第13話:一歩の重みと、世界を止めるため息
セバスチャンの凛とした声が広場に響き渡ると同時に、豪華馬車の扉がゆっくりと開放された。
その瞬間、リリアを襲ったのは、暴力的なまでの光と音だった。
魔界特有の、少し紫がかった太陽の光が、数万人の民衆の熱気と混ざり合い、リリアの視界を真っ白に染め上げる。そして、津波のような歓声。
「魔王様ぁぁ!!」
「リリア様! 万歳!!」
「あのお姿を見ろ! 漆黒の衣を纏った、真なる闇の支配者だ!!」
リリアは、馬車のステップで完全にフリーズしていた。
(……帰りたい。今すぐ扉を閉めて、内側からボルトで固定して、この馬車を私の家として登記したい。……足が。足が震えすぎて、もはや自分の足ではなく、壊れたバイブレーターのようです)
リリアは恐怖のあまり、呼吸をすることを忘れていた。
彼女のプラチナブロンドの髪が風に舞い、銀の装飾が日光を弾く。その人形のような無機質な美しさと、恐怖による硬直が、民衆にはあまりにも強大すぎるがゆえの、圧倒的な静寂として映っていた。
広場が熱狂の渦に包まれる中、ドスン、という不穏な音が馬車の屋根から響いた。
「ふぁ~あ……やっと着いた? 結構長かったねー」
間の抜けた声と共に、馬車の屋根から逆さまに顔を出したのは、四天王のティアマトだった。彼女は護衛という名目で屋根に乗っていたはずだが、その手にはしっかりと魔界産ポテトチップス・激辛ドラゴン味の袋が握られている。
「テ、ティア!? どうしてそんなところから……というか、食べてるじゃないですか!」
リリアが小声で抗議するが、ティアはポテチをボリボリと豪快に咀嚼しながら、リリアの隣に飛び降りた。その着地衝撃で、広場の地面に微かな亀裂が走り、周囲の魔族たちが「ひっ」と声を漏らす。
「え? だって退屈だったんだもん。ほら、リリアちゃんも食べる? 緊張で顔が青いよ。これ食べると、火が吹けるくらい元気が出るよ。……あ、もう一枚食べる?」
「要りません! 火なんて吹いたら、視察じゃなくて大虐殺になっちゃいます!」
民衆は、このティアの奔放な行動すらも深読みした。
「見ろ……最強の古竜ティアマト様が、魔王様のお側で供物を食しておられる……。あれは、魔王様への絶対的な親愛の儀式に違いない!」
「リリア様の覇道には、最強の竜ですらリラックスして付き従うというのか……! なんという、なんという度量だ!!」
(……ポテチ食べてるだけですよ! ドラゴンが野生を忘れてジャンクフードを貪ってるだけなんです!!)
セバスチャンの無言のプレッシャー(物理的にリリアの背中を軽く押す手)に耐えきれず、リリアはついに、城下町の石畳へと足を踏み出した。
(……一歩。……よし、まだ生きています。……二歩。……地面が、地面が私を拒んでいるような気がします。膝が、膝が笑いすぎて、漫才のコンビを組めそうです)
リリアは、転ばないように必死だった。
歩ける布団コートの内側で、彼女の体は恐怖の冷や汗でしっとりとしていたが、表面上の彼女は、一歩一歩を確認するように、極めて重厚に、ゆっくりと歩を進めていた。
その姿を見たメフィストが、演台の横で眼鏡をクイと上げた。
「……素晴らしい。あの、大地を慈しむような、それでいて支配するかのような重い足取り。……一歩踏み出すたびに、リリア様は街の魔脈を掌握し、浄化されているのだ。……見てください、あの方が通った後の石畳が、心なしか輝いて見える」
(……輝いて見えるのは、私のコートから落ちた宝石の破片か、ティアのポテチの油ですよ!)
