悪夢を殺せるのは、夢の中で死んだ人間だけ

妙原奇天/KITEN Myohara

第1話 悪夢で死ぬ世界

 朝のニュースは、いつも同じような顔をしている。天気予報と渋滞情報と、芸能人の結婚と、誰かの不祥事。だから僕は、だいたい半分くらいの気持ちで眺めている。


 それでも、その日だけは目が止まった。


「霧ヶ丘市内で、就寝中の心停止が相次いでいます。亡くなったのは十代から二十代の若者が中心で、現時点では原因は不明。警察と保健所は関連を調べています」


 アナウンサーは淡々としていた。映像も、いつものように夜の住宅街と、ぼかされた遺族の家の前を撮ったものだ。だけど、画面の隅に出る年齢がやけに若い。


 十七歳。


 僕と同い年だった。


「なぎ、パン焦げる」


 キッチンから母の声が飛んできた。


「やば」


 僕はトースターを開けた。ちょっと黒い。焦げ目というより、軽い事故。マーガリンを塗ると、溶けるより先に染み込んだ。


「最近、これ多いよね」


 母がテレビを見ながら言う。


「若い子が寝たままって……怖いね」


「原因不明って言ってた」


 僕がそう返すと、母は一瞬、顔をしかめた。


「夜更かしとか、スマホとか……そういうのじゃないの?」


「分からないって」


「分からないのが一番怖いのよ」


 母はそう言って、味噌汁をお椀に注いだ。湯気が立って、いつもの朝の匂いになる。僕の家の朝は、だいたいこうだ。普通の朝食。普通の会話。普通の一日が始まる。


 霧ヶ丘は、どこにでもある地方都市だ。駅前に古いショッピングモールがあって、郊外に新しい大型店ができて、人の流れが少しずつ変わっていく。高校生の僕から見れば、刺激は少なくて、暮らしやすい。


 だから、なおさら合わない。


 寝ている間に若者が死ぬ。


 そんな異常が、この街に起きているなんて。


 学校へ向かう道は、冬の匂いがした。冷たい空気が鼻に入ると、頭が少しだけ冴える。吐く息が白い。制服のマフラーをきつく巻いて、僕は足早に歩いた。


 僕の名前は相原凪斗。高校一年生。成績は中の上。運動も中の上。取り立てて得意なものはない。苦手なものも、致命的ではない。


 つまり、普通だ。


 僕は普通でいたい。目立ちたくないし、変な噂も背負いたくない。とくにこの街は、噂が回るのが早い。駅前の喫茶店で見られた、コンビニで見られた、そういう小さなことが、いつの間にか話題になる。


