第3話 悪夢の狩人

 朝の教室で、誰かが言った。


「神崎先輩の友達、奇跡の生還だって」


 その瞬間、クラスの空気が少しだけ明るくなる。昨日までの沈んだ感じが、ほんの少しだけ薄まる。


 人は、救いがあると安心する。


 自分が助かったわけじゃなくても、誰かが助かったという事実だけで、世界が少しマシに見える。


「心臓止まってたのに、急に戻ったらしいよ」


 真白が僕の机の上に肘をついて言った。朝からテンションが高い。悪いニュースが続いたあとに入った良いニュースは、ドーピングみたいに効く。


「マンガみたいだよね。あのさ、医者も『え?』ってなったって」


「医者が『え?』って言うの、想像したくない」


 僕がそう返すと、真白は笑った。


「でしょ? でもすごくない? ほら、霧ヶ丘、呪われてるとか言われてたけどさ。逆に守られてる説ある」


「守られてるなら、そもそも死んでない」


 僕が言うと、真白は口を尖らせる。


「凪斗、現実的。夢のない男」


「夢が悪夢だからな」


 言ってから、僕は自分の舌を噛みそうになった。


 悪夢。


 その単語は、今の僕にとってただの比喩じゃない。


 現実に繋がっている。人を殺す。僕の胸に痣を残す。僕にナイフを握らせる。


 僕は笑えなかった。


 真白が笑っている横で、僕は胸のあたりを服の上から押さえた。痣は消えるどころか、じわじわ濃くなっている気がする。昨日より、熱い。


 夢で怪物を斬るたびに、現実の体が削られる。


 このまま続けたら、僕が先に壊れる。


 そう思うと、胃が冷えた。


「……凪斗?」


 真白が僕の顔を覗き込む。


「なに。今日も顔色悪いよ」


「寝不足」


「それ、いつもじゃん」


「今日は、いつもより」


 僕は曖昧に言って、ノートを開くふりをした。


 真白は納得していない顔をする。でも、授業が始まったから、それ以上は言わなかった。


 僕はホッとした。


 ホッとしたのに、罪悪感が湧く。


 真白は僕の味方だ。だけど、全部話したら巻き込む。昨日の通知みたいに、標的が二人になるかもしれない。


 すでに「次は二人だ」という通知が来た。


 僕のせいで、真白が狙われる。


 それが怖い。


 だから、真白には全部言えない。


 僕は最低だ。


 授業中、ふと視線を感じた。


 前の席でも、後ろの席でもない。斜め後ろ。


 僕はそっと首だけ動かした。


 不知火瑛士がこっちを見ていた。


 不知火瑛士。しらぬい えいじ。


 同じクラスだけど、僕とはあまり関わりがない。というか、クラスの誰とも距離がある。いつも窓際の席で、スマホをいじっていたり、文庫本を読んでいたりする。


 たまに、授業中に先生に当てられても、淡々と答える。成績は良いらしい。体育も手を抜かない。でも、部活も委員会もやってない。文化祭でも手伝わない。


 だから、浮いている。


 だけど、本人は気にしていないように見える。


 その瑛士が、僕を見ている。


 視線が鋭い。興味というより、観察。何かを確かめるみたいな目。


 僕は視線を逸らした。


 嫌な予感がした。


 昼休み。


 僕が弁当を開けた瞬間、瑛士が僕の机の前に立った。


「相原」


 声が低い。呼ばれるだけで心臓が跳ねる。


「……何」


 僕が顔を上げると、瑛士は椅子を勝手に引いて座った。遠慮がないというより、世界のルールが自分基準だ。


 真白が「え、なにこの図」と言いたげな顔で見てくる。僕は小さく首を振って、今は黙ってくれと伝えた。


「お前、最近よく寝不足だろ」


 瑛士はストレートに言った。


「クマ、できてる。あと、授業中ずっと胸押さえてた」


「見てたのかよ」


「見てた」