広場の中央、演台に辿り着いたリリア。
数万の視線が、レーザービームのように彼女を貫く。
リリアは、何か言わなければならないという強迫観念と、あまりのプレッシャーに、ついに限界を迎えた。
「…………はぁ」
リリアの口から、深い、あまりにも深い、魂の底から絞り出したような絶望のため息が漏れた。
彼女としては、もう嫌だ、今すぐ布団に帰ってクッキー食べたいという全存在を懸けた現実逃避の音だった。
しかし、広場に設置された拡声魔導具が、その音を広場全体に、重低音と共に響かせた。
「――!? 今、聴こえたか!? あの深淵を覗き込むような、重厚な溜息を!!」
民衆の間に、激震が走った。
「あれは……我ら民の、日々の苦悩を全て代弁してくださった音だ……!」
「違う! 『お前たちの言いたいことは、全て分かっている。言葉など不要だ』という、究極の全知全能の肯定だ!!」
「あああ……リリア様……! 私たちのちっぽけな歓声など、あの方の抱える世界の重みに比べれば、あまりにも軽すぎたのだ……!!」
数万の魔族が、まるでドミノ倒しのように、その場に一斉に跪いた。
広場は一瞬にして、静寂の海へと沈んだ。
跪く民衆を前に、リリアは「え、何。みんな死んじゃったの? 私のため息で、全滅したの?」と、パニックで涙目になっていた。
そんなリリアの肩に、ティアがひょいと腕を回した。
「あはは、みんなリリアちゃんにビビりすぎだよー。ほら、みんな顔を上げなよ。リリアちゃん、本当はみんなにクッキー配りたいくらい優しいんだからさ」
ティアのこの気安すぎる態度が、民衆の勘違いにトドメを刺した。
「……信じられない。あの暴虐の象徴たるティアマト様が、あんなに親しげに……。リリア様は、力で支配するのではなく、その存在の格だけで、荒ぶる竜をも愛玩動物に変えてしまったのか……!」
リリアは、ティアの耳元で必死に囁いた。
「ティア……助けて。もう、足の感覚がありません。今すぐ私を抱えて、光速で城に連れて帰ってください。……報酬は、私の隠し持っている『特製チョコサンドクッキー』一箱です」
ティアの瞳が、獲物を見つけた竜のようにギラリと光った。
「了解! リリアちゃんの依頼なら、ドラゴン便、秒速で届けるよ!」
次の瞬間、広場の民衆は信じられない光景を目撃した。
「――あ、リリア様が、空を!?」
ティアマトがリリアを脇に抱えると「ひゃぅっ!」と情けない声を上げたが、それすらも『神の啓示』に聞こえ、そのまま垂直に跳躍。
リリアの布団コートがマントのように翻り、彼女は一瞬にして雲の彼方へと消え去った。
「……見たか。演説の必要すらない。……ただ、人々の前に姿を現し、ため息一つで魂を救済し、そして執着を見せずに天へと昇られた……」
ヴァルハラが、演台の横で男泣きをしていた。
「これぞ……これぞ真の王! 姿を見せるのは一瞬、だがその残光は永遠! 私は、私は今日から毎日スクワットを一万回追加するぞぉぉ!!」
魔王城の自室。
リリアは、ベッドの上に死体のように転がっていた。
傍らでは、約束のクッキーを幸せそうに頬張るティアと、冷静に視察の大成功(勘違い版)を記録するセバスチャンの姿があった。
「……セバスチャン。私、もう二度と外に出ません。……ため息をついただけで、みんなが土下座し始める世界なんて、怖すぎます。私は、クローゼットの暗闇だけを愛して生きていきます……」
「リリア様。残念ながら、今日の視察で貴女のカリスマ性は魔界全土に轟きました。明日からは、さらに多くの陳情と、貴女を拝もうとする巡礼者が城に押し寄せるでしょう。……朝五時起き、覚悟してくださいね」
「ひいいいいい!! 逆に状況が悪化してる!! 私の静寂を返してください!!」
リリアは枕に顔を埋め、全力で足をバタつかせた。
彼女のお外への挑戦は、最悪の方向――伝説の魔王への道を、また一歩進めてしまったのである。
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