 普通でいるのが一番安全だ。


 ただ、僕には一つだけ、普通じゃない部分がある。


 悪夢を見やすい。


 子どもの頃からずっとそうだった。夢の内容は毎回違う。でも、目が覚めたあとに残る感覚が同じだ。胸の奥が冷えるような、世界が一段だけ暗くなるような感じ。


 だから僕は、夜だけは世界を怖がっている。


 学校に着くと、教室はいつもの賑やかさだった。冬の朝は、ストーブの周りに人が集まる。窓の結露を指でなぞって落書きするやつもいる。


「ねえ見た? また寝たまま死んだってさ」


「マジ? この街、呪われてんじゃね?」


「寝てる間に死ねるなら勝ち組じゃん」


 そんな声が飛び交う。


 僕は席に鞄を置きながら、胸の奥がざらつくのを感じた。冗談にして笑える人が多いのは、分かる。怖いものは笑い飛ばしたほうが楽だ。


 でも、僕はそれができない。


「寝てる間に死ぬのって、むしろ楽でよくね?」


 後ろの席の男子が言って、周りが笑った。


「痛みゼロでしょ。最高じゃん」


「起きたくない朝とかあるしな」


「永遠の二度寝」


 笑いの波。


 僕は喉がひっかかる。


「……よくそんなこと言えるな」


 口から出てしまった。


 教室の空気が一瞬だけ止まる。止まって、すぐ動き出す。冗談を言っていた男子が、面白そうに僕を見る。


「相原、真面目だなあ」


「だって死んでんだぞ」


「ニュースの人じゃん。俺ら関係なくね?」


 その言葉に、僕はうまく返せなかった。関係ない、と思いたい。でも、あのニュースの年齢は、僕と同じだった。しかも同じ霧ヶ丘。


 いつ、僕の番になってもおかしくない。


 そんな想像が勝手に浮かんでしまう。


「凪斗、はいはい。朝から噛みつかない」


 横から肩をつつかれた。


 真白だった。


 真白は幼馴染で、同じクラスだ。髪は肩に少しかかるくらい。目が大きくて、よく笑う。笑うと、口元が少しだけ右に寄る癖がある。


「相原の言ってることも分かるけどさ、ここで空気悪くしても損だよ」


「分かってる」


「分かってない顔してる」


 真白はそう言って、僕の机の上に小さなカイロを置いた。


「はい。朝、手、冷たかったから」


「……なんで分かるんだよ」


「幼馴染をなめないで」


 真白は得意そうに笑った。


 その瞬間だけ、胸のざらつきが少し和らぐ。真白は、僕が夜に弱いことを知っている。中学の修学旅行のとき、僕が夜中に悪夢で起きてしまい、廊下の自販機前でしゃがんでいたところを見つかったことがあるからだ。


「最近、怖い夢見てる?」


 真白が声を落とした。


「別に」


「嘘。今の顔、嫌な予感してる顔」


「……してる」


 僕が小さく認めると、真白は目だけを細くした。


「じゃあ今日は、変なこと考えない。放課後、寄り道する」


「寄り道?」


「駅前のクレープ。新しい店できたの。甘いの食べると、脳みそが単純になるって聞いた」


「それ科学?」


「気持ちの問題」


 真白はさらっと言って、席に戻った。


 授業が始まる。先生の声が黒板に跳ねる。ノートを取る。いつもの授業。いつもの一日。だけど、朝のニュースの言葉が、頭の片隅で消えない。


 就寝中の心停止。


 原因不明。


 若者が中心。


 昼休み、スマホを見ると、SNSのタイムラインにもそれが流れてきていた。


 霧ヶ丘やばい。


 寝たら死ぬ街。


 都市伝説みたい。


 怖。


 ふざけたスタンプと一緒に拡散されている投稿もあった。誰かが真面目に書き込んだ注意喚起も、同じくらいの速度で流れていく。


 情報の渦の中で、怖さだけが残る。


「ねえ相原」


 隣のクラスの女子が声をかけてきた。


「真白と幼馴染なんでしょ? いいなー」


「まあ……」


「今日も一緒に帰るの?」


 そういう軽い話題が、僕は苦手だ。普通でいたいのに、こういうところで目立つと、変な噂が生まれる。


「たぶん」


 適当に返して、スマホをポケットにしまった。


 放課後、真白は宣言通り僕を引っ張って駅前へ向かった。クレープ屋は、ショッピングモールの端にできたばかりで、行列ができていた。高校生の群れが、甘い匂いを吸い込みながら並んでいる。


