第2話 死者の目覚め

 朝の教室は、いつもより静かだった。


 静か、といっても無音じゃない。人がいる以上、椅子を引く音もするし、消しゴムのカスを払う音もする。誰かが小声で「マジかよ」と言うのも聞こえる。


 ただ、笑いがない。


 いつもなら一つは飛ぶ、くだらない冗談が飛ばない。


 その原因は、教室の前に立っている担任の顔を見れば分かった。いつもは眠そうで、でも適当に明るくて、「お前らさー」って軽く言う人なのに、今日は口元が固い。


「……今朝、連絡が入りました」


 担任は黒板に手を置いたまま、ゆっくり言った。


「二年の神崎洸介くんが、昨夜、亡くなりました」


 一瞬、教室の空気が止まる。


 次に、ざわざわと波が広がった。


「え……」


「神崎先輩って、あの……バスケ部の?」


「寝てる間のやつ?」


 誰かが「マジで?」と声に出す。担任は眉を寄せた。


「死因はまだはっきりしていないそうです。昨夜、自宅で就寝中に……」


 そこまで聞いたところで、僕の耳は勝手に遠ざかった。


 神崎洸介。


 名前を聞いて、やっとはっきりした。


 夢の中で、廃遊園地のゲートのそばに立っていた先輩だ。


 あの顔。あの制服。あの、何か言いたげな目。


 それが、現実の名前と繋がった瞬間、胃がきゅっと縮んだ。


 僕は昨日の夜、夢の中で死んだ。


 そして、先輩は現実で死んだ。


 偶然にしては、嫌な一致が多すぎる。


「……相原」


 担任が僕を見た気がして、僕は顔を上げた。


「大丈夫か? 顔色悪いぞ」


「……大丈夫です」


 嘘だった。でも、こういうときに「大丈夫じゃないです」と言うのは、普通じゃない。


 僕は普通でいたい。


 だから、嘘をつく。


 教室のざわめきは、じわじわと別の方向に流れていった。


「でもさ、ニュースで見てたやつ、ほんとだったんだな」


「怖……霧ヶ丘やばくない?」


「寝るの怖いとか言ってる奴、昨日もいたし」


 誰かが笑って言う。笑いの種類が変わっている。面白いから笑うんじゃない。怖いから笑う。そういう笑いだ。


 僕は机の下で手を握った。指先が冷たい。カイロをもらった昨日の感触が、まだ残っている気がした。


 真白は、ちらっと僕のほうを見た。


 目が合う。


 真白は笑わない。ただ、眉が少しだけ寄る。昨日の夜、僕の家に来たときと同じ顔だ。


 知っている。


 真白は、僕が何かを抱えていると知っている。


 授業が始まっても、僕の頭は上滑りだった。黒板の文字が、意味のある形に見えない。先生の声が、ただの音に近い。


 ノートにペンを走らせるふりをして、僕は何度も胸に手を当てた。


 昨夜、怪物に貫かれたところ。


 そこが、まだ痛い気がする。


 気のせいならいい。夢の余韻ならいい。


 でも、昨日の床に残った足跡も、スマホに届いた「次は君だ」も、気のせいで片づくものじゃない。


 昼休み、真白は容赦なく僕のところに来た。


「凪斗」


 名前で呼ぶときの真白は、たいてい本気だ。


「顔色ガチで悪いけど、大丈夫?」


「大丈夫だって」


「大丈夫な人は、そういう目をしない」


 真白は僕の机の端に指を置いた。軽い圧なのに、逃げられない感じがする。


「昨日の夜、寝た?」


「寝たよ」


「で、また悪夢?」


