諸行無常のワンダーランド

伽墨

昔々、そして、やがて──

昔々、あるところに、

世界で一番栄えていて、世界で一番豊かな国がありました。


その国は、もう見る影もありません。

なぜなら──

たった一人の王様が、すべてを壊してしまったからです。


これは、その王様のお話です。

英雄でも、怪物でもない、

自分を世界一賢いと信じて疑わなかった王様のお話を、

いまから少しずつしていきますね。



王様は、自分が世界の誰よりも賢く、

誰よりも偉大だと信じて止みませんでした。


「ほらみろ! これでうちの一族はまた富を得た!」


王様は、ボラリティが非常に高い仮想通貨取引市場において、

なぜかいつも「少しだけ早く」重要な情報を知ることができました。

それは偶然であり、才能であり、

そして何より、王様が偉大だからだと、

王様自身は考えていました。


取引は何度も成功し、

財宝の山は日に日に高くなりました。

一族は笑い、宴は続き、

王様は満足そうにうなずきます。


「市場というのはな、勇敢な者に報いるものだ」


誰も異を唱えませんでした。

少なくとも、異を唱えた者は、

長くそこに留まりませんでした。



「よし、あのイカれポンチを暗殺しよう」


そう立ち上がった市民が、

いなかったわけではありません。

実際、いました。


ですが、幸か不幸か──

いいえ、今となっては、

はっきりと不幸だったのでしょう。


スナイパーライフルから放たれた弾丸は、

王様の耳をかすめただけでした。

致命傷にはならず、

物語としても、何一つ終わらせませんでした。


暗殺を試みた市民は、

その場で警官に撃たれて死にました。

名前も、顔も、理由も、

ほどなく誰にも語られなくなりました。


王様は言いました。


「見ただろう? 神は私を守っている」



王様には、

絶対的に信頼している部下がいました。

仮に、その人物を J.D. と呼ぶことにしましょう。


J.D.は非常に賢く、

そして同じくらい冷淡で、

計算高いマキャヴェリストでした。


彼は早い段階で、

王様が自分では何も運べない

空の神輿であることを見抜いていました。

それでもJ.D.は、

誰よりも大きな声で叫び続けたのです。


「王様、万歳!」


それは忠誠ではありませんでした。

作業でした。



「王様を守ろう」


ある日、J.D.はぽつりと言いました。

あんな事件があったのだから、

王様が民衆の前に顔を出して演説するなど、

もってのほかだというのです。


それは慎重さであり、

配慮であり、

そして何より常識でした。


王様の支離滅裂な振る舞いに、

すでにうんざりしていた人々は、

自然とJ.D.の言葉にうなずくようになっていました。


誰もが思っていたのです。

──そのほうが、安全だと。


王様自身もまた、

その提案に安心したようでした。



王様の部下たちは、

しばしば王様以上に理解しがたい人々でした。


たとえば、R.K. という部下がいました。

彼には、王国の衛生と医療を司るという、

きわめて重要な権限が与えられていました。


R.K.は、自分が無知であるとは思っていませんでした。

むしろその逆で、

誰も気づいていない真実に、自分だけが辿り着いた

と信じていました。


自閉症というものがあります。


それは生得的な特性であり、

特定の食品や生活習慣が

後天的に引き起こすものではない、

というのが長年の知見でした。


R.K.は、それらを読みませんでした。

読む必要がないと考えていたからです。


ある日、R.K.は言いました。


「パンを食べた者は、自閉症になる」

「だから、パンを禁止すべきだ」


人々は笑いました。

怒る者もいました。

無視する者もいました。


しかし──

誰も、彼を止めることはできませんでした。


R.K.は、王様の信頼する部下だったからです。



パンの禁止は、

部分的に、しかし着実に始まりました。


まずは病院から。

次に学校。

それから、役所や軍の施設でも、

「念のため」という言葉とともに、

パンは姿を消していきました。


代替品は用意されませんでした。

理由も説明されませんでした。

ただ、「健康のため」という

聞き慣れた言葉だけが繰り返されました。


街は混乱しました。

専門家は抗議しました。

数字も、論文も示されました。


R.K.は聞きませんでした。

聞く必要がないと、

本気で信じていたからです。


王様も、気にしませんでした。

王様の世界には、

パンも、病院も、

街の混乱も存在しなかったからです。


王様が見ていたのは、

小さな画面に流れる

「王様、万歳!」の文字だけでした。



J.D.は、

この一連の出来事を

少し離れた場所から眺めていました。


すべてを理解していました。

それでも、

怒りもしなければ、

ため息もつきませんでした。


ただ、こう考えただけです。


──愚かだ。

しかし、使える。


パンの禁止は、

静かに緩和されました。

理由は語られませんでした。

R.K.の考えが「進化した」

ということになっていました。


R.K.は満足しました。

自分の正しさが

理解されたのだと信じて。



王様は毎日のように、

とあるSNSに投稿を続けていました。


支離滅裂で、

意味も一貫性もありませんでしたが、

不思議なことに、

ほんのわずかだけ、カリスマ性を帯びていました。


「これだ」


ある日、J.D.は気がつきました。


王様にとっての世界とは、

現実ではなく、

賞賛の嵐が降り注ぐ画面の中なのだ、と。


J.D.は結論を出しました。


──自分がすべてを取り仕切り、

王様には、

最適化された賞賛だけを見せておけばいい。



J.D.の机の引き出しには、

一枚のリストがありました。


P.H.

軍隊、兵隊たちを動かす役割。

写真は完璧。

戦況は他人任せ。


──使える。


K.N.

異民族たちを取り締まる役割。

現場は知らない。

TikTokの人気だけは一流。


──使える。


L.M.

王国の民に何を教えるかを決める役割。

怒鳴る動画が得意。

中身は不要。


──扱いやすい。


リストは、

日に日に長くなっていきました。


共通点はただ一つ。

誰も、自分の仕事に興味を持っていない

ということでした。


王様には、賞賛を。

彼らには、舞台を。

現実は、自分が処理する。



そして、

リストの一番上に、

J.D.は一瞬だけ視線を戻しました。


ああ、そういえば──

R.K.。


最近は、

「野菜を食べると麻疹になる」

などと言っているそうです。


J.D.は、

それを確認することもなく、

紙の端に小さく印をつけました。


問題はありません。

彼はもう、

自分で何かを決めているわけではないのですから。


……少し前なら、

笑い話だったでしょう。



それから、十年が経ちました。


王様は、

自分が今どこにいて、

何をしているのか、

もうどうでもよくなってしまったようでした。


スマートフォンを片時も手放さず、

小さな画面の向こうから、

地鳴りのように響く

「王様、万歳!」という声だけを、

静かに聴いていました。


J.D.がどうなったのか、ですか。


──世の中には、

知らないほうがいいこともあります。


こうして王様は、

死ぬその日まで、

AIが確率的に弾き出した

賞賛の言葉だけを見続けていました。


めでたし、めでたし。

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諸行無常のワンダーランド 伽墨 @omoitsukiwokakuyo

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