
「昨日、普通に部活してたらしい」
「え、じゃあほんと急に?」
「怖……」
「霧ヶ丘、マジで寝たら終わりじゃん」
僕の胸が重くなる。普通に部活してた。普通に笑ってた。普通に帰った。普通に寝た。普通に死んだ。
普通が、崩れている。
真白と一緒に校門を出た。冬の夕方は早い。空がもう薄い青に変わっている。
「凪斗」
真白が歩きながら言った。
「まず、神崎先輩の情報集める。誰と仲良かったか。何か最近変なこと言ってなかったか」
「二年のこと、僕らが聞いても……」
「同じ中学だった人とか、いるでしょ」
「いるけど、目立つ」
「目立たないように聞く。凪斗の得意分野」
真白がそう言うと、僕は苦笑した。確かに僕は、目立たないのが得意だ。得意というか、それしかできない。
駅前へ向かう途中、僕はまた胸に手を当てた。服の上からでも痣の部分が熱い気がする。
そのときだった。
視界の端に、変なものが入った。
横断歩道の向こう側。人の流れの中に、灰色がかった半透明の影が混じっている。
最初は、目の錯覚だと思った。冬の夕方は光が斜めに入って、ガラスの反射とか、車のライトとか、そういうものが紛れる。
でも、違う。
その影は、人の形をしているのに、人じゃない。
周囲の人はそれにぶつかってもいない。というか、誰も見えていないみたいに、普通に歩いている。影をすり抜けている。
僕だけが、引っかかっている。
「……真白」
僕が声を落とすと、真白が振り向いた。
「なに?」
「……見える?」
「なにが」
真白の目には、普通の街が映っているだけだ。
僕は喉が乾いた。
影の一つが、ふらふらと歩いている。制服姿。肩を落とし、何かを探すみたいに首を動かしている。
顔が見えた瞬間、僕の心臓が跳ねた。
神崎先輩だ。
ニュースで見た写真と同じ顔。今朝聞いた名前と同じ顔。夢の中で見た顔とも一致する。
なのに、半透明で灰色だ。
生きていない。
「先輩……?」
僕は思わず声に出していた。
真白が眉を寄せる。
「は? どの先輩?」
神崎先輩の影が、ぴくりと反応した。
振り向いた。
僕のほうを見た。
視線が合った瞬間、背筋が凍る。生きてる人の目じゃない。焦点が合っていないのに、僕を捉えている。
先輩の影が、僕に向かって歩き出した。
人の流れをすり抜けながら、まっすぐこちらへ。
「凪斗、なに、どうしたの」
真白が僕の袖を掴む。
「急に止まって……」
「動くな」
僕は自分でも驚くくらい強い声で言った。
「え」
「……動くな。お願い」
真白は固まった。僕の声が本気だと分かったからだと思う。
先輩が目の前に来た。近い。顔の輪郭がぼやけている。制服の色も抜けている。なのに、僕の耳には、かすかな音が入ってきた。
砂嵐みたいな、ノイズ。
「……あ……」
先輩の口が開く。声が出る。出ているのに、言葉にならない。ラジオの周波数が合っていないときみたいだ。
「……い……は……」
僕は息を呑んだ。
僕の名前?