「……ちょっと」


「ちょっとでその顔?」


 真白はため息をついた。


「ねえ。あんた、昔から悪夢見てうなされてたじゃん」


「そんな昔の話」


「昔の話じゃない。今の話に繋がってる」


 真白の言葉はまっすぐだった。


「小学生のときさ、一回だけ、あんたが『夢の中で死んだ』って言ったの覚えてる?」


 僕の背中がぞくっとした。


 覚えてる。


 でも、普段は思い出さないようにしていた。あれは怖すぎたから。夢の話なのに、夢の話じゃないみたいだったから。


「……トラックの夢だろ」


 僕が小さく言うと、真白はうなずいた。


「そう。あんた、通学路でトラックに轢かれて、ぺちゃんこになったって。泣きながら言ってた」


「言い方」


「事実でしょ。で、そのあと」


 真白は僕の顔を覗き込む。


「一週間、高熱で寝込んだ」


 僕は喉を鳴らした。


 そうだ。


 小五の冬、僕は悪夢を見た。夢の中で道路に倒れて、トラックが迫ってきて、ブレーキの音がして、次の瞬間、世界が潰れた。


 目が覚めたとき、息ができなくて、胸が痛くて、泣きながら母を呼んだ。


 そして、その日から熱が出た。


 ただの風邪と診断された。インフルでもなく、何かの感染でもなく、原因不明の高熱。僕は布団の中でうなされ続けた。


「……関係あるのかよ」


「分かんない。でも、関連があるなら、放置は危険」


 真白ははっきり言った。


「凪斗、今の話、誰かにした?」


「してない」


「じゃあ、これからも勝手に他人に言わないで。変な噂になるから」


「そこは現実的だな」


「現実で生きてるからね」


 真白は少しだけ口元を緩めた。でもすぐに戻る。


「ねえ、昨日の足跡、今朝どうなってた?」


「……消えてない。母に見つからないように、新聞紙かぶせた」


「隠したの?」


「説明できないし」


「正解」


 真白は短く言った。


「で、今、胸。どう?」


「……痛い気がする」


「気がするじゃなくて見せて」


「ここで?」


「ここで」


 真白は机の陰になるように僕を引っ張った。昼休みの教室は騒がしいけど、誰も僕らの細かい動きまで見ていない。


 僕は制服のボタンを一つ外し、シャツを少しずらした。


 胸の中央より少し左。


 そこに、薄い痣みたいなものがあった。


 紫とも茶色とも言えない、曖昧な色。形もはっきりしない。だけど、確かにそこにある。


「……なにこれ」


 真白の声が低くなった。


「昨日、夢で貫かれた場所と一致?」


「たぶん」


「たぶんじゃない。確認して」


「一致だよ」


 僕が言い切ると、真白は唇を噛んだ。


「夢が現実に残る。足跡も痣も」


「……うん」


「じゃあ、夢の中で起こることが、現実の誰かを殺してる可能性もある」


 真白はそれを、昼休みの教室で言った。怖い言葉なのに、声は落ち着いている。


 僕は思った。


 真白がいなかったら、僕はもう心が折れていた。


「放課後、一緒に帰る」


 真白が言った。


「寄り道じゃない。ちゃんと観察する」


「観察って……僕を実験みたいに言うな」


「実験じゃない。生き残るための作戦会議」


 真白はそう言って、僕の机に手を置いた。


「凪斗、今日は絶対に一人で帰らないで」


「……分かった」