「ほら、こういうの。平和じゃん」


 真白が言う。


「平和って、クレープで判断するのか」


「少なくとも、今この瞬間はね」


 僕は苦笑した。真白のこういうところが、強い。怖いことがあっても、日常の具体で押し返してくる。


 僕たちは並んで、クレープを買った。真白は苺とチョコ。僕はバナナと生クリーム。甘すぎる気がしたけど、口に入れると意外と落ち着く。


「で、何が怖いの」


 真白が、歩きながら聞いた。


「……分かんない。怖い夢が来そうっていうだけ」


「それ、いつもじゃん」


「いつもより、嫌な感じ」


「じゃあ、今夜は動画でも見ながら寝る?」


「それ余計眠れなくなる」


「じゃあ、あたしが子守唄歌う?」


「やめろ。恥ずかしい」


「冗談冗談」


 真白は笑った。笑いながらも、僕の顔をちゃんと見ている。


「ねえ凪斗。もし本当に、夢で死ぬならさ」


 急に声が真剣になった。


「起きてる間に、対策するしかないじゃん」


「対策って……どうやって」


「例えば、寝ない」


「無理だろ」


「じゃあ、寝る前に悪夢を見ない方法を探す」


「そんなのあるのかよ」


「ないなら作る」


 真白は、普通のことを言うみたいに言った。


 僕は、その強さが羨ましかった。


 家に帰ると、夕飯の匂いがした。父は単身赴任中で、家には僕と母だけだ。母は僕の顔を見ると、いつもの調子で言う。


「おかえり。今日は寄り道?」


「クレープ」


「また甘いもの。夕飯入るの?」


「入る」


 母は笑って、鍋の蓋を開けた。湯気が立つ。普通の家の普通の夕飯。ニュースの異常が、そこでは一瞬、遠くなる。


 だけど、夜は来る。


 食後、風呂に入って、歯を磨いて、部屋に戻る。冬の夜は静かだ。窓の外の街灯が、カーテンの隙間を淡く照らす。


 布団に入る前、僕はスマホでまたニュースを見てしまった。


 似たような記事が並ぶ。どれも原因不明。どれも睡眠中。どれも若者。


 コメント欄には、好き勝手な言葉が並んでいる。


 呪いだ。


 政府の陰謀だ。


 睡眠薬のせい。


 ワクチンのせい。


 もう全部、なんでもありだ。


 僕はスマホを伏せた。これ以上見ても、心が削れるだけだ。


 部屋の明かりを消す。


 暗闇。


 僕は目を閉じるのが怖かった。でも、眠らないわけにはいかない。学校もある。日常を維持するには、睡眠が必要だ。


「……大丈夫」


 自分に言い聞かせる。


 夢は夢だ。


 悪夢を見ても、起きれば終わる。


 いつもそうだった。


 それが当たり前だ。


 だから今夜も、きっと。


 そう思いながら意識が沈んでいって、次の瞬間、僕は立っていた。


 見知らぬ場所。


 夜。


 空が低い。


 そこが廃遊園地だと分かったのは、少し歩いてからだった。


 錆びた看板。色の剥げたキャラクター。折れた柵。地面には枯れ葉が厚く積もっている。風が吹くと、金属が擦れる音が耳に刺さった。


「……なんだよ、ここ」


 声が出る。自分の声なのに、遠い。空気が冷たくて、肺が縮む。夢なのに、息が白い気がした。


 鼻に入るのは、鉄の匂いだ。雨上がりの公園みたいな匂い。でももっと古くて、生臭い。


 僕は足元を見た。


 地面に、黒いシミがある。


 水たまりのように広がっている。なのに光を反射しない。底が見えない。踏み込むと、靴底が吸い付くような感触がした。


「……嫌だな」


 夢だと分かっているのに、体が勝手に警戒する。


 背中が寒い。


 僕は周囲を見回した。


 観覧車が見える。錆びて、座席がいくつか欠けている。だけど、ゆっくりと回っていた。誰も乗っていないのに回っている。それだけで、ぞっとする。


 遠くで、子どもの笑い声がした。


 楽しそうな声。


 この場所に似合わない声。


「……やめろ」


 僕は言った。誰に向けた言葉か分からない。夢に向けてか、声に向けてか、それとも自分の恐怖に向けてか。


 笑い声が、近づいてくる気がした。


 僕は歩き出した。走りたかった。でも足が重い。地面の黒いシミが、靴にまとわりついているみたいだった。歩くたび、靴底がぬるっとする。


 メリーゴーランドが見えた。


 色褪せた木馬が、音もなく回っている。昔はきっと、明るい音楽が流れていたはずだ。今はただ、回転の気配だけがある。空気が、妙に静かだ。


 その中央で、何かが動いた。


 最初は、木馬の影が揺れただけだと思った。


 でも違う。