 瑛士はさらっと言う。そこに悪意はない。だから余計に怖い。


「体調悪いだけだ」


「じゃあ病院行け」


「行ってない」


「じゃあ、体調悪いだけじゃない」


 瑛士は指で僕の弁当箱を指した。


「箸、止まってる。今も」


「……食欲ないだけ」


「ストレス?」


「……そう」


 僕が嘘を重ねると、瑛士は机の上にスマホを置いた。


「ストレスの原因、これだろ」


 画面には、ニュース記事が表示されていた。


 霧ヶ丘市内で相次ぐ若者の就寝中突然死。


 神崎洸介、高校二年、死亡。


 心停止で危篤だった高校生が、奇跡的に意識回復。


 僕の喉が乾く。


「別に。みんな見てるだろ」


「みんなは、見るだけ。お前は、違う顔をしてる」


 瑛士の言葉が刺さる。


「相原。寝てる間に人が死ぬ事件、ただの偶然の連続だと思うか?」


 僕は答えなかった。


 答えられなかった。


 偶然じゃない。偶然じゃないと知っている。でも、知っていると言ったら終わる気がする。


「俺は思わない」


 瑛士は僕の沈黙を勝手に肯定した。


「この件、俺なりに調べた」


 瑛士はスマホを操作して、次々に画面を見せてくる。ネット記事。まとめ。個人ブログ。ニュースの切り抜き。どれも、信憑性はバラバラ。でも、共通する要素がある。


「ここ数年で増えてる。霧ヶ丘だけじゃない」


 瑛士が指でグラフを拡大した。


「全国。特に若年層。死因は不明。心停止で片付けられてる。つまり、原因に辿り着けてない」


「……それ、どこ情報」


「公的統計とニュースの件数を自分で拾った。正確じゃないけど、傾向は見える」


 瑛士は淡々と言う。自分で拾った。普通の高校生の言葉じゃない。


「で、これ」


 次に見せられたのは、掲示板の書き込みのスクショだった。


 昨夜、変な夢を見た。


 遊園地。黒い影。目。目。目。


 誰かに胸を掴まれて目が覚めたら、友達が死んでた。


 偶然だろうけど、怖い。


 僕は息を止めた。


 遊園地。黒い影。目。


 僕が見ている悪夢と似ている。


「……この書き込み、ただの怖がりだろ」


 僕は必死に平然を装った。


「もちろん。全部が本当とは限らない」


 瑛士は肩をすくめた。


「でも、似た夢の証言がいくつもある。『遊園地』『黒いシミ』『目』。それに『目覚められない』って言葉もあった」


 僕の背中が冷える。


 目覚めはない。


 あのネオンの言葉。


 僕だけじゃない。他にも見ている人がいる。つまり、悪夢は共有されている。あるいは、同じものに繋がっている。


「相原」


 瑛士が身を乗り出す。


「もしかしたら、何か悪夢そのものを操ってるやつがいるのかもしれない」


「操るって……」


「例えば、夢を媒介にして人を殺す。そういうシステムを持つ何か」


 瑛士の言い方は、オカルトなのに理屈っぽい。都市伝説を科学の言葉で包んでいるみたいだ。


「お前、都市伝説好きだもんな」


 僕が話を逸らそうとすると、瑛士は笑わなかった。


「好きだよ。だって現実が一番怖いから」


 瑛士はさらっと言った。


「だから、現実で起きてるこの事件も、俺は見逃せない」


 瑛士の目が光った。


「相原。お前、何か知ってるだろ」


 心臓が跳ねた。


 真白の視線が刺さる。真白は僕と瑛士の間に流れる空気の変化に気づいている。


 僕は逃げたかった。


 でも、逃げても問題は消えない。悪夢は来る。誰かが死ぬ。次は真白かもしれない。次は僕かもしれない。


 瑛士はもう調べている。


 ここで僕が黙っていても、瑛士は勝手に突っ込んで、勝手に死ぬかもしれない。そんな未来が見える。


 僕は息を吐いた。


「……全部は言えない」