 午後の授業が終わり、ホームルームが終わって、放課後の空気になった。


 廊下では、神崎先輩の話が飛び交っている。


「昨日、普通に部活してたらしい」


「え、じゃあほんと急に?」


「怖……」


「霧ヶ丘、マジで寝たら終わりじゃん」


 僕の胸が重くなる。普通に部活してた。普通に笑ってた。普通に帰った。普通に寝た。普通に死んだ。


 普通が、崩れている。


 真白と一緒に校門を出た。冬の夕方は早い。空がもう薄い青に変わっている。


「凪斗」


 真白が歩きながら言った。


「まず、神崎先輩の情報集める。誰と仲良かったか。何か最近変なこと言ってなかったか」


「二年のこと、僕らが聞いても……」


「同じ中学だった人とか、いるでしょ」


「いるけど、目立つ」


「目立たないように聞く。凪斗の得意分野」


 真白がそう言うと、僕は苦笑した。確かに僕は、目立たないのが得意だ。得意というか、それしかできない。


 駅前へ向かう途中、僕はまた胸に手を当てた。服の上からでも痣の部分が熱い気がする。


 そのときだった。


 視界の端に、変なものが入った。


 横断歩道の向こう側。人の流れの中に、灰色がかった半透明の影が混じっている。


 最初は、目の錯覚だと思った。冬の夕方は光が斜めに入って、ガラスの反射とか、車のライトとか、そういうものが紛れる。


 でも、違う。


 その影は、人の形をしているのに、人じゃない。


 周囲の人はそれにぶつかってもいない。というか、誰も見えていないみたいに、普通に歩いている。影をすり抜けている。


 僕だけが、引っかかっている。


「……真白」


 僕が声を落とすと、真白が振り向いた。


「なに?」


「……見える?」


「なにが」


 真白の目には、普通の街が映っているだけだ。


 僕は喉が乾いた。


 影の一つが、ふらふらと歩いている。制服姿。肩を落とし、何かを探すみたいに首を動かしている。


 顔が見えた瞬間、僕の心臓が跳ねた。


 神崎先輩だ。


 ニュースで見た写真と同じ顔。今朝聞いた名前と同じ顔。夢の中で見た顔とも一致する。


 なのに、半透明で灰色だ。


 生きていない。


「先輩……?」


 僕は思わず声に出していた。


 真白が眉を寄せる。


「は? どの先輩?」


 神崎先輩の影が、ぴくりと反応した。


 振り向いた。


 僕のほうを見た。


 視線が合った瞬間、背筋が凍る。生きてる人の目じゃない。焦点が合っていないのに、僕を捉えている。


 先輩の影が、僕に向かって歩き出した。


 人の流れをすり抜けながら、まっすぐこちらへ。


「凪斗、なに、どうしたの」


 真白が僕の袖を掴む。


「急に止まって……」


「動くな」


 僕は自分でも驚くくらい強い声で言った。


「え」


「……動くな。お願い」


 真白は固まった。僕の声が本気だと分かったからだと思う。


 先輩が目の前に来た。近い。顔の輪郭がぼやけている。制服の色も抜けている。なのに、僕の耳には、かすかな音が入ってきた。


 砂嵐みたいな、ノイズ。


「……あ……」


 先輩の口が開く。声が出る。出ているのに、言葉にならない。ラジオの周波数が合っていないときみたいだ。


「……い……は……」


 僕は息を呑んだ。


 僕の名前?