 木馬の一体が、ぐにゃりと歪んだ。


 硬い木が、柔らかい肉みたいに変形する。骨が折れる音がして、馬の形が崩れて、人の形に近づいていく。


 腕が生える。足が生える。


 顔ができる。


 顔は人みたいだった。だけど、目の部分が黒い穴になっている。その穴の中で、何かがうごうごと動いている。


 手だ。


 無数の手が、穴の中から這い出そうとしている。


「……っ」


 声が出ない。


 夢だ。夢だ。夢だ。


 頭の中で叫ぶ。でも、体は動かない。足が、地面に縫い付けられたみたいに重い。


 異形の何かが、こちらを向いた。


 首が、関節のない動きで回る。


 穴の中の手が、指を広げた。


 その瞬間、僕は確信した。


 これは、僕を殺すためにいる。


 後ずさった。


 足元の黒いシミが、一気に広がった。水たまりのように見えたものが、急に生き物みたいに動く。足首に絡みつき、締めつけてくる。


「やめろ……!」


 僕は足を引こうとした。だけど、黒いものは粘りついて離れない。冷たいのに、ぬるい。気持ち悪い感触が足に伝わって、吐き気が込み上げる。


 怪物が近づく。


 一歩。二歩。


 地面が軋む。観覧車の金属音が、遠くで鳴る。子どもの笑い声が、なぜか僕の耳元にある気がする。


「来るな!」


 叫んだ。


 怪物は止まらない。


 僕は必死に足を引いた。黒いものが伸びて、膝まで絡んでくる。動けば動くほど、絡みつきが強くなる。


 逃げる。逃げないと。


 僕は上半身だけを捻って、出口を探した。


 ゲートが見える。錆びた入口。そこに行けば外に出られる。夢なら、外に出れば覚めるかもしれない。そういう根拠のない期待が湧く。


 僕は腕で地面を押して、ずるずると前に進んだ。黒いシミが、僕を引き戻そうとする。足首が痛い。皮膚が引っ張られるみたいだ。


 やっとの思いで黒いものを振りほどき、立ち上がる。


 走った。


 足が重い。地面が柔らかく沈む。走るたびに、黒いシミが後ろから追いかけてくる気配がある。


 ゲートに手を伸ばした。


 その瞬間、景色が変わった。


 ゲートが消えている。


 そこにあるのは、光るネオンだった。


 目覚めはない。


 そう書かれている。


「……は?」


 言葉が出た。意味が分からない。夢なのに。悪夢でも、最後には起きられる。そういう当たり前が、当たり前じゃないと言われた気がした。


 背後から、湿った音がした。


 振り向きたくない。振り向いたら終わる。そう思うのに、首が勝手に回る。


 怪物が、そこまで来ていた。


 穴の中の手が、僕に向かって伸びる。


「やめろ! やめろ!」


 僕は後退した。足が滑る。黒いシミがまた絡む。今度は足首だけじゃなく、ふくらはぎまで掴まれた。


 怪物の腕が伸びる。


 それは腕というより、骨のない肉の棒みたいだった。先端が指の形になっていて、爪が黒い。


 僕は腕で防ごうとした。だけど、触れた瞬間、冷たさが骨の中まで染みた。


 次に来たのは痛みだった。


 胸が、貫かれた。


 そう見えた。


 現実の痛みと同じ質の痛みが、一気に広がった。息ができない。喉が詰まる。胸の奥を、握り潰される。


「……っ、ぁ……!」


 声が出ない。視界が赤く染まる。血の色というより、夕焼けの濃い赤が、目の中に流れ込むみたいに。


 心臓を掴まれた。


 ぎゅっと。


 その感覚が、あまりにもはっきりしていた。


 夢なのに。


 夢だからこそ、現実と違う痛みのはずなのに。


 これは、死ぬ痛みだ。


 僕は理解した。理解してしまった。


 怖い。怖い。怖い。


 でも、叫ぶ声も、逃げる足も、もう動かない。


 世界が遠ざかる。


 観覧車の音が遠くなる。子どもの笑い声が遠くなる。自分の心臓の鼓動が、遠くなる。


 闇が落ちてきた。


 ああ、自分は本当に死ぬんだ。


 そんな馬鹿な、と言いたかった。でも、言葉が出ない。闇が全部を覆い隠す。


 そして。


 僕はベッドの上で跳ね起きた。


「はっ……!」


 息が荒い。喉が痛い。全身汗まみれで、パジャマが肌に張りついている。胸に手を当てると、心臓が暴れている。ちゃんと生きている。


 時計を見た。


 午前三時。


 いつも悪夢で起きる時間に近い。だけど、いつもと違う。胸の奥に、さっきの痛みが残っている。幻の痛みじゃない。神経が覚えている。


「……夢、だよな」


 僕は自分に言った。声が震えた。