「あい……は……ら……」
確かに、そう聞こえた。
「俺に……何か用があるんですか」
僕は必死に言った。声が震えた。周囲の人は僕を見ない。僕が空に向かって独り言を言っているみたいに見えているはずだ。
真白が僕の腕を掴んだまま、囁く。
「凪斗、誰と話してるの」
「……見えないのか」
「見えないよ。お願い、説明して」
先輩は、僕の言葉を聞いたみたいに、ゆっくり頷いた。
そして、自分の胸を掴む仕草をした。
ぎゅっと。苦しそうに。
次に、指を伸ばして、ある方向を指した。
街の外れ。
山のほう。
廃遊園地がある方向だ。霧ヶ丘の外れに、昔つぶれた遊園地がある。地元の人ならみんな知っている。子どもの頃は行ったことがある人もいる。
僕の夢と一致する。
「……あ……く……む……」
ノイズ混じりの声。
「ころ……せ……」
最後だけ、はっきり聞こえた。
殺せ。
その言葉が、僕の中に刺さった。
先輩の影が、ふっと薄くなった。
「ちょ、待って……!」
僕が手を伸ばす。
触れない。空気を掴むだけ。
先輩は、空気に溶けるように消えた。
そこに残ったのは、冬の冷たい風だけだ。
僕はその場で立ち尽くした。
「凪斗!」
真白が僕の頬を軽く叩いた。
「ねえ、しっかりして。今、誰かいたの?」
僕は唾を飲み込んだ。言うべきか。言わないべきか。
言えば、真白は信じるだろう。信じるからこそ、怖がるかもしれない。
でも、言わないと、作戦会議にならない。
「……神崎先輩」
僕は言った。
「死んだはずの先輩が、そこにいた」
真白が固まる。
「……は?」
「半透明で……灰色で……僕に話しかけてきた」
「え、待って。幽霊ってこと?」
「分からない。でも、僕には見えた。真白には見えない」
真白は一度、息を吐いた。冬の空気に白い息が混じる。
「凪斗。落ち着いて。今の話、嘘じゃないよね」
「嘘ついてどうするんだよ」
「じゃあ」
真白は僕の胸を指差した。
「痣と関係ある?」
「……ある気がする。先輩は『相原』って言った」
「なんであんたの名字を」
「分かんない。でも、最後に言った」
僕は言葉を選びながら言った。
「悪夢……殺せ、って」
真白の目が細くなる。
「悪夢を殺せ」
「そう」
「つまり、悪夢が原因で人が死んでる。その悪夢を止めろってこと」
「……たぶん」
真白は顎に手を当てた。考えるときの癖だ。感情だけで動かない。こういうとき、真白は本当に頼りになる。
「凪斗、今夜また同じ夢を見る可能性が高い」
「……うん」
「なら、準備する」
「準備って、何を」
「起きてる間にできること全部」
真白はスマホを取り出した。
「まず、廃遊園地。場所は分かる。行くのは危険だけど、確認だけでも」
「今から行くのか」
「行かない。今日は情報だけ」
真白は画面を操作しながら言う。
「地図。入口の位置。フェンスの有無。監視カメラがあるか。あと、神崎先輩の情報。部活。交友関係」
「探偵だな」
「生きるための探偵」
真白は同じことを言った。
帰り道、僕は何度も周囲を見回した。あの半透明の影がまた見えるんじゃないかと思った。でも、見えない。見えないのが逆に怖い。
家に着くころには、空が完全に暗くなっていた。
母は夕飯を作っていた。僕の顔を見て「今日は早いね」と言う。真白は「お邪魔します」と普通に挨拶する。普通の訪問。普通の会話。普通の夕飯。
その普通の中に、僕だけが異物みたいに感じた。
夕飯の後、僕は部屋に戻った。
真白は「今日は帰る」と言った。さすがに夜中までいるわけにはいかない。母に怪しまれる。僕の普通を守るためには、真白も普通を装う必要がある。
帰り際、真白は玄関で僕に小声で言った。
「凪斗。寝る前に絶対、メッセージ送って。起きたらすぐ送って。もし送れなかったら……」
「最悪の想像するな」