 瑛士の口角が上がった。


「全部じゃなくていい」


「……一部だけだ」


 僕は声を落とし、机の下で拳を握った。


「俺、二日前の夜……夢の中で死んだ」


 瑛士の目が細くなる。驚くかと思ったけど、驚かない。むしろ、もっと聞きたい顔をする。


「死んだって?」


「胸を貫かれて……心臓掴まれて……本気で死んだって分かった」


「で、生きてる」


「起きた」


 僕は続けた。


「起きたら、部屋の床に足跡があった。黒い泥みたいな。あと、その夜、神崎先輩が死んだ」


 瑛士の指がぴくりと動いた。


「一致」


「……そう」


「で、その次の日」


 僕は喉を鳴らした。


「神崎先輩の影みたいなものが見えた。半透明で、俺に『悪夢を殺せ』って」


 瑛士の目が、明らかに変わった。興奮の光。嬉しそうな光。


 僕はその表情に、ぞっとした。


「マジで?」


 瑛士は小声で言った。


「超面白いじゃん」


「面白くない」


「面白いよ。だって、世界の裏側じゃん」


 瑛士は笑っている。僕の中で何かがムカっとした。神崎先輩が死んで、僕が死にかけて、真白が巻き込まれそうで、そんな状況で面白いと言うのか。


「不謹慎だろ」


 僕が言うと、瑛士は首を傾げた。


「不謹慎って言葉、便利だよな。怖いものを見ないための蓋になる」


 瑛士の声は冷たくなかった。むしろ、まっすぐだった。


「相原。俺は笑ってるんじゃない。燃えてるんだよ。怖いから。だから燃える」


 その言い方に、僕は少しだけ言葉を失った。


「で」


 瑛士は机の上で指を組んだ。


「お前、悪夢を殺したんだろ」


「……殺したっていうか、斬った」


「それで?」


 瑛士の目がさらに光る。


「その翌朝、心停止だったやつが意識回復したニュースが出た」


 僕は頷いた。


 瑛士は、両手を軽く叩いた。静かな拍手。


「当たり。つまり、悪夢と現実の死は繋がってる。お前はそれを断ち切れる」


「代わりに俺の体が削れる」


 僕が言うと、瑛士は「ああ」と言った。


「代償。王道だな」


「王道とか言うな」


「王道は強い。だってみんな理解できる」


 瑛士はにやっとした。


「相原。俺たち、悪夢ハンターになれるじゃん」


 僕は頭を抱えたくなった。


「俺たち、って言うな」


「言う。だってお前一人じゃ無理だろ」


「……」


「お前が夢の中で戦うとして、俺は現実側で情報を集める」


 瑛士は言葉を早くした。頭の中で構想が走っているのが分かる。


「誰が次のターゲットか、どうやって特定するか。悪夢の共通点。発生条件。関係者。犯人がいるなら犯人の痕跡。全部、現実側で拾う」


 僕は言った。


「……そんなこと、できるのか」


「できるようにする」


 瑛士は即答した。


「情報があれば、動ける。動けば、助けられる」


 僕は胸の痣を思い出した。斬るたびに痛む。いつか僕が死ぬ。そう思うと、瑛士の提案は怖い。協力者が増えるのはありがたい。でも、瑛士が変な方向へ走ったら終わる。


「一つだけ条件」


 僕が言うと、瑛士は面白そうに眉を上げた。


「なに」


「真白には、今は言わない」


 瑛士の目が僕の後ろにちらっと動いた。


 真白は少し離れた席で、友達と話しているふりをしている。でも、耳はこっちを向いている。絶対に。


「幼馴染か」


 瑛士が小声で言った。


「関係ある」


「お前、守りたいんだな」


「……そういう言い方やめろ」


 瑛士は笑った。


「いいよ。言わない」


 軽い返事。でも、軽いからこそ信用できない。僕は釘を刺した。


「勝手に近づくな。勝手に話すな」


「了解、相原隊長」


「隊長じゃない」