 部屋の空気は冷たい。エアコンは切ってある。冬だから当然だ。でも、さっきの遊園地の冷たさが、まだ皮膚に残っている気がした。


 水を飲もうと思って、ベッドから降りた。


 その瞬間、足が止まった。


 床に、黒い足跡がある。


 泥のような足跡。人の靴跡じゃない。どこか歪で、爪先が細く伸びている。犬でも猫でもない。何か別の生き物の形。


「……嘘だろ」


 声が小さく漏れた。


 足跡は、部屋の隅からベッドの横まで続いている。まるで、誰かが僕の寝ているところまで来たみたいに。


 背中が冷える。


 僕は息を殺した。部屋のどこかに何かがいるんじゃないかと思った。カーテンの影。クローゼットの隙間。机の下。全部が怪しく見える。


 スマホが震えた。


 びくっと体が跳ねる。


 画面を見ると、ニュースアプリの通知だった。


 市内の高校生が就寝中に死亡。


 心臓がまた強く跳ねた。


 僕は震える指で通知を開いた。記事の見出しが出る。学校名は伏せられている。だけど、写真が載っていた。顔はぼかされていない。遺族が公開を許可したのか、あるいは別のルートか。


 僕は、その顔を見て息を止めた。


 夢の中で、廃遊園地のゲートの近くに立っていた少年。


 見知らぬ顔だったはずなのに、今は分かる。


 同じ学校の二年生だ。


 廊下で何度か見たことがある。部活帰りに、駅前で友達と笑っていたのも見た。名前は知らない。でも、確かに存在していた。


 その人が、死んだ。


 寝ている間に。


 僕の喉が、からからに渇いた。


 夢の中で、目覚めはないと光っていた。


 あれは、ただの悪夢じゃない。何かが現実と繋がっている。


 そして、夢の中で死ぬことが、現実の死に繋がる。


 僕は、その可能性を否定できなくなっていた。


「……真白」


 気づけば、僕はスマホの通話画面を開いていた。時間を見る。午前三時過ぎ。非常識だ。でも、今はそれどころじゃない。


 発信。


 呼び出し音。


 数回鳴って、切れそうになったとき、相手が出た。


『……なに、凪斗……?』


 寝起きの声。かすれていて、少し不機嫌。だけど、真白の声だ。


「ごめん、起こした」


『当たり前でしょ。何時だと思ってんの』


「分かってる。分かってるけど……今、ニュースが」


『ニュース?』


「また……死んだ。寝てる間に」


 電話の向こうで沈黙が落ちた。真白は、僕の声の調子から何かを察したんだと思う。普段の僕なら、こんな時間に電話なんかしない。


『……凪斗、悪夢?』


「見た。今までで一番、やばいやつ」


『どんな?』


「廃遊園地。怪物に殺された」


『……殺された?』


「胸を貫かれて……心臓掴まれて……死んだって分かった」


 言葉にすると、喉がまた震えた。夢の話を真剣に語るなんて、普通なら恥ずかしい。でも、今は恥ずかしさより恐怖が勝っている。


『で、起きたんだよね』


「起きた。でも……部屋に足跡がある」


『足跡?』


「黒い泥みたいな。人のじゃない」


 真白が息を吸う音が、電話越しに聞こえた。


『……凪斗、今すぐ電気つけて。部屋のドア、鍵かけて。窓も確認して』


「もう電気はつけた」


『じゃあ、足跡の写真撮って。送って』


「今?」


『今。証拠。あと、変な音したら絶対にドア開けないで』


 真白の声が、急にしっかりした。寝起きの気配が消えていく。こういうとき、真白は強い。僕が揺れるとき、真白は立つ。


 僕はスマホのカメラを起動して、足跡を撮った。フラッシュを焚く。床の木目の上に、黒い跡がくっきり写る。写真を真白に送る。


『……これ』


 真白の声が、少しだけ揺れた。


『ほんとに……人のじゃないね』


「だろ」


『凪斗、今からそっち行く』


「無理だろ。夜中だぞ」


『無理じゃない。近いし。歩いて十分』


「危ない」


『危ないのは凪斗でしょ』


 真白は言い切った。


『あたし、今から着替える。五分で出る。玄関の鍵、開けといて。あ、でもチェーンはかけたまま。あたしが着いたら、声かけるから』


「……分かった」


 僕は言った。心のどこかで、真白に来てほしかった。自分一人でこの恐怖を抱えるのが限界だった。


 通話を切ってから、僕は部屋をもう一度見回した。足跡は消えない。部屋の空気が重い。


 僕はリビングに下りた。母は寝ている。起こしたくない。起こしても、説明できない。夢で死にかけて、足跡があって、同じ時間に高校生が死んだ。そんな話をしたら、母は怖がるか、僕を病院に連れていくだろう。


