第14話:食べ歩きという名の聖域侵犯
昨日の視察でのため息による神格化から一夜。リリア・フォン・ダークネスは、さらなる絶望に直面していた。
「……セバスチャン。私は今、重大な事実に気づきました。私の部屋の『非常食クッキー貯蔵庫(ベッドの下)』が、底をついています。これは誰かの陰謀、あるいはこの城の空間がねじ曲がり、クッキーだけを消滅させるブラックホールが発生したに違いありません」
「リリア様。ブラックホールではなく、昨夜貴女がパニックを鎮めるために無意識に食べ尽くしただけです。……そして残念ながら、現在城内のパティシエたちは、昨日の貴女の『黄金のクッキー法案(寝言)』に対応するため、民衆への配付用クッキーの製造に駆り出されており、貴女の分は一枚もございません」
「――――そんな殺生な!!」
リリアは絶叫した。民を救って自分が飢える。そんな聖人君子のような真似、彼女の引きこもり美学には一ミリも存在しない。
「……こうなったら、潜入捜査です。私は今からただの布の塊になりきって、城下町の市場へ向かいます。そこで、民衆に混じって、私の命を繋ぐためのクッキーを……合法的に強奪、いえ、購入してきます!」
「あ、リリアちゃんお出かけ? 私も行くー!」
窓を破壊せんばかりの勢いで飛び込んできたのは、ポテチの袋を空にしたばかりのティアマトだった。
「ティア! ダメです、貴女が付いてくると目立ちすぎます! 私は今、ステルスモードなんです!」
「大丈夫だよー。私、角と翼を隠す術なら得意だし。ほら、今はただのちょっと力持ちで大食いな美少女に見えるでしょ?」
ティアが指を鳴らすと、彼女の象徴たる竜の部位が消え、見た目だけは快活な人間の少女へと変化した。……だが、彼女から溢れ出る最強のオーラと、手にしたおやつへの執念は全く隠せていない。
「……セバスチャン、これ、無理ですよね?」
「リリア様。一人で行かせるよりは、ティアマト様を用心棒兼、残飯処理係として同行させる方が、まだ生存確率が上がります。……ただし、絶対に正体を明かさないように」
二人は、魔法のクローク(リリアはいつもの布団コート)を深く被り、城下町の第一市場へと繰り出した。
市場は、昨日のクッキー法案の余波で、お祭り騒ぎの真っ只中だった。
「見てリリアちゃん! あの屋台、すごくいい匂いするよ! 『魔界イノシシのハチミツ焼きクッキー』だって!」
「……クッキーに肉……? いえ、背に腹は代えられません。ティア、あれを……」
リリアが財布(セバスチャンから渡された国家予算級の小銭入れ)を取り出す前に、ティアはすでに屋台の前に陣取っていた。
「おじさん、これ全部ちょうだい! あ、こっちのリリアちゃんが毒見してくれるから!」
「……ど、毒見!?」
屋台の主人は驚愕した。
リリアは震える手で、差し出されたクッキー(肉入り)を口にした。
(……あ、甘い。そして、肉の旨みが……。……これは、悪魔的です。……これを食べ続けたら、私はもう二度とクローゼットから出られなくなる……。……合格です。合格すぎて、涙が出てきました)
リリアが感動のあまり、瞳を潤ませながら「……もっと、持ってきて」と呟くと、周囲の客たちがざわつき始めた。
「おい、あの小柄な子を見たか? ひと口食べただけで、この世の全てを悟ったような顔をしたぞ……」
「毒見と言ったか? もしかして、あの御方は……伝説の『美食の審判官』ではないか!?」
ティアマトの食欲は止まらなかった。
「次はあっち! 『地獄カボチャのタルト』! リリアちゃん、毒見!」
「……はふ。……熱い。……でも、中から溢れるカボチャのペーストが、私の孤独な心を包み込んでくれます……。……合格」
「次はこれ! 『深淵イカの墨汁パイ』!」
「……真っ黒です。……でも、この暗闇は私の部屋の隅っこと同じ安心感がします。……合格」