 瑛士は肩をすくめた。


「じゃあ相原。俺たちでやれること、今日からやろう」


 僕は渋々頷いた。


 協力者が必要なのは事実だ。


 僕が倒れたら終わる。真白が狙われたら終わる。霧ヶ丘で誰かが死に続けるのも終わりだ。


 昼休みが終わり、瑛士は去っていった。


 その背中を見送りながら、僕は胸の奥に小さな不安を抱えた。


 瑛士は、面白がっている。


 それが危険だ。


 でも同時に、瑛士は本気だ。


 本気は武器にもなる。


 放課後。


 真白は僕に「今日、廃遊園地行くんでしょ」と言いかけて、止まった。僕が頷かなかったからだ。


「……なにか隠してる」


 真白が小さく言う。


「隠してない」


「隠してる」


 真白の目が鋭い。


「凪斗、あたし、置いてかれるの嫌なんだけど」


 胸が痛んだ。真白は強い。だからこそ、一緒に戦える。でも、巻き込んだら終わる。


「今日は……やめとく」


 僕は嘘をついた。


「え?」


「危ないし。もう少し様子見る」


 真白の眉が寄った。


「凪斗、それ、怖くて逃げてる顔だよ」


「逃げてない」


「逃げてる」


 真白は言い切った。でも、ここで揉めたら目立つ。僕はそれが嫌だった。普通でいたい。普通でいるために嘘をつく。この矛盾が、僕を削る。


「……ごめん」


 僕が小さく言うと、真白は一瞬だけ固まって、口を尖らせた。


「謝るときだけ素直」


 真白はそう言って、背中を向けた。


「今日は帰る。連絡はして」


「……うん」


 真白が去る。


 僕はその背中を見て、胸が重くなる。


 これが後々の火種になる。


 そう思った。でも、今は仕方ないと思う自分もいる。


 僕は最低だ。


 夜。


 僕は布団に入る前に、瑛士から来たメッセージを読んだ。


 今日、保健室で倒れた一年女子がいた。理由不明。しばらく意識なし。今は家に帰されたらしい。名前は桐谷綾乃。顔はこれ。


 写真が添付されている。僕は息を止めた。


 見覚えがある。


 廊下で何度かすれ違った一年の後輩。図書室で見かけたこともある。真面目そうな子。目が大きい。


 瑛士は続けて書いていた。


 本人、倒れる前に「変な夢見た」って友達に言ってたらしい。内容は聞けてない。念のため注意。


 僕の指が冷たくなる。


 ターゲットの特定。


 瑛士がすでにやっている。


 僕はスマホを握りしめ、真白に送るメッセージを打ちかけて止めた。


 言えば真白は来る。来てしまう。危険が増える。


 僕は送らなかった。


 その代わり、瑛士に返した。


 分かった。今夜、警戒する。


 送信。


 胸の痣がじりっと熱くなる。


 嫌な予感がした。


 僕は目を閉じた。


 沈んでいく。


 そして、次の瞬間。


 僕は学校の廊下に立っていた。


 夢の中の学校。


 でも、現実の学校とは違う。


 壁はひび割れている。床のタイルが浮いている。蛍光灯がちらついて、明るさが安定しない。ロッカーの扉が、口みたいに開いたり閉じたりしている。


 がちゃ、がちゃ、という音がする。


 ロッカーの隙間から、手が伸びた。


 白い手。細い指。爪が黒い。


 それが僕の袖を掴もうとする。


「……来るな」


 僕は反射的に後退した。


 足元の影が、ぬるっと動く。床に染みが広がる。前の悪夢と似ている。でも、舞台が違う。遊園地じゃない。学校だ。


 そして、天井。


 僕は見上げて、息を呑んだ。


 目。


 無数の目玉が、天井に張り付いている。


 白目と黒目。ぬるぬるしている。瞬きしている。全部が僕を見ている。


 視線が重い。


 圧がある。


 ただ見られているだけで、頭の内側がじりじり焼ける。