「あい……は……ら……」


 確かに、そう聞こえた。


「俺に……何か用があるんですか」


 僕は必死に言った。声が震えた。周囲の人は僕を見ない。僕が空に向かって独り言を言っているみたいに見えているはずだ。


 真白が僕の腕を掴んだまま、囁く。


「凪斗、誰と話してるの」


「……見えないのか」


「見えないよ。お願い、説明して」


 先輩は、僕の言葉を聞いたみたいに、ゆっくり頷いた。


 そして、自分の胸を掴む仕草をした。


 ぎゅっと。苦しそうに。


 次に、指を伸ばして、ある方向を指した。


 街の外れ。


 山のほう。


 廃遊園地がある方向だ。霧ヶ丘の外れに、昔つぶれた遊園地がある。地元の人ならみんな知っている。子どもの頃は行ったことがある人もいる。


 僕の夢と一致する。


「……あ……く……む……」


 ノイズ混じりの声。


「ころ……せ……」


 最後だけ、はっきり聞こえた。


 殺せ。


 その言葉が、僕の中に刺さった。


 先輩の影が、ふっと薄くなった。


「ちょ、待って……!」


 僕が手を伸ばす。


 触れない。空気を掴むだけ。


 先輩は、空気に溶けるように消えた。


 そこに残ったのは、冬の冷たい風だけだ。


 僕はその場で立ち尽くした。


「凪斗!」


 真白が僕の頬を軽く叩いた。


「ねえ、しっかりして。今、誰かいたの?」


 僕は唾を飲み込んだ。言うべきか。言わないべきか。


 言えば、真白は信じるだろう。信じるからこそ、怖がるかもしれない。


 でも、言わないと、作戦会議にならない。


「……神崎先輩」


 僕は言った。


「死んだはずの先輩が、そこにいた」


 真白が固まる。


「……は?」


「半透明で……灰色で……僕に話しかけてきた」


「え、待って。幽霊ってこと?」


「分からない。でも、僕には見えた。真白には見えない」


 真白は一度、息を吐いた。冬の空気に白い息が混じる。


「凪斗。落ち着いて。今の話、嘘じゃないよね」


「嘘ついてどうするんだよ」


「じゃあ」


 真白は僕の胸を指差した。


「痣と関係ある?」


「……ある気がする。先輩は『相原』って言った」


「なんであんたの名字を」


「分かんない。でも、最後に言った」


 僕は言葉を選びながら言った。


「悪夢……殺せ、って」


 真白の目が細くなる。


「悪夢を殺せ」


「そう」


「つまり、悪夢が原因で人が死んでる。その悪夢を止めろってこと」


「……たぶん」


 真白は顎に手を当てた。考えるときの癖だ。感情だけで動かない。こういうとき、真白は本当に頼りになる。


「凪斗、今夜また同じ夢を見る可能性が高い」


「……うん」


「なら、準備する」


「準備って、何を」


「起きてる間にできること全部」


 真白はスマホを取り出した。


「まず、廃遊園地。場所は分かる。行くのは危険だけど、確認だけでも」


「今から行くのか」


「行かない。今日は情報だけ」


 真白は画面を操作しながら言う。


「地図。入口の位置。フェンスの有無。監視カメラがあるか。あと、神崎先輩の情報。部活。交友関係」


「探偵だな」


「生きるための探偵」


 真白は同じことを言った。


 帰り道、僕は何度も周囲を見回した。あの半透明の影がまた見えるんじゃないかと思った。でも、見えない。見えないのが逆に怖い。


 家に着くころには、空が完全に暗くなっていた。


 母は夕飯を作っていた。僕の顔を見て「今日は早いね」と言う。真白は「お邪魔します」と普通に挨拶する。普通の訪問。普通の会話。普通の夕飯。


 その普通の中に、僕だけが異物みたいに感じた。


 夕飯の後、僕は部屋に戻った。


 真白は「今日は帰る」と言った。さすがに夜中までいるわけにはいかない。母に怪しまれる。僕の普通を守るためには、真白も普通を装う必要がある。


 帰り際、真白は玄関で僕に小声で言った。


「凪斗。寝る前に絶対、メッセージ送って。起きたらすぐ送って。もし送れなかったら……」


「最悪の想像するな」


「想像しないと備えられない」


 真白はそう言って、僕の手首を軽く握った。


