第17話 『あの日』

 ***




『魔王さん! 魔王への不可侵条約がようやく結ばれたの! アスリニアも、ヘーキも、マジクも、もう魔界から魔石を奪わないって!』


 応接室に入るや否や、聖女が胸に飛び込んできた。


 犬のようにピョンピョン跳ね、いつになく無邪気にはしゃいでいた。


『……まさか本当に成し遂げるとはな』


 信じられない。だが聖女が嘘をついたことはない。テーブルに広げられた条約書には、各国の王直筆のサインが綴られている。


『私頑張ったんだから! ちょっぴり力づくになっちゃったけど』


『お前に敵う者などおるまい。それは脅迫というのだ』


『えへへっ。だって、魔王さんに喜んでほしかったんだもの』


 本当に無茶をする聖女だ。こいつの暴れっぷりは魔界にも届いていた。武装国家ヘーキの魔導部隊を、一人で壊滅にまで追い込んだらしい。


『それでね、一週間後に調停式が決まったの。場所はアスリニアの王居。世界中の王族が参加する予定よ』


『……待て。我に人間の国に出向けと? まさか罠ではあるまいな?』


 可能性はゼロではない。むしろそう考えるのが自然だ。……普通ならば。


 しかし聖女はイタズラっぽく笑った。


『ふふっ。何言ってるのよ。たとえ全人類が一斉にかかっても、魔王さんは倒せないでしょ? 逆にアスリニアから地図から消えちゃうじゃない』


『ふっ。分かっておるではないか』


 最強。故に魔王。そんな無謀を働くほど、人間も愚かではないだろう。


『……ねえ、魔王さん』


『ん? どうした』


 聖女が体を預けてくる。触れられた体、闇の魔力が消えていく。


『あなたの顔、見せて?』


 白い手が伸びる。闇が祓われ、薄暗い視界に光が射し込む。


『……何のつもりだ』


 家臣にも見せたことのない素顔。晒され、聖女の顔がさらに輝いて見える。


 ――その顔は、驚きと優しさに満ちていた。


『……びっくり。だけど可愛い』


『ふざけるな。あまり見るな』


『嫌よ。もっと見せて?』


『……許可する』


 恥ずかしい。けど嫌じゃない。頬に触れる柔らかい手。自分の手を重ね、熱く見つめ返す。


『……私、新しい扉開いちゃいそう。魔王さんが……こんな可愛い女の子なんて……』


『…………誰にも言うなよ?』


『恥ずかしがり屋さん?』


『違う。魔王としての威厳がなくなる』


 だからこいつだけ。他の者には見せない。こいつだけが知っていたらいい。


『もったいないなー。こーんな可愛いのに』


 少女らしい軽口。聖女の雰囲気が変わる。


『お前に言われても嫌味にしか聞こえん』


『あら? 褒めてくれてるの?』


『……勝手に言ってろ』


 ――その時、扉がノックされた。


 聖女と顔を見合わせ、体が離れる。また闇で体を覆う。


『誰だ』


『マクーラでございます。魔王様、聖女様、ランスロットが聖女様を返せと、城門付近で暴れています』


 扉が開かれる。新参の側近、黒髪の少年が頭を下げていた。


『聖女、あいつをなんとかしろ』


『魔法で吹き飛ばしてくるわ』


『任せた』


 部屋を出ていく聖女。ストーカー護衛騎士には困ったものだ。


(ふん。こいつは我のモノ……ではない! 何を考えているのだ、我は)


