第3話 旅立ちの日に(前半)
「……………………は?」
部屋の空気が凍りついた気がした。
ほんの数秒前まで、陽だまりのように穏やかだった空間が、一瞬にして真冬の湖底のような冷たさに支配される。
ハルは思わず息を呑んだ。
たしかにセレスティアは笑っているし、口角は綺麗な弧を描いている。
けれど、彼女が持つアメジスト色の瞳だけが、感情の抜け落ちたガラス玉のように、無機質な光を放ってハルを射抜いていたから。
「街へ……? 貴方が?」
「は、はいっ。いつまでもセレスティアさんの好意に甘えているわけにはいきませんから…………」
ハルは引きつりそうになる頬を叱咤し、努めて明るく振る舞った。
本能が「謝れ」「撤回しろ」と警鐘を鳴らしている。
けれど、ここで退いてはいけないと、社会人としての理性がハルを支えていた。
セレスティアはカチャリ、と音を立ててティーカップを置いた。
そして、ゆらりと立ち上がる。
足音を立てることもなくハルとの距離を詰め、その華奢な手でハルの両肩を掴んだ。
「…………ダメよ」
甘く、けれど拒絶を許さない響き。
「貴方は何も分かっていないわ。この森の外が、どれほど汚らわしくて、危険な場所なのか」
「汚らわしい、って…………でも、人間がいる街なんですよね? なら情報も手に入るし、仕事だって」
「人間だから危険なのよ!」
セレスティアが声を荒らげた。
掴まれている肩に食い込む指の力が、ミシミシと痛むほどに強くなる。
「あいつらは野蛮で、強欲で、嘘つきばかり。貴方のような、魔力もなくて無垢な魂を持った人間なんて、格好の獲物だわ」
彼女はハルの顔を覗き込み、懇願するように、あるいは呪いをかけるように言葉を紡ぐ。
「騙されて、身ぐるみを剥がされて、奴隷として売られるのがオチよ。それとも、人体実験のモルモットにされるのがお望み? 貴方のその珍しい体質、あいつらが放っておくはずがない」
「そ、それは……」
ハルは言葉に詰まった。
彼女の言うことは極論かもしれないが、真実の一端を含んでいるようにも聞こえる。
右も左も分からない自分とは違い、彼女はずっとこの世界で生きてきた住人だ。
その彼女がここまで必死に警告するのなら、そこには俺の知らない『経験則』に基づいた、残酷な真実があるのかもしれない。
そう考えたハルの瞳に迷いが生じたのを見逃さず、セレスティアは甘く囁いた。
「だから、ここにいましょう? ここには何でもあるわ。美味しい食事も、温かいベッドも、貴方を傷つけない安全な場所も」
彼女の手が肩から胸板へ、そして頬へと這い上がる。
うっとりと陶酔した瞳が、至近距離でハルを捕らえる。
「私の愛も、身体も、財産も。貴方が望むなら、この命だってあげる。私の全てを貴方に捧げるわ。だから……ね?」
甘い毒のような誘惑。
このまま頷いてしまえば、どれほど楽だろうか。
一生、この美しい人に守られて、何不自由なく暮らす。
それは元の世界の激務に疲れたハルにとって、抗いがたい「楽園」の提案だった。
――――けれど、それじゃダメだ。
それじゃ俺は、ただのペットだ。
ハルは奥歯を噛み締め、彼女の手をそっと、しかし拒絶の意志を込めて外した。
「……嬉しいです。そこまで想ってくれて」
「なら!」
「でも、やっぱり僕は行きます」
ハルは彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
それこそがセレスティアに対する最大の礼儀だと考えたのだ。
「僕は、自分の足で立って生きていきたいんです。貴方に守られるだけじゃなく、いつか貴方に恩返しができるような、対等な人間になりたいから」
それは、ハルなりの精一杯の誠実さだった。
依存するのではなく、自立して、胸を張って彼女に会いに来たい。
そんな純粋な決意だった。
セレスティアの動きが止まる。
彼女はしばらくの間、彫像のように固まっていたが、やがて「ふぅ……」と長く深いため息をついた。
「……そう。私のために、立派になりたいと?」
「はい。わがままを言ってすみません」
彼女は数秒、無表情でハルを見つめていたが――――不意に、その瞳からスッと険しい色を消した。
「…………いいえ。貴方の意志がそこまで固いなら、もう止めないわ」
彼女の顔から、先ほどまでの激情が嘘のように消え去っていた。
代わりに浮かんでいるのは、どこか諦めたような、寂しげで穏やかな微笑み。
まるで、聞き分けのない子供を見守る母親のような表情だった。
ハルの胸がズキリと痛む。
しかし、ここまで言って、今更前言を撤回するなんてことは許されない。
「ごめんなさいね、取り乱してしまって。貴方のことが心配で、つい」
「い、いえ! 僕の方こそ……」
「分かったわ…………じゃあ、せめて最後のお節介を焼かせてちょうだい」
彼女はそう言って、棚の引き出しから古びた
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