「生きて」


「……うん」


 扉が閉まる。家の中が静かになる。


 夜は来る。


 布団に入るのが怖い。


 でも、眠らないわけにはいかない。


 僕はベッドの横の床に、新聞紙を敷いた。昨日の足跡を隠すため。新聞のインクの匂いがする。それだけで少し現実に引き戻される。


 胸の痣が、まだ熱い。


 僕はスマホを握ったまま目を閉じた。


 気づいたら、僕は立っていた。


 廃遊園地。


 まただ。


 空が低い。風が冷たい。観覧車が回っている。笑い声は、今日は聞こえない。代わりに、異様な静けさがある。


 足元を見る。


 僕は息を止めた。


 地面に、誰かが倒れている。


 制服姿。


 僕だ。


 僕の顔が、土に向いている。腕がだらりと伸びている。胸のあたりが黒く染まっている。そこから、黒い霧みたいなものが立ち上っている。


「……は?」


 言葉が出る。


 僕は近づきたくないのに、足が勝手に動く。夢の中の僕の死体に近づくなんて、頭がおかしい。なのに、引き寄せられる。


 近くで見ると分かる。


 これは、ただのイメージじゃない。


 質感がある。重さがある。冷たさがある。


 夢の中なのに、僕の死体は本物みたいに横たわっている。


「俺……一回、ここで死んだのか」


 口に出した瞬間、胸の痣がじりっと熱くなった。


 昨日の痛みが、蘇る。貫かれた感覚。心臓を掴まれた感覚。


 そして、目が覚めた。


 生きている。


 でも、夢の中には死体がある。


 矛盾じゃない。矛盾なのに、筋が通っている気がする。


 僕は一度、ここで死んだ。


 だから、何かが変わった。


 だから、見えた。


 先輩の影が。


 だから、今ここに、死体として残っている。


 背後で、湿った音がした。


 振り向く。


 メリーゴーランドのほうから、あれが出てくる。


 木馬が歪む。肉のようにうねる。黒い穴の目。穴の中の手。


 昨日の怪物だ。


 でも、違う。


 輪郭が少し薄い。ところどころ欠けている。肩のあたりが、裂けているみたいに見える。昨日、僕を殺したはずなのに、なぜか弱っているように見えた。


 怪物がこちらを向く。


 穴の中の手が、僕を指す。


 足元の黒いシミが、また動き始めた。


 やばい。


 僕は反射的に後ずさった。死体にぶつかりそうになって、慌てて踏みとどまる。


 逃げる。


 昨日と同じ。逃げないと死ぬ。


 でも、逃げても意味がない。出口は「目覚めはない」だった。


 じゃあ、どうする。


 頭の中に、突然声が響いた。


『お前は、一度ここで死んだ』


 男の声。


 神崎先輩の声だ。


 耳ではなく、頭の中に直接入ってくる。


『だから、見える』


『だから、殺せる』


「……殺せる?」


 僕は呟いた。


 怪物が動く。腕が伸びる。黒いシミが足首に絡む。


 昨日と同じ恐怖が来る。体が固まる。息が詰まる。


 でも、昨日と違うことが一つある。


 僕は今、「殺せる」という言葉を聞いた。


 その言葉が、僕の中に火をつけた。


 逃げるだけじゃ、終わる。


 誰かが死ぬ。


 神崎先輩が死んだ。


 次は僕だとメッセージが来た。


 僕が逃げたら、また誰かが死ぬ。


「ふざけんな……!」


 僕は歯を食いしばった。


 次の瞬間、手の中に、冷たい重さが生まれた。


「……なに」


 見下ろすと、僕の右手に、黒いナイフが握られていた。


 刃が黒い。光を吸うみたいに黒い。持ち手も黒い。なのに、存在感だけが異様に強い。


 これは夢だ。


 夢の中で、武器が出るなんて、よくある話だ。


 でも、これは違う。


 僕の手に馴染む。


 最初から僕のものだったみたいに。


 冷たいのに、重い。重いのに、握れる。


 怖い。


 この武器が怖い。


 でも、それ以上に、怪物に殺されるのが怖い。


 神崎先輩が言った。


 殺せる。


 僕はナイフを握り直した。


 黒いシミが足首に絡む。引っ張られる。バランスが崩れる。


 怪物の腕が伸びた。


 胸を狙っている。昨日と同じ。


「来るな!」