 玄関の電気をつける。チェーンをかけたまま鍵を開ける。外の空気は冷たい。静かな住宅街。遠くで車が一台走る音がするだけ。


 五分。


 十分。


 時間がやけに長い。


 僕は玄関の内側で待ちながら、考えてしまう。


 もし、夢で死んだら現実でも死ぬなら。


 さっき僕は、確かに死んだ感覚があった。


 なのに、生きている。


 じゃあ何だ。


 死んだのに戻ってきたのか。


 それとも、僕が死んだのは夢の中だけで、現実にはまだ繋がっていないのか。


 でも、足跡がある。


 夢の中のものが、現実に痕跡を残した。


 その繋がりがあるなら、次は本当に。


 玄関の外で、小さな足音がした。


 僕は息を止めた。


「凪斗。あたし」


 真白の声。


 僕はチェーン越しにドアを少し開けた。真白がマフラーを巻いて立っている。髪が少し乱れている。目が寝不足の赤になっている。でも、表情は真剣だった。


「入って」


「うん」


 真白は靴を脱いで上がった。僕はすぐにドアを閉め、鍵をかけた。チェーンも戻す。真白はその動きを見て、うなずく。


「で、どこ」


「僕の部屋」


 階段を上がる間、真白は何も言わなかった。ふざけた冗談もない。僕の恐怖に合わせて、ちゃんと真面目になっている。


 部屋に入ると、真白は足跡を見て、眉を寄せた。


「これ……」


「さっき撮ったやつと同じ」


 真白はしゃがんで、少し距離を取って観察した。触ろうとはしない。賢い。触って何か起きたら終わりだ。


「これ、どっちから来た?」


「……あっち」


 僕は部屋の隅を指した。足跡はそこから始まり、ベッドの横まで続いている。


「つまり、部屋の中に最初からいたわけじゃない。どこかから入ってきた」


「窓?」


「窓は?」


 真白に言われて、僕は窓を見た。鍵は閉まっている。カーテンを開けて確認する。隙間もない。クローゼットも開ける。何もない。


「じゃあ……どうやって」


「分かんない。でも、夢と現実が繋がってるなら、物理じゃない」


 真白の言葉に、背中がぞくっとした。


 物理じゃない。


 つまり、鍵も窓も関係ない。


 夢から入ってくるなら、どこでも通る。


「凪斗、夢の話、もっと詳しく」


「……廃遊園地。観覧車が回ってた。子どもの笑い声が聞こえて。地面に黒いシミがあって、踏むと重かった」


「黒いシミが、絡んできた?」


「そう。足首にまとわりついて……逃げられなかった」


「怪物は?」


「メリーゴーランドから出てきた。木馬が歪んで、人みたいになって……目が穴で、その中に手がいっぱい」


 真白は顔をしかめた。


「最悪」


「……うん」


「でも、凪斗は起きた。起きたってことは、完全に終わりじゃない」


「次は分からない」


「そう。だから、対策」


 真白は立ち上がって、僕の机の上のスマホを指した。


「その死んだ二年生。写真に写ってたって言ったよね」


「うん」


「凪斗、夢の中で、その人を見たって言ったよね」


「ゲートの近くに立ってた」


「それ、偶然じゃない」


 真白の声が低くなる。


「たぶん、あの人も同じ夢を見た。そこで死んだ」


 言われなくても分かっていた。だけど、言葉にされると、現実の重さになる。


「じゃあ……僕も」


「可能性ある。でも、凪斗は戻ってきた」


 真白は僕の目を見た。


「そこが鍵」


「鍵?」


「起きられた理由。凪斗だけが助かった理由。もしかすると、凪斗の悪夢体質が関係してる」


 真白の言い方は、理屈っぽい。だけど、怖がりながらも筋道を立てようとしている。僕にとっては、そのほうがありがたい。怖いものを、ただ怖いで終わらせたくない。


「凪斗、今夜の夢、最後どうなった?」


「……殺されて、闇になって、目が覚めた」


「そのとき、何か思った? 例えば、生きたいとか」


「……思った。死にたくないって」


 真白は小さくうなずいた。


「その気持ちが強かったから、戻ってこれた?」


「そんな精神論で?」