リリアが合格を出すたびに、その屋台には瞬時に数千人の行列ができた。
「美食の審判官が認めたぞ! これを食べれば魔王様の慈悲に触れられるんだ!」
「うおおお! 俺も食うぞ! 墨汁パイを食って、俺も魔王様の一部になるんだ!!」
リリアは、ただ空腹を満たしたかっただけなのだが、彼女の引きこもりゆえの極端な感想が、民衆には深遠なる食材への評価として翻訳されていった。
市場の片隅で、変装したメフィストが激しくメモを取っていた。
「……なるほど。リリア様は自ら市場に降り立ち、毒見というパフォーマンスを通じて、停滞していた零細商店の購買意欲を爆発させているのか。……さらに、ティアマト様に全品購入を行わせることで、市場の在庫を一掃し、強制的な経済循環を引き起こしている……」
メフィストは感動のあまり、眼鏡を曇らせた。
「ただ食べるだけで、インフレを抑制しつつ中小企業を救済する。……これが、これが『
(※実際は、リリアが全部食べたいと思い、ティアが全部買っただけである。)
市場の広場中央で、リリアはついに究極のクッキーを掲げる老舗の前に辿り着いた。
そこには、昨日リリアが視察で通るはずだったルートの目玉、『黄金龍の鱗クッキー』が並んでいた。
「……これです。これこそが、私の魂が求めていた終着点……」
リリアが手を伸ばした瞬間、突風が吹き、彼女の深いフードを捲り上げた。
露わになる、プラチナブロンドの髪。そして、昨日の視察で民衆の脳裏に焼き付いた絶望的に美しい、覇道の色をした瞳。
「――っ!? あ、あのお方は……!!」
「リリア様! 魔王リリア様だ!!」
市場が、一瞬で凍りついた。
リリアは、手に持ったクッキーを口に運ぼうとした姿勢のまま、石像のように固まった。
(……終わった。……正体がバレた。……今すぐ地面に穴を掘って、地下1000メートルまで引きこもりたい)
パニックになったリリアは、口の中にあったクッキーを、思わずもぐもぐと咀嚼し、そして精一杯の震え声で言い放った。
「……こ、これは……民への、抜き打ちテストです。……毒は、入っていませんでした。……合格……いえ、皆既月食級の……サンキュー、です……」
「……サンキュー……? 今、魔王様が我々にありがとうと仰ったのか……?」
「違う! サンキューではなく、『産級(魔界の階級制度を書き換える)』という、全商人の地位向上を宣言されたのだ!!」
市場の全商人が、その場に跪き、むせび泣いた。
「魔王様自らが、我々の泥臭い市場を聖域として認めてくださった……!!」
「リリアちゃん、サンキューだって! 面白いこと言うね!」
ティアマトは笑いながら、呆然とするリリアを小脇に抱え、再び空へと舞い上がった。
「ティア……。もう、嫌です。……私はただ、おやつを食べたかっただけなのに……。……なぜ、私が一歩外に出るたびに、世界が書き換わってしまうんですか……」
城に戻ったリリアを待っていたのは、セバスチャンの冷徹な報告だった。
「リリア様。市場での聖別、見事でございました。現在、貴女が合格を出した108の屋台は、全て『魔王庁公認・聖地』として登録され、巡礼者が殺到しております。……また、貴女が仰ったサンキューは、新時代の経済用語として、魔界全土の帳簿に記されることになりました」
「……おやつ。……私の、静かなおやつタイムを返してください……」
リリアは、城のクローゼットの最奥に逃げ込み、ティアが市場から強奪……いえ、購入してきた山のようなクッキーの中に埋もれた。
甘い香りに包まれながら、彼女は誓った。
「……明日は、絶対に。……一歩も、敷居を跨ぎません……」
だが、その誓いが守られたことは、これまで一度もなかったのである。
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