 僕は叫び、ナイフを振った。


 横に。


 怖くて、目をつぶりそうになった。でも、目を開けた。目を開けて、見た。


 刃が、怪物の腕を切った。


 ぷつり、と嫌な感触。


 黒い液体が飛び散った。血じゃない。油みたいでもない。インクみたいでもない。とにかく黒いもの。


 怪物が悲鳴を上げた。


 耳で聞く悲鳴じゃない。頭の奥を引っ掻く音。ガラスを噛んだみたいな音。


「うわっ……!」


 僕は思わず身を引いた。


 怪物の腕が地面に落ちた。落ちた腕は、黒いシミに触れた瞬間、溶けるように混ざり合った。


 遊園地全体が震えた。


 地面が波打つ。観覧車がぎしぎしと軋む。メリーゴーランドの回転が速くなる。


 怪物は後退した。穴の目の中の手が、狂ったみたいに動く。


 怒っている。


 痛がっている。


 そして、僕を殺したい。


「……殺せる」


 僕は自分に言った。声が震えている。でも、足は止めない。


 黒いシミがまた絡む。僕はナイフで地面を切った。すると、黒いものが一瞬、引いた。切れる。こいつは切れる。


 だったら。


 僕は走った。怪物に向かって。


 近づくのが怖い。でも、距離を取れば、またやられる。昨日は距離を取っても無駄だった。


 怪物が腕を振る。残った腕が伸びて、僕の肩を掴もうとする。


 僕は体を捻って避け、ナイフを突き出した。


 刃が、怪物の胴体に刺さった。


 硬い。


 でも、刺さる。


 黒い液体が噴き出し、僕の手にかかった。冷たい。氷水みたいに冷たい。


 怪物の悲鳴が、さらに耳障りになる。


「お前……!」


 僕は意味もなく叫んだ。


「人を……寝てる間に殺すな!」


 ナイフを引き抜き、もう一度振る。


 怪物の胴が裂ける。


 裂けたところから、黒い霧が噴き出した。僕の死体の胸から立ち上っていた霧と同じだ。


 怪物は、霧でできているのか。


 霧が集まって、怪物になるのか。


 分からない。でも、分かることが一つある。


 こいつを壊せば、何かが止まる。


 怪物が後ろへ跳んだ。逃げるみたいに、メリーゴーランドのほうへ下がる。


 僕は追った。足元の黒いシミが絡む。転びそうになる。死体が視界に入る。自分の死体が、まだそこにいる。


 怖い。気持ち悪い。吐きそう。


 でも、止まれない。


 怪物が、最後の抵抗みたいに、穴の中の手を一斉に伸ばした。


 無数の手が、僕の顔と胸を狙う。触れたら終わる。掴まれたら心臓を潰される。


 僕は反射で腕を上げた。


 ナイフを、縦に振り下ろした。


 ざくり。


 手が、まとめて切れた。


 切れた手は、黒い霧になって散った。


 怪物の輪郭がさらに薄くなる。


 今だ。


 僕は、怪物の胸のあたりにナイフを突き刺し、握りしめたまま、ぐっと引き裂いた。


 怪物が、ひび割れるみたいに崩れた。


 耳障りな悲鳴が、ぶつりと途切れる。


 次の瞬間。


 怪物は霧散した。


 黒い霧が舞い上がり、夜空に吸い込まれていく。黒いシミが、地面から引いていく。遊園地の震えが止まる。


 静寂。


 観覧車の軋みも止まった。


 メリーゴーランドも止まった。


 世界が、止まったみたいに静かだった。


 僕は立ち尽くした。ナイフを握った手が震えている。


 やったのか。


 殺したのか。


 悪夢を。


 その瞬間、胸の痣が、焼けるように熱くなった。


「……っ!」


 痛い。現実の痛みだ。胸の奥を針で刺されるみたいな鋭い痛み。息ができない。膝が落ちる。


 視界が揺れる。


 僕の手の中のナイフが、黒い霧になって消えていく。


 遊園地が遠ざかる。


 暗闇が落ちてくる。


 次の瞬間、僕はベッドの上で跳ね起きた。


「はっ……!」


 息が荒い。胸が痛い。痣の部分が熱い。パジャマが汗で張りついている。時計を見る。午前三時を少し過ぎている。


 またこの時間だ。


 僕は震える手でスマホを掴み、真白にメッセージを打った。


 起きた。生きてる。


 送信。


 すぐに既読がつく。


 真白、寝てない。


 数秒後、返信。


 今すぐ胸見て。痣どう?