「精神論じゃないかもしれない。夢が現実に影響するなら、意志が夢に影響してもおかしくない」


 真白はそう言い切った。


 僕は、その発想に少しだけ救われた。夢が現実を殺すなら、現実の僕が夢を変えられるかもしれない。そう思えたから。


「でも、足跡が残ってる。つまり、完全には切れてない」


「うん」


「じゃあ、今夜また来る?」


「分かんない。でも、備える」


 真白はスマホを取り出した。


「今から、やれること全部やる。まず、この足跡、消えるか試す。水、持ってきて」


「え」


「雑巾も」


 僕は慌てて下へ降りた。母を起こさないように静かに台所へ行き、バケツと雑巾を持って戻る。


 真白は足跡の端に、少しだけ水を落とした。


 じゅ、と音がした気がした。


 僕は息を止めた。


 水が蒸発したわけじゃない。水が、黒い跡に吸われていく。染み込むというより、飲み込まれる。


「……消えない」


 真白は言った。


「むしろ、吸ってる」


「これ、生きてるのかよ」


「分かんない。でも、普通じゃない」


 真白は雑巾を水から遠ざけた。


「触らない。広げたら終わる」


「じゃあどうする」


「写真をもっと撮る。角度変えて。明るさ変えて」


 真白は僕に指示を出しながら、足跡を記録していく。まるで、事件現場の検証みたいだった。僕は言われるままに撮った。部屋の中の異常を、現実のデータにしていく。


 撮り終えると、真白はスマホを握りしめた。


「凪斗、明日、学校でその二年生のこと聞ける?」


「……噂になるだろうし、誰か知ってると思う」


「じゃあ、名前。部活。交友関係。どんな子だったか」


「探偵かよ」


「探偵にならないと死ぬかもしれない」


 真白は真顔で言った。


 僕は笑えなかった。


 真白は一度深呼吸してから、少しだけ声を柔らかくした。


「凪斗。今、怖い?」


「……怖い」


「そっか」


 真白は短くうなずいた。


「でも、一人じゃない。あたしがいる」


 その言葉が、胸の奥に落ちた。暖かいわけじゃない。けれど、冷え切るのを止めてくれる。そういう支え方だった。


 窓の外が、少しだけ白み始めていた。冬の朝は遅い。だけど、確実に夜は終わる。


 僕は思った。


 夜が終わったからって、安心できるわけじゃない。


 次の夜が来る。


 そして、その夜にまた夢を見る。


 悪夢で死ぬ世界。


 それが本当に存在しているなら、僕はそこから逃げられない。


 普通でいたい僕にとって、それは最悪だった。


 だけど。


 真白がいる。


 足跡が残った。


 死んだはずなのに、僕は起きた。


 つまり、まだ何か余地がある。


 僕は知らない。


 この恐怖が、僕に何を与えるのか。


 それが「死」と引き換えに手に入る能力の序章だと、まだ理解していない。


 ただ、今は一つだけ確かなことがある。


 僕はもう、ただの悪夢体質の高校生ではいられない。


 目覚めはない、とネオンは言った。


 じゃあ、目覚めなくていい。


 僕は、目を開けたまま戦う。


 そう決めた瞬間、スマホがまた震えた。


 通知ではない。


 メッセージ。


 差出人不明。


 画面に表示された短い文を見て、僕の背中が凍った。


 次は君だ。


 たったそれだけ。


 なのに、胸の奥がひっくり返る。


 真白も同じ画面を見たらしく、息を呑んだ。


「……凪斗」


 真白の声が震える。


「これ、いたずらじゃない」


「……うん」


 僕は答えた。答えながら、自分の指先が冷たくなるのを感じた。


 廃遊園地の冷たさが、まだ残っている。


 足跡の黒が、まだ床にある。


 そして、次は君だ。


 この世界は、僕を逃がさない。


 それでも僕は、生きるしかない。


 普通でいたいなんて、言っていられない。


 僕の悪夢は、こうして始まった。

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