第二章「囁きの行方」 2/2

 日々の仕事は、待ってくれない。


 あの日、彼を送り出してからも、わたしはいつも通り占いの館で客を迎え、悩みを聞き、未来を視て、小銭を受け取る生活に戻っていた。

 ──少なくとも、そう振る舞おうとしていた。


 あの恐ろしい未来のことは、意識の奥底に押し込める。

 あれはたまたま調子が悪かっただけ。視えたとしても、回避の余地はある。

 なにより、あの人が本当にそんな怪物になるなんて信じたくなかった。


 だから、できるだけ考えないようにした。

 そうしないとまともに仕事ができそうになかったから。


 そんなある日のことだった。


「フィーネさーん、います?」


 馴染みの声が、布扉の向こうから顔を覗かせる。


「アンナ。いらっしゃい」


 わたしは、思わずほっとしたように笑ってしまう。

 弦楽想具リュート・ソアを抱えた彼女は、いつものように店の隅の椅子に腰かけ、他愛もない世間話を始めた。


 天気のこと、最近の客のこと、広場に来る子どもたちのこと。

 そういう他愛ない話をしているとき、ふと、違和感に気づく。


 ──今日は、やけに顔色が明るい。


「なんだか、いつもより楽しそうね」

 気になって、水を向けてみる。


 アンナは一瞬きょとんとした顔をして、それから少し照れくさそうに笑った。


「わかります? いやあ……最近、人生が楽しくなってきたというか」

「人生が、楽しく?」


 それは、彼女から今まで聞いたことのない言葉だった。


「ええ。その……とても素敵な方と出会いまして」


 胸の奥が、きゅっと強く縮む。


「どんな人?」

「長い灰色の髪で、すらっとしてて、仕立てのいい服を着てて……でも、偉そうにしないで、ちゃんと話を聞いてくれて」


 アンナの目が、うっとりと遠くを見る。

 もう、その時点で嫌な予感しかしなかった。


「へえ……どこで、そんな人と?」

「広場ですよ。ほら、あの小さな広場で歌ってたときに、たまたま足を止めてくれて」

「それで、少し話をしてるうちに──なんと、フィーネさんの話になったんですよ」

「わたしの?」

「ええ。あたしがよく当たる占い師さんがいるって話をしたら、向こうも最近そこで占ってもらったことがあるって言ってて。もう、驚いちゃいました」


 心の中で頭を抱える。おそらく、あの人だ。

 一方アンナは、心の底から嬉しそうだった。


「フィーネさん、前に『まだしばらく苦しい時期が続くけど、心の拠り所になる人が現れる』って言ってくれたじゃないですか。だから、あの人と話してると……ああ、この人のことなのかなって思えて。最近は、会うのが楽しみで」


 ──心の拠り所になる人。


 過去の自分の言葉が、今になって喉に刺さる。

 たしかに、そんなことを言った。

 そのときは本気で、彼女を励ますつもりだった。


 でも今、その拠り所が、わたしの視た最悪の未来へと繋がる道になっている。


 嫌でも思い出してしまう。

 支配に酔いしれ、誰かの耳元で囁き続ける彼の姿を。

 アンナのような、弱っている人間を踏み台にして、満たされない穴を埋めようとする彼を。


 ──これは、最悪の未来の一歩目だ。

 そう理解した瞬間、背筋に冷たいものが走った。


「アンナ」


 気づけば、いつもより強い声が出ていた。


「その人は……トレーソン・イニーツィオ、って名前で合ってる?」

「ええ、そうです! 合ってますよ」


 アンナがぱっと顔を輝かせる。

 わたしの心は、真逆の方向に沈んでいく。

 どう言うべきか、迷っている時間はなかった。

 今ここで、止めなければならない。たとえ、嫌われることになっても。


 わたしはまっすぐに彼女を見て、こう告げた。


「その人とは、もう会わないほうがいい」


 アンナの笑顔が、すっと固まった。


「え……?」


「危ないの。その人は人の心を巧く掴める人よ。あなたみたいに、ずっと頑張ってきて心がすり減ってる人にとっては、特に。今は優しくても、いつかあなたを縛るようになるかもしれない」


 本当は「最悪の未来を視たから」と説明したかった。

 でもそれをそのまま告げれば、あの場と同じように物語じみていると一蹴されるだけだ。


「だから、ヒノーデルから離れたほうがいい。前にも言ったけど、もう本当に別の町に移ったほうが──」


 そこまで言ったところで、アンナの表情がはっきりと変わった。


「……前にもですか」


 声が冷たくなる。


「ずっと夫に暴力を受けてるって話、何度もしましたよね、あたし」

「そのときは、そんなふうに強く言わなかったじゃないですか」


 胸が痛む。

 図星だった。


 ──アンナが数少ない常連だから。

 こんな貧乏な占い稼業でも、定期的に顔を出して、お金を落としてくれる貴重な客だから。


 心のどこかで、「遠くに行かないでほしい」と思っていた。

 だから「別の町に行ったほうがいい」と、はっきりとは言えなかった。


 その甘さが、今になって牙を剥いてくる。


「ずっと聞いてくれてたじゃないですか。夫のこと、日々のつらさ、将来が不安だってこと……でも、そのときは曖昧なことしか言わなかったのに」


 アンナの目が、じわりと潤む。

 それは悲しみではなく、怒りと失望の色をしていた。


「今になって、急に『町から出ろ』とか言うんですね」

「違うの、アンナ。わたしは──」

「トレーソンさんのこと、何も知らないくせにッ!」


 彼の名前を庇うように口にする声が、あまりにも鋭くて、言葉を失う。


「あたしの話、ずっと聞いてくれてたのは嬉しかったです。でも……フィーネさんは、結局あたしのことを“お客さん”としてしか見てなかったんじゃないですか?」


 図星すぎて、反論が喉で凍りついた。


「違う……そうじゃないのよ」


 言い訳じみた声が、かえってみっともなく響く。


 本当に違うのか。

 その問いが、わたし自身の胸にも突き刺さる。


「ごめんなさい。今日は、もう帰ります」


 アンナは、それ以上何も言わず、弦楽想具を抱えて立ち上がった。

 布扉が揺れて、彼女の姿が外の光に飲み込まれていく。


 引き止める言葉が、どうしても出てこなかった。

 わたしが今さら何を言っても、それは全部、自分のための言い訳にしかならない気がしたからだ。


 静まり返った館の中で、冷えた茶と、水晶玉と、さっきまでそこにいた彼女の残り香だけがじわじわと胸を締めつけてくる。


 ──最悪の未来を回避しようとして、わたしは、最悪の選択をしたのかもしれない。

 そんな考えが頭に浮かんで離れず、しばらくのあいだ、わたしは椅子から立ち上がることすらできなかった。

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