「……くそ」


 僕は歯を食いしばった。


 右手を見る。


 黒いナイフが握られている。


 昨日と同じ。いや、少し違う。刃の形が少し長い。重さも違う。僕の恐怖の形が変わっているのかもしれない。


 僕は廊下を走った。目的は一つ。


 誰かが狙われているなら、助ける。


 瑛士が言っていた一年女子。桐谷綾乃。


 彼女がこの夢に引きずり込まれているなら、今ここにいるはずだ。


 角を曲がる。


 その先で、声が聞こえた。


「……いや……やめて……」


 女子の声。


 僕は走った。


 そこにいた。


 制服姿の女子生徒が、壁際に追い詰められている。顔が青白い。目が涙で揺れている。


 桐谷綾乃だ。


 そして、彼女の足元から巨大な影が伸びている。


 影は床と壁に溶け込むように動き、蛇みたいに絡みついている。影の先端が、爪のように尖っている。


 その影が、彼女の足首を掴み、引きずろうとしている。


「離せ!」


 僕は叫んで、二人の間に割り込んだ。


 影が僕の足元にも絡む。冷たい。重い。息が詰まる。前の黒いシミと同じ感触だ。


 僕はナイフを振った。


 影に刃が入る。


 切れた。


 影が悲鳴を上げた。音じゃない。頭の奥を擦るような痛いノイズ。


 廊下全体が揺れた。


 天井の目玉が、一斉にこっちを向く。


 視線の圧が増す。


 頭蓋骨の内側が焼ける。脳が煮えるみたいに熱い。


「う……っ」


 僕は膝が折れそうになる。


 でも、ここで倒れたら終わる。


 この子が死ぬ。


 僕は歯を食いしばった。


「大丈夫か!」


 僕は桐谷に声をかけた。


 桐谷は震えながら、僕を見た。


「……だれ……」


「相原。ここから逃げろ!」


「……足……動かない……」


 影がまだ絡んでいる。桐谷の足首に食い込むみたいに絡んでいる。引き剥がさないと動けない。


 僕はしゃがみ、影をナイフで切った。


 影は抵抗する。刃に絡みつく。僕の手首が引っ張られる。


「くそっ……!」


 僕は力を込めて振り切り、影を断ち切った。


 桐谷の足が自由になる。


「走れ!」


 僕が叫ぶと、桐谷はふらふらしながらも廊下を走り出した。涙をこぼしながら、必死に走る。


 影が追う。


 壁から伸び、床から伸び、天井の目がぎょろぎょろ動く。


 全部が桐谷を追っている。


 僕は追いかけて、影を切った。


 切る。切る。切る。


 影は分裂する。細くなって増える。切るたびに、廊下が揺れる。目玉が瞬くたび、頭が痛い。胸の痣が熱い。現実の体が反応している。


 夢の痛みが、現実に直通している。


 僕は理解している。だから怖い。だからこそ、止まれない。


 影が巨大化した。


 廊下の端から端まで広がる影。まるで夜そのものが形になったみたいだ。


 桐谷が転びそうになった。


「危ない!」


 僕は走って、彼女の前に立った。


 影が僕に襲いかかる。爪のような先端が胸を狙う。


 僕はナイフを両手で握り、振り下ろした。


 影が裂けた。


 裂け目から、黒い霧が噴き出す。


 その霧が、僕の顔にかかった。


 冷たい。氷みたいに冷たい。


 視界が一瞬、真っ黒になった。


「……っ!」


 僕は咳き込んだ。霧が喉に入ったみたいに息が苦しい。


 天井の目が、さらに開く。


 視線の圧が増す。


 僕の頭が焼ける。


「……見てるだけじゃなくて、黙れ……!」


 僕は叫び、影の中心にナイフを突き刺した。


 影は硬い。でも刺さる。昨日と同じだ。中心がある。核がある。


 僕はナイフを捻った。


 影が悲鳴を上げる。


 廊下がひび割れる。


