第2話 優しさと甘さの中

 ふわり、と。  


 まるで温かな雲の上で微睡まどろんでいるような感覚だった。


 鼻をくすぐるのは、焼き立てのパンの香ばしい匂いと、甘いバニラの香り。



「…………んぅ」



 ハルは鉛のように重いまぶたを持ち上げた。


 真っ先に視界に飛び込んできたのは、見知らぬ天井――――ではない。


 精緻な彫刻が施された上品かつ豪奢な天蓋と、そこから垂れ下がる上質なレースのカーテンだった。



「目が覚めた?」



 鈴を鳴らしたような声に、ハルは弾かれたように身を起こした。


 まるで映画に出てきそうな豪華な寝室だった。


 そしてベッドの脇には、椅子に腰掛けた彼女――――セレスティアが、読みかけの本を閉じてこちらを見ていた。



 昨夜の喪服のような漆黒のドレスとは違い、今日は柔らかなクリーム色のワンピースにエプロン姿。


 銀色の髪を緩く編み込み、どこか家庭的な雰囲気を纏っている。


 窓から差し込む朝の光も相まって、昨夜の「死の女神」のような威圧感は嘘のように消えていた。



「あ……昨日の、人…………?」


「ええ、昨日の人よ。それで気分はどう? 身体のどこか、痛む場所はあるかしら」



 彼女は自然な動作でハルの額に手を当てた。ひんやりとして心地よい。


 ハルは慌てて自分の身体を確認する。



 あの魔獣と対峙した時の恐怖で強張っていた筋肉痛は残っているが、怪我はない。  


 それどころか、泥だらけだったはずのスーツは脱がされ、肌触りの良い高級なシルクのパジャマに着替えさせられていた。



「着替えさせておいたわ。あの服、泥と冷や汗でぐしゃぐしゃだったから」


「えっ、あ、ありがとうございます! すみません、何から何まで…………」



 ハルが恐縮して頭を下げると、彼女はきょとんとした後、花が綻ぶように笑った。


 その屈託のない笑顔を見て、ハルの胸の奥がトクリと小さく跳ねた。


 昨夜の底知れない恐ろしさが嘘のようだ。


 年上の、それも命の恩人に対して失礼かもしれないが、ハルは不覚にも彼女のことを「可愛い」なんて思ってしまった。



「ふふ、お礼なんていいのよ。迷子の子犬を拾ったようなものだもの」


「子犬って…………」


「さあ、朝食にしましょう。貴方のためにスープを作ったの。口に合うといいけれど」



 促されて向かったダイニングルームには、湯気を立てる野菜スープと、焼き立てのパン、そして色鮮やかなサラダが並んでいた。


 一口食べた瞬間、ハルの目が見開かれる。


 

――――美味い。


 

 現代日本のレストランでもなかなか味わえないほど、滋味深く、優しい味が身体に染み渡っていく。



「美味しい……」


「本当? よかった。貴方の口に合わなかったらどうしようかって、少し不安だったの」



 セレスティアは頬を少し赤らめ、心底安堵したように胸を撫で下ろした。


 その仕草は、昨夜魔獣を一撃で消し飛ばした「魔女」とは別人に見えるほど、あどけなく、可愛らしかった。



 なんだ。魔女とか言って怖がってたけど、めちゃくちゃ良い人じゃないか。



 ハルの中で、警戒心が音を立てて崩れていく。


 彼女はただ、森の奥で静かに暮らしているだけの、少し浮世離れした心優しい女性なのかもしれない。


 そう結論づけたハルは、スプーンを動かしながら、無邪気に尋ねてしまった。



「こんなに料理上手で優しいのに、ずっと一人で住んでるんですか?」



――――カチャリ。



 セレスティアがティーカップをソーサーに置く音が、静寂の中で少し大きく響いた。



「……ええ。私は魔女だから。人間たちは私を怖がって、誰も近づかないわ」



 彼女の瞳が一瞬だけ暗く陰る。


 それは演技ではなく、長い年月で積み重なった諦めと孤独の色だった。


 その寂しげな横顔を見た瞬間、ハルの胸には「同情」とも「庇護欲」ともつかない感情が湧き上がった。



――――そして、ハルは言ってしまったのだ。



 彼女にとっての「運命の引き金」となる言葉を。



「見る目がないですね。僕は貴方のこと怖がったりしませんよ。命の恩人だし、こんなにも素敵な人なのに」



 ハルは照れ隠しに笑って、パンをかじった。


 だから、気づかなかった。


 その言葉を聞いた瞬間、セレスティアの瞳孔が小さく収縮し、その奥に粘着質な熱が灯ったことを。



「…………そう。貴方は、私を怖がらないのね」



 その声は、熱に浮かされたように甘く、けれど蜂蜜のように重く絡みつく響きを帯びていた。


 セレスティアは長い睫毛を震わせ、アメジストの瞳を潤ませながらハルを凝視する。


 それは長年探し求めていた「失せ物」をようやく見つけ出した時のような、あるいは、絶対に逃がさない獲物に狙いを定めた時のような、深くくらい陶酔だった。


 彼女の白い喉が、ごくりと音を立てて動く。


 頬は薔薇色に染まり、吐息が熱を帯びていくのを、ハルは不思議な圧迫感と共に見ていた。



「やっぱり……貴方しかいないわ」


「え? 何か言いました?」


「ううん、なんでもないの。さあ、たくさん食べて。貴方は痩せすぎているから」



 彼女はニコニコと、ハルの皿に新しいパンを乗せた。


 まるで、飼い始めたばかりのペットを太らせようとする飼い主のように。



――――――――



 それから三日間、ハルにとって夢のような日々が続いた。


 セレスティアは完璧だった。


 食事は三食とも絶品。風呂は常に適温。ハルが何かをしようとすれば、先回りして全て準備されている。


 正直、元の世界のブラック企業勤めとは比べ物にならないほど快適な生活だった。


 新卒一年目から、なぜこんな目に遭うのかと何度も呪ったことがある。



 けれど、逆にその快適さが不安だった。ハルの中にある「常識」が、これ以上の甘えを許さなかった。


 見ず知らずの他人に、タダ飯を食わせてもらい続けるわけにはいかない。


 それに、ここは異世界だ。情報を集め、自分がこれからどう生きていくのかを考えなければならない。



 …………よし、言おう。


 四日目の朝、ハルは決意を固めた。


 朝食後の紅茶を飲み終えたタイミングで、ハルは姿勢を正して彼女に向き直った。



「セレスティアさん。改めて、今まで本当にありがとうございました」


「どうしたの? 急に改まって」



 彼女は不思議そうに小首を傾げる。



 一方的に施しを受けるだけの生活は、ハルにとって針のむしろにも等しい。


 長居すればするほど、彼女への借りが返せないほど重くなってしまう気がした。



 ハルは彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、こう告げる。



「怪我も治りましたし、そろそろここを出て、街へ行こうと思います」


「……………………は?」



 その瞬間――――部屋の空気が、ピタリと止まった気がした。

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