『魔王様。調停式の話、本当ですか?』


 マクーラが俯いたまま口を開く。聞いていたらしい。


『ああ、これで平和になる。ここまで長かったが……これもあいつのお陰だ』


 沈黙。マクーラの手に力が込められる。


『……もし平和になったら、魔王様は……聖女様を……?』


『…………お前が知る必要はない。部屋で休め、マクーラ』


『……はい』


 静かに部屋を出ていくマクーラ。その背中は沈んでいるように見えた。



 ――それから六日後。調停式の前日に、事件は起きた。



『魔王様! 聖女のやつ、裏切りやがった!』


 自室に飛び込んできたフレア。傷だらけの体、怒りに歪んだ顔の側近の言葉。魔王は何を言われたのか理解できなかった。


 続いて迫ってくるたくさんの足音。次々と部屋に雪崩れ込んでくる家臣たち。


『私の故郷が焼き払われました! 人間の仕業です!』


『魔石鉱山が崩落しました! 何者かの魔法を見ました!』


『人間の軍勢が魔界に向かっています! 魔王様、迎撃の許可を!』


 言葉が出ない。こいつらが何を言っているか分からない。ただ呆然と彼らを眺め、椅子に崩れ落ちた。


『…………嘘を、つくな』


 漏れてしまった。本来の細い声。しかし家臣たちは気付く様子もなく、怒りの魔力を滾らせている。


『……魔王様。聖女様は初めから、魔王様を騙すつもりだったのです』


 一人冷静に告げるマクーラ。真剣な眼差しで見下ろしてくる。


(そんなはず、ない。我は、聖女のことを……)


 駆け巡る彼女の顔。朗らかで、温かく、かけがえのない笑顔。


 その笑顔が、冷たく歪んだ気がした。


 さらに続報。一人の家臣が大声で部屋に飛び込む。


『魔王様! ランスーンが先駆けて来ました! 迎撃に向かった魔族たちは敗北! ……皆、殺されました……』


 頭が真っ白になった。冷たく沈む思考。湧き上がる灼熱の怒り。家臣に、魔族に手を出す者は滅ぼす。魔王として、魔族の未来を背負う者として。


『……殺す……殺す殺すコロスコロス殺す! ランスーンも、人間も…………聖女も皆殺しだッ‼︎』


 城を飛び出す。向かってくる聖騎士の魔力。魔力で向かい、一瞬で奴の元へ。


『魔王! 何故聖女様を裏切った⁉︎ 聖都を何故滅ぼし……がふ……ッ』


 胸を貫く。手足を消し飛ばし、頭を砕く。


 魔界の土を穢させない。飛び、海に放り投げる。


 ……まずは一匹。


 遠くに見える人間の船団。飛ぶ。見下ろす。千を超える軍船。人間が魔王に気が付く。


『で、出たぞ! 魔王カトリーヌだ!』


『殺せ! 聖都の仇だ!』


 繰り出される魔法の爆撃。空を照らす幾百の魔法の光。


 闇で全てを包む。掻き消す。


『……貴様ら……許さんぞおおおおおおッ!』


 咆哮。膨れ上がる闇。海を、船団を全て呑み込み、魂ごと消滅させる。


 怒りで何も見えない。視界が真っ暗だ。


『…………聖女……』


 闇の奥、小さな光を掻き消す。


『……殺す』


 聖女の魔力を探る。城の方角。自分を討ちに来たんだろう。


 闇の翼を羽ばたかせ、憎き聖女の元へ。



『やめて、みんな! 私はあなたたちと戦う気はないの!』


『黙れ! 人間の手先。俺たちを……魔王様を裏切りやがって!』


『殺せ! この女を八つ裂きにしろおおおおお!』


 城の中、家臣たちに囲まれる聖女。何か戯言をほざいている。美しい、張り裂けそうな声。


 ……もう騙されない。


『どけ。我がこいつを殺す。お前たちは残りの人間を迎え撃て』


 怒りと絶望を孕んだ低い声。家臣たちは振り向き、恐怖で顔を引き攣らせた。


『ま、魔王様! で、ですが!』


『……二度は言わん。行け』


『ひっ……』


 逃げ出す家臣、忠臣たち。最後に部屋から出たマクーラの顔が歪んで見えた。


『魔王さん……私の話を聞いて。全部、誤解なの。きっと誰かが糸を引いて……』


『…………もういい。お前を信じた我が、愚かだった』


 手をかざす。闇の奔流。全てを呑み込む闇の魔法。


『違うの! 信じて、魔王さん!』


 照らされ、打ち消される。聖女のみが持つ浄化魔法。


 憎い。この光で魔族を殺したんだろう。


『我は……我は魔王カトリーヌ! 全ての魔族を背負う者だあああああああッ‼︎』



 ――それから先は覚えていない。


 全ての魔力を使い切り、気が付いたら聖女は倒れていた。


 傷だらけ、血まみれの聖女。初めて心を許し、愛した人間。


 なのにカトリーヌの体には、一つの傷もなかった。ただ優しい光に包まれ、怒りに呑まれた魂が浄化された。



 消える間際に思った。


 もし次があるなら、今度こそ……こいつを信じようと――。




 ***

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