 僕はシャツをめくった。


 痣が、昨日より濃くなっていた。


 形がはっきりしている。まるで、何かに刺された跡みたいに。


 僕は写真を撮って送った。


 数秒後。


 真白から返信が来た。


 最悪。でも、生きてる。朝、ニュース確認して。絶対。


 僕はスマホを握ったまま、ベッドに座り込んだ。


 夢の中で怪物を斬った。


 そのとき、遊園地全体が震えた。


 あの怪物が、誰かの死に関わっているなら。


 僕が倒したことで、誰かが助かる可能性がある。


 そう思うと、少しだけ息ができた。


 でも、同時に怖い。


 僕は、夢の中で何かを殺した。


 それが現実に影響するなら、僕はもう戻れない。


 朝になった。


 目の下にクマを作ったまま、僕はリビングでテレビをつけた。母は「今日は早いね」と言った。僕は「目が覚めちゃって」と誤魔化した。


 ニュースが流れる。


 霧ヶ丘市内、若者の就寝中の心停止。


 その関連で、今朝の続報。


「昨夜、心停止で危篤状態となっていた高校生が、奇跡的に意識を取り戻しました」


 僕の手が止まる。


 画面に写真が出た。


 神崎先輩と一緒に写っていた、同じ部活の友人の一人。昨日、廊下で見たことがある顔。


 生き返った。


 いや、生き返ったんじゃない。死にかけて、戻ってきた。


 僕の心臓が、早鐘になる。


 つまり。


 僕が夢の中で怪物を倒したことで、危篤の誰かが助かった。


 そういう因果が、現実に起きた。


 僕は理解した。


 悪夢は、現実の死と直結している。


 そして僕は、その悪夢を殺せる。


 代わりに、僕の体に傷が残る。


 代わりに、僕の普通が壊れていく。


 スマホが震えた。


 真白からの電話だ。


『ニュース見た?』


「見た」


『……当たり、だね』


「……当たりだな」


 真白の声が少し震えている。強い真白でも、これは怖い。僕も怖い。


『凪斗。あんた、悪夢を倒したんだ』


「倒した、っていうか……必死で振り回しただけ」


『結果が全部だよ。助かった人がいる。それが証拠』


 真白は息を吸って、言った。


『つまり、これからもあんたは戦うことになる』


「……うん」


『でも、勝ち筋があるってことでもある』


「勝ち筋……」


『悪夢は殺せる。あんたが死ななければ』


 真白の言葉が、重く落ちる。


 僕は胸の痣を押さえた。昨日より濃い。痛い。熱い。


 このまま続けたら、僕はどうなる。


 悪夢を殺すたびに、僕の体は削れるのか。


 そして、僕が削れた先に、何がある。


 電話の向こうで、真白が言った。


『今日、放課後。廃遊園地、行こう』


「行くのかよ」


『行かないと。夢がただの夢じゃないなら、現実側にも入口があるかもしれない』


「入口」


『神崎先輩の幽霊、あんたをそこに誘導した。理由がある』


 真白は続けた。


『凪斗。あたし、怖いよ。でも、逃げたらもっと怖い』


「……分かった」


 僕は言った。言うしかなかった。


 僕の普通は、もう戻らない。


 でも、生きたい。


 生きるために、動く。


 そう決めた瞬間、僕のスマホにもう一件、通知が入った。


 差出人不明。


 昨日と同じ形式。


 画面に表示された文を見て、僕の血が引いた。


 次は二人だ。


 真白にも、同じ通知が届いたらしい。電話の向こうで、息を呑む音がした。


『……凪斗』


「……真白」


 二人。


 つまり、次の標的は僕だけじゃない。


 僕の隣にいる真白も、巻き込まれる。


 僕は喉が乾いた。


 悪夢で死ぬ世界は、もう僕の世界だけじゃない。


 僕の大事な人まで、引きずり込もうとしている。


 それでも、逃げない。


 逃げたら、真白が死ぬかもしれない。


 だから僕は、選ぶ。


 悪夢を、殺す側に回る。


 それが僕の、二話目の始まりだった。

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