魔女の揺籃
高坂あおい
第一章 孤独なる楽園
第1話 人生の転換転移
吐く息が白くなる、十二月の夜だった。
コンビニの自動ドアを抜け、冷え切ったアスファルトに足を下ろした瞬間――世界が裏返った。
めまい、とはまた違う感覚。
脳が認識している座標と、肉体が存在する場所が、強引にズレたような強烈な吐き気。
手に持っていた温かい肉まんの熱も、耳に残っていた店内の電子音も、瞬きを一つする間に消失した。
「……は?」
ハルの口から漏れたのは、ひどく間抜けな音だった。
理解が追いつかない。
数秒前まで、俺は駅前を歩いていたはずだ。
明日のプレゼンの資料のことを考えて、憂鬱な気分で家に帰る途中だったはずだ。
なのに……なぜ?
鼻をついたのは、排気ガスではなく、濃厚すぎる草いきれの匂い。
腐葉土の湿った臭気と、どこか鉄錆のような生臭さが混じり合い、肺にへばりつく。
目を開ければ、そこはコンクリートのジャングルではなく、本物の樹海だった。
空を覆い尽くす異様な巨木たち。足首まで埋まる柔らかすぎる土。
加えて、肌を刺す風の冷たさが、これが夢ではないことを残酷なほどリアルに告げていた。
「なんだよこれ……ドッキリか? いや、セットにしては…………」
混乱する思考のまま、必死に「合理的」な答えを探そうとして空回りする。
早鐘を打つ心臓に、痺れる指先。
怖い、わけがわからない。
本能が警鐘を鳴らし、全身から嫌な汗が吹き出したその時だった。
――――グルゥゥゥ、と。
腹の底に響くような、重低音の唸り声が背後から聞こえた。
心臓が一瞬止まった気がした、いや、実際に止まったのかもしれない。
振り返ってはいけない、生物としての生存本能がそう強く叫んでいる。
だが、脳の警報とは裏腹に、恐怖で強張った身体は錆びついた機械のように首を回してしまった。
木々が落とす深い闇の底に、二つの赤い光が浮かび上がっていた。
狼……だろうか。
いや、そんな既存の言葉で形容できるような存在ではない。
軽自動車ほどもある巨躯、皮膚を突き破って露出した骨、そして、口からボタボタと垂れる粘着質な唾液が足元の草を溶かしている。
そんな化け物と目が合った瞬間、ハルは悟ってしまった。
ああ、俺は「餌」なんだ。
戦う? 逃げる? 無理だ、足が縫い付けられたように動かない。
膝が笑う、という生易しいものではない。
腰が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で耐える。
歯の根が合わず、カチカチと情けない音を立てた。
これまで培った常識も、知識も、ここでは何の役にも立たない。
野生の獣を前にした俺はただの無力な肉塊だ。
ここで食われて、誰にも知られずに死ぬんだ。
明日の仕事なんてどうでもいい。ただ、死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない――――!
「あ……ぅ……」
誰かに助けを求めようと上げた悲鳴も、まともな声にならずに喉元で死んでしまう。
魔獣がゆっくりと腰を落とした。捕食の構えだ。
死の予感が巨大な圧力を伴ってハルを押し潰す。
巨大な顎が開かれ、闇よりも深い絶望が目の前まで迫った瞬間。
ああ、死ぬんだ…………。
ハルは無様に目を閉じ、身体を縮こまらせることしかできなかった。
まさにその時――――。
「――――無粋ね」
鈴を転がすような、あまりに場違いで涼やかな声が鼓膜を震わせた。
直後、世界が白銀に染まる。
音すらなかった。
ただ、圧倒的な力の奔流がハルの目の前を横切っただけだ。
風圧に煽られ、尻餅をついたハルが恐る恐る目を開けると――――そこには、何もなかった。
自分を食い殺そうとしていた魔獣も、その背後の巨木も、地面すらも。
すべてが綺麗な円状に抉り取られ、ただの虚無になっていた。
…………え? 助かったのか? 何が起きた?
正常な思考が破壊しつくされ、呆然とするハルの前に、ふわりと一人の女性が降り立った。
月光を吸い込んだような銀色の美しく長い髪、この世の宝石をすべて集めても敵わないであろう、アメジスト色の瞳。
喪服を想起させる漆黒のドレスを纏ったその姿は、神々しく、同時に背筋が凍るほどに恐ろしかった。
彼女は消滅させた魔獣のことなど、道端の小石ほどにも気にしていない。
その視線は腰を抜かして震えているハルだけに注がれていた。
「……人間? 珍しいわね、こんな森の奥深くに」
彼女がそっと手を伸ばしてくる。
逃げなければ、と頭の隅で警報が鳴った。
あの獣を呼吸をするかのように屠ったこの女性もまた、人知を超えた「怪物」の類だと直感が告げている。
けれど、恐怖で凍りついた身体は指一本動かせない。
ひんやりと冷たい、陶器のような指先がハルの頬に触れた。
「魔力がない……? それに、なんて脆い魂なのかしら」
値踏みするような、けれど、どこか陶酔したような瞳。
そして、彼女は壊れかけの硝子細工を見つけた子供のように、妖艶に目を細めた。
その視線に射抜かれただけで、ハルの心臓は鷲掴みにされたように苦しくなる。
「可哀想に。こんなに怯えて……心臓が壊れてしまいそう」
ふわり、と甘い香りがハルを包み込む。
死の淵に咲く花のような、危険で心地よい香りだった。
彼女の華奢な腕に抱きすくめられた瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れ、泥のような睡魔がハルを襲う。
抗うことができない。この人の腕の中なら、安全なのかもしれない。
そんな、生物としての「降伏」にも似た安堵と共に、意識が闇へ落ちていく。
最後に耳に残ったのは愛おしげな、けれど呪いのように重い呟きだった。
「私が守ってあげるわ。
――――貴方は、弱すぎるもの」
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