「想像しないと備えられない」
真白はそう言って、僕の手首を軽く握った。
「生きて」
「……うん」
扉が閉まる。家の中が静かになる。
夜は来る。
布団に入るのが怖い。
でも、眠らないわけにはいかない。
僕はベッドの横の床に、新聞紙を敷いた。昨日の足跡を隠すため。新聞のインクの匂いがする。それだけで少し現実に引き戻される。
胸の痣が、まだ熱い。
僕はスマホを握ったまま目を閉じた。
気づいたら、僕は立っていた。
廃遊園地。
まただ。
空が低い。風が冷たい。観覧車が回っている。笑い声は、今日は聞こえない。代わりに、異様な静けさがある。
足元を見る。
僕は息を止めた。
地面に、誰かが倒れている。
制服姿。
僕だ。
僕の顔が、土に向いている。腕がだらりと伸びている。胸のあたりが黒く染まっている。そこから、黒い霧みたいなものが立ち上っている。
「……は?」
言葉が出る。
僕は近づきたくないのに、足が勝手に動く。夢の中の僕の死体に近づくなんて、頭がおかしい。なのに、引き寄せられる。
近くで見ると分かる。
これは、ただのイメージじゃない。
質感がある。重さがある。冷たさがある。
夢の中なのに、僕の死体は本物みたいに横たわっている。
「俺……一回、ここで死んだのか」
口に出した瞬間、胸の痣がじりっと熱くなった。
昨日の痛みが、蘇る。貫かれた感覚。心臓を掴まれた感覚。
そして、目が覚めた。
生きている。
でも、夢の中には死体がある。
矛盾じゃない。矛盾なのに、筋が通っている気がする。
僕は一度、ここで死んだ。
だから、何かが変わった。
だから、見えた。
先輩の影が。
だから、今ここに、死体として残っている。
背後で、湿った音がした。
振り向く。
メリーゴーランドのほうから、あれが出てくる。
木馬が歪む。肉のようにうねる。黒い穴の目。穴の中の手。
昨日の怪物だ。
でも、違う。
輪郭が少し薄い。ところどころ欠けている。肩のあたりが、裂けているみたいに見える。昨日、僕を殺したはずなのに、なぜか弱っているように見えた。
怪物がこちらを向く。
穴の中の手が、僕を指す。
足元の黒いシミが、また動き始めた。
やばい。
僕は反射的に後ずさった。死体にぶつかりそうになって、慌てて踏みとどまる。
逃げる。
昨日と同じ。逃げないと死ぬ。
でも、逃げても意味がない。出口は「目覚めはない」だった。
じゃあ、どうする。
頭の中に、突然声が響いた。
『お前は、一度ここで死んだ』
男の声。
神崎先輩の声だ。
耳ではなく、頭の中に直接入ってくる。
『だから、見える』
『だから、殺せる』
「……殺せる?」
僕は呟いた。
怪物が動く。腕が伸びる。黒いシミが足首に絡む。
昨日と同じ恐怖が来る。体が固まる。息が詰まる。
でも、昨日と違うことが一つある。
僕は今、「殺せる」という言葉を聞いた。
その言葉が、僕の中に火をつけた。
逃げるだけじゃ、終わる。
誰かが死ぬ。
神崎先輩が死んだ。
次は僕だとメッセージが来た。
僕が逃げたら、また誰かが死ぬ。
「ふざけんな……!」
僕は歯を食いしばった。
次の瞬間、手の中に、冷たい重さが生まれた。
「……なに」
見下ろすと、僕の右手に、黒いナイフが握られていた。
刃が黒い。光を吸うみたいに黒い。持ち手も黒い。なのに、存在感だけが異様に強い。
これは夢だ。
夢の中で、武器が出るなんて、よくある話だ。
でも、これは違う。
僕の手に馴染む。
最初から僕のものだったみたいに。
冷たいのに、重い。重いのに、握れる。
怖い。
この武器が怖い。
でも、それ以上に、怪物に殺されるのが怖い。
神崎先輩が言った。
殺せる。
僕はナイフを握り直した。
黒いシミが足首に絡む。引っ張られる。バランスが崩れる。
怪物の腕が伸びた。
胸を狙っている。昨日と同じ。