 ロッカーが口のように開閉して、手が伸びる。でも、今は無視だ。全部無視だ。核だけを壊す。


「死ね!」


 僕は言った。言葉が乱暴なのは分かっている。でも、今は綺麗事を言っている場合じゃない。


 影は人を殺す。


 なら、殺す側に回るしかない。


 僕はナイフを引き抜き、もう一度突き刺した。


 影がばらばらになった。


 細切れになって、霧になって、空気に溶けていく。


 その瞬間、天井の目が一斉に閉じた。


 廊下のひび割れが、ゆっくりと元に戻っていく。ロッカーの口も閉じていく。蛍光灯のちらつきが止まる。


 夢の空間が、修復されていく。


 桐谷は床に座り込んでいた。息が荒い。肩が震えている。


 僕が近づくと、桐谷は僕を見上げた。


 薄く目を開けて、口を動かす。


「……ありがと……う……」


 声は小さかった。だけど、確かに言った。


 僕は「大丈夫?」と言おうとした。


 その瞬間、床が抜けた。


 廊下が崩れる。壁が崩れる。世界がほどける。僕の体が落ちていく。


 暗闇。


 次の瞬間、僕はベッドの上で跳ね起きた。


「はっ……!」


 息が荒い。胸が痛い。痣が焼ける。頭が割れそうに痛い。目の奥がじりじりする。あの視線の圧の余韻だ。


 僕はスマホを掴んだ。


 時間。午前三時過ぎ。


 瑛士からメッセージが来ている。


 今。桐谷綾乃、さっき目を覚ましたらしい。保健室搬送されたって。病院行き回避。呼吸も安定。お前、やった?


 僕は画面を見つめた。


 やった。


 僕が影を斬った。


 その結果、現実で誰かが助かった。


 証拠が積み上がっていく。


 僕は返した。


 たぶん。助かったなら良かった。


 送信。


 すぐに瑛士から返信が来た。


 最高。相原、マジで悪夢の狩人だな。


 その言葉に、僕の胃が冷えた。


 狩人。


 確かにそうだ。


 僕は夢の中で、人を狙うものを狩っている。


 でも、狩人は獲物を仕留め続ける。


 仕留め続けるほど、自分も血に染まる。


 胸の痣が熱い。頭が痛い。手が震える。


 僕は、このまま続けられるのか。


 続けなければ、誰かが死ぬ。


 続ければ、僕が壊れる。


 その二択を突きつけられている。


 カーテンの隙間から、少しだけ朝の光が入ってきた。夜は終わる。でも、次の夜が来る。


 僕はスマホを握ったまま、天井を見た。


 あの夢の目玉が、まだ脳裏に残っている。


 見られている。


 誰かに。


 悪夢の向こう側にいる何かに。


 それは、ただの怪物じゃない。システムじゃない。意思がある。


 そして、僕が狩りを始めたことを知っている。


 瑛士のメッセージが、もう一件届いた。


 相原。次のターゲット、探そう。今まで誰も戦えなかったなら、犯人はずっと無双してたってことだ。つまり、必ず隙がある。


 僕は画面を見つめた。


 隙がある。


 その言葉が、救いにも罠にも聞こえる。


 僕は息を吐いた。


 逃げない。


 もう、普通でいられない。


 なら、終わらせるしかない。


 悪夢の狩人として。


 その決意の裏で、僕はもう一つのことを自覚した。


 真白に隠している。


 瑛士と組んだことも、今夜の戦いも。


 真白は気づく。絶対に気づく。


 そのとき、真白はどうする。


 怒るか。傷つくか。突っ込んでくるか。


 どれでも、火種になる。


 そして火は、悪夢より現実を燃やすかもしれない。


 僕はスマホを伏せた。


 今日も学校が始まる。


 普通のふりをした日常が。


 その裏で、僕は狩りの準備をする。

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