「来るな!」
僕は叫び、ナイフを振った。
横に。
怖くて、目をつぶりそうになった。でも、目を開けた。目を開けて、見た。
刃が、怪物の腕を切った。
ぷつり、と嫌な感触。
黒い液体が飛び散った。血じゃない。油みたいでもない。インクみたいでもない。とにかく黒いもの。
怪物が悲鳴を上げた。
耳で聞く悲鳴じゃない。頭の奥を引っ掻く音。ガラスを噛んだみたいな音。
「うわっ……!」
僕は思わず身を引いた。
怪物の腕が地面に落ちた。落ちた腕は、黒いシミに触れた瞬間、溶けるように混ざり合った。
遊園地全体が震えた。
地面が波打つ。観覧車がぎしぎしと軋む。メリーゴーランドの回転が速くなる。
怪物は後退した。穴の目の中の手が、狂ったみたいに動く。
怒っている。
痛がっている。
そして、僕を殺したい。
「……殺せる」
僕は自分に言った。声が震えている。でも、足は止めない。
黒いシミがまた絡む。僕はナイフで地面を切った。すると、黒いものが一瞬、引いた。切れる。こいつは切れる。
だったら。
僕は走った。怪物に向かって。
近づくのが怖い。でも、距離を取れば、またやられる。昨日は距離を取っても無駄だった。
怪物が腕を振る。残った腕が伸びて、僕の肩を掴もうとする。
僕は体を捻って避け、ナイフを突き出した。
刃が、怪物の胴体に刺さった。
硬い。
でも、刺さる。
黒い液体が噴き出し、僕の手にかかった。冷たい。氷水みたいに冷たい。
怪物の悲鳴が、さらに耳障りになる。
「お前……!」
僕は意味もなく叫んだ。
「人を……寝てる間に殺すな!」
ナイフを引き抜き、もう一度振る。
怪物の胴が裂ける。
裂けたところから、黒い霧が噴き出した。僕の死体の胸から立ち上っていた霧と同じだ。
怪物は、霧でできているのか。
霧が集まって、怪物になるのか。
分からない。でも、分かることが一つある。
こいつを壊せば、何かが止まる。
怪物が後ろへ跳んだ。逃げるみたいに、メリーゴーランドのほうへ下がる。
僕は追った。足元の黒いシミが絡む。転びそうになる。死体が視界に入る。自分の死体が、まだそこにいる。
怖い。気持ち悪い。吐きそう。
でも、止まれない。
怪物が、最後の抵抗みたいに、穴の中の手を一斉に伸ばした。
無数の手が、僕の顔と胸を狙う。触れたら終わる。掴まれたら心臓を潰される。
僕は反射で腕を上げた。
ナイフを、縦に振り下ろした。
ざくり。
手が、まとめて切れた。
切れた手は、黒い霧になって散った。
怪物の輪郭がさらに薄くなる。
今だ。
僕は、怪物の胸のあたりにナイフを突き刺し、握りしめたまま、ぐっと引き裂いた。
怪物が、ひび割れるみたいに崩れた。
耳障りな悲鳴が、ぶつりと途切れる。
次の瞬間。
怪物は霧散した。
黒い霧が舞い上がり、夜空に吸い込まれていく。黒いシミが、地面から引いていく。遊園地の震えが止まる。
静寂。
観覧車の軋みも止まった。
メリーゴーランドも止まった。
世界が、止まったみたいに静かだった。
僕は立ち尽くした。ナイフを握った手が震えている。
やったのか。
殺したのか。
悪夢を。
その瞬間、胸の痣が、焼けるように熱くなった。
「……っ!」
痛い。現実の痛みだ。胸の奥を針で刺されるみたいな鋭い痛み。息ができない。膝が落ちる。
視界が揺れる。
僕の手の中のナイフが、黒い霧になって消えていく。
遊園地が遠ざかる。
暗闇が落ちてくる。
次の瞬間、僕はベッドの上で跳ね起きた。
「はっ……!」
息が荒い。胸が痛い。痣の部分が熱い。パジャマが汗で張りついている。時計を見る。午前三時を少し過ぎている。
またこの時間だ。
僕は震える手でスマホを掴み、真白にメッセージを打った。
起きた。生きてる。
送信。
すぐに既読がつく。
真白、寝てない。
数秒後、返信。
今すぐ胸見て。痣どう?
僕はシャツをめくった。
痣が、昨日より濃くなっていた。
形がはっきりしている。まるで、何かに刺された跡みたいに。
僕は写真を撮って送った。
数秒後。
真白から返信が来た。
最悪。でも、生きてる。朝、ニュース確認して。絶対。
僕はスマホを握ったまま、ベッドに座り込んだ。
夢の中で怪物を斬った。
そのとき、遊園地全体が震えた。
あの怪物が、誰かの死に関わっているなら。
僕が倒したことで、誰かが助かる可能性がある。
そう思うと、少しだけ息ができた。
でも、同時に怖い。
僕は、夢の中で何かを殺した。
それが現実に影響するなら、僕はもう戻れない。
朝になった。
目の下にクマを作ったまま、僕はリビングでテレビをつけた。母は「今日は早いね」と言った。僕は「目が覚めちゃって」と誤魔化した。
ニュースが流れる。
霧ヶ丘市内、若者の就寝中の心停止。
その関連で、今朝の続報。
「昨夜、心停止で危篤状態となっていた高校生が、奇跡的に意識を取り戻しました」
僕の手が止まる。
画面に写真が出た。
神崎先輩と一緒に写っていた、同じ部活の友人の一人。昨日、廊下で見たことがある顔。
生き返った。
いや、生き返ったんじゃない。死にかけて、戻ってきた。
僕の心臓が、早鐘になる。
つまり。
僕が夢の中で怪物を倒したことで、危篤の誰かが助かった。
そういう因果が、現実に起きた。
僕は理解した。
悪夢は、現実の死と直結している。
そして僕は、その悪夢を殺せる。
代わりに、僕の体に傷が残る。
代わりに、僕の普通が壊れていく。
スマホが震えた。
真白からの電話だ。
『ニュース見た?』
「見た」
『……当たり、だね』
「……当たりだな」
真白の声が少し震えている。強い真白でも、これは怖い。僕も怖い。
『凪斗。あんた、悪夢を倒したんだ』
「倒した、っていうか……必死で振り回しただけ」
『結果が全部だよ。助かった人がいる。それが証拠』
真白は息を吸って、言った。
『つまり、これからもあんたは戦うことになる』
「……うん」
『でも、勝ち筋があるってことでもある』
「勝ち筋……」
『悪夢は殺せる。あんたが死ななければ』
真白の言葉が、重く落ちる。
僕は胸の痣を押さえた。昨日より濃い。痛い。熱い。
このまま続けたら、僕はどうなる。
悪夢を殺すたびに、僕の体は削れるのか。
そして、僕が削れた先に、何がある。
電話の向こうで、真白が言った。
『今日、放課後。廃遊園地、行こう』
「行くのかよ」
『行かないと。夢がただの夢じゃないなら、現実側にも入口があるかもしれない』
「入口」
『神崎先輩の幽霊、あんたをそこに誘導した。理由がある』
真白は続けた。
『凪斗。あたし、怖いよ。でも、逃げたらもっと怖い』
「……分かった」
僕は言った。言うしかなかった。
僕の普通は、もう戻らない。
でも、生きたい。
生きるために、動く。
そう決めた瞬間、僕のスマホにもう一件、通知が入った。
差出人不明。
昨日と同じ形式。
画面に表示された文を見て、僕の血が引いた。
次は二人だ。
真白にも、同じ通知が届いたらしい。電話の向こうで、息を呑む音がした。
『……凪斗』
「……真白」
二人。
つまり、次の標的は僕だけじゃない。
僕の隣にいる真白も、巻き込まれる。
僕は喉が乾いた。
悪夢で死ぬ世界は、もう僕の世界だけじゃない。
僕の大事な人まで、引きずり込もうとしている。
それでも、逃げない。
逃げたら、真白が死ぬかもしれない。
だから僕は、選ぶ。
悪夢を、殺す側に回る。
それが僕の、二話目の始まりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます