第15話:暗闇こそが私の聖域


 「……ふふふ。完璧です。ここは暗い、静か、そしてティアが市場で買い占めてきたクッキーの山がある。セバスチャン、私は決めました。今日からここが私の玉座です。国務は全てこのクッキーの隙間から、筆談で済ませます」


 市場でのサンキュー事件から数時間後。リリア・フォン・ダークネスは、クローゼットの奥深くで至福の時を過ごしていた。


 だが、その平和は空腹のドラゴンによって物理的に破壊される。


 「リリアちゃーん! 大変だよ! さっきの市場で買い忘れたやつがあるんだって!」


 「ひゃぅっ!?」


 ティアマトがクローゼットの扉を景気よく引き剥がすと、山積みのクッキーが崩れ、リリアが雪崩に飲み込まれた。


 「ティア! 何を言っているんですか! 私はもう一生ここから出ないと誓ったばかりです! 買い忘れなんて、セバスチャンに頼めばいいじゃないですか!」


 「ダメだよ、あれは『現地で、その場で食べるのが最高に美味い』って評判の、幻のスラム串焼きなんだから! ほら、セバスチャンも『魔王が市場だけを優遇するのは不公平だ』って困ってたよ!」


 「……えっ、セバスチャンが?」


 気づけば、背後には音もなくセバスチャンが立っていた。


 「左様でございます、リリア様。市場での聖別により、現在スラム街の住人たちから『我らも見捨てないでほしい』という悲痛な血判状が届いております。……リリア様、真の王とは光(市場)だけでなく、影(スラム)をもその慈愛で包むものでございます」


 「嫌です! 私は影なら自分の部屋の隅っこで十分間に合っています!!」


 リリアは必死に抵抗したが、ティアマトの腕力(物理)とセバスチャンの義務感(精神攻撃)により、再び布団コートを着せられ、城の外へと連れ出されることになったのである。


 「……セバスチャン。私は今、深刻な方向感覚の喪失を体験しています。先ほどから同じドクロの形の街灯を三回見ました。これは、魔界の時空が歪んでいるのか、あるいは私の帰りたさが物理的な迷路を作り出しているに違いありません」


 城下町の華やかな大通りを抜けた途端、リリアたちは迷走していた。


 原因は「美味しそうな匂いがする!」と叫んでリリアの襟首を掴んだまま爆走したティアマトと、その突進によって護衛の騎士団とはぐれ、さらにはリリア自身の絶望的な方向音痴が重なった結果だった。


 「リリア様。時空は歪んでおりません。ティアマト様が珍しい魔獣の串焼きの匂いを追って、路地裏の迷宮へ突っ込んだ結果でございます。……おや、ここは城下町の浄化魔法が届かない、通称『影の底』……スラム街ですね」


 セバスチャンが影から現れる。


 「ですが、ここもまたリリア様の領土。……リリア様、顔を上げてください。住人たちが、貴女を品定めしておりますよ」



 そこは、魔界の中でも貧しく、力のない魔族たちが肩を寄せ合って生きる場所だった。

ボロボロの布を纏った子供たち、角の折れた老人。彼らにとって、豪華な布団コートを纏い、場違いなオーラを放つリリアは、自分たちを駆逐しに来た光側の支配者に見えた。


 「……けっ、魔王様がこんなゴミ溜めに何の用だ。俺たちの命を掃除しに来たのか?」


 「市場じゃクッキーを配ったらしいな。……ここでは、死の宣告でも配るつもりかよ」


 殺気と絶望が入り混じった空気が、リリアを包む。

普通の魔王なら威圧で黙らせる場面だが、リリアが感じたのは恐怖でも怒りでもなかった。


 (……あ。この場所、すごく落ち着く……)


 リリアは、周囲のボロボロの家々や、陽の光を拒む狭い路地裏を見渡した。


 (太陽が届かない。湿気があって、ひんやりしている。みんな、あんまりやる気がなさそうで、目が死んでいる。……ここは、私のクローゼットと同じ平和な暗闇の匂いがします)


 リリアは、思わず布団コートのフードを深く被り直し、魂の底からの共鳴を込めて、ポツリと呟いた。


 「……いいですね。ここ、最高です。私も、一生ここにいたいです」



 その一言が、スラムの住人たちに落雷のような衝撃を与えた。


 「……今、なんて仰った? 『ここが最高』……だと?」


 「『一生ここにいたい』……!? 贅沢の限りを尽くせる魔王様が、俺たちのこの『絶望のどん底』を肯定してくださったのか!?」


 一人の老人が、震える足でリリアの前に進み出た。


 「リリア様……。ここは、陽の光も当たらず、明日をも知れぬゴミ溜めでございます。我らのような日陰者が生きる、呪われた場所なのですぞ……」


 リリアは、その老人の手をそっと取った。彼女は本気だった。


 (……分かります。陽の光なんて、肌に悪いですし、カーテンの隙間から漏れてくるだけでイライラしますよね。私も、日陰が大好きです。日陰こそが、唯一の安息の地です)


 「……日陰は、呪われてなどいません。日陰こそが、魂を癒す『聖域』です。光が当たらないからこそ、私たちは自分を隠して、静かに呼吸ができるのですから。……貴方たちは、この素晴らしい暗闇を守っている、選ばれし引きこもりのエリートです」


 リリアは、心からの敬意を込めて語った。


 彼女にとっては外に出なくていい、働かなくていい理由の全肯定だったが、住人たちの耳には、全く別の福音として響いた。


 「聖域……!? 我々が守ってきたのは、ゴミではなく聖域だったのか……!」


 「選ばれしエリート……。そうだ、俺たちは弱くて隠れていたんじゃない。この静寂を守るために、敢えて光を拒んでいたんだ……!!」


 「あ、見つけた! この石、変な匂いすると思ったら、やっぱり『魔導石の原石』じゃん!」


 リリアが住人の心を掌握(勘違い)している間に、路地の奥でゴミ山を漁っていたティアマトが戻ってきた。彼女が手に持っていたのは、泥にまみれた真っ黒な石だ。


 「ティア! 何を拾ってるんですか、汚いですよ!」


 「んー? だってこれ、磨けばすごく光るやつだよ。リリアちゃん、ここの人たちって、こんなお宝を椅子代わりにしてたんだね。あはは、贅沢ー!」


 ティアが指先でパチンと石を弾くと、ドラゴンの魔力が注入された石は、スラム全体を淡く輝かせる美しい照明へと変貌した。


 「……お、おおお! 石が……石が呼吸をしている!」


 「魔王様だけじゃない、最強の古竜様まで、俺たちが踏みつけていたゴミの中に価値を見出してくださった!」


 ティアにとってはただの鑑定だったが、住人たちには魔王がスラムの価値を認め、ドラゴンがその未来に息吹を与えたという、神聖な儀式に見えた。



 リリアは、最後にスラムの住人全員を見渡した。


 (……ああ、みんな。もっと肩の力を抜いていいんですよ。仕事なんてしなくていい。太陽なんて見なくていい。この暗闇で、ゆっくり、一緒にクッキーを食べましょう)


 「……無理は、しないでください。暗闇は、いつでも貴方たちを待っています。……私も、すぐに帰ります(城のクローゼットへ)」


 リリアは、今度こそさっさと自分の部屋に帰りたかったので、ティアの手を引いて早歩きでスラムを去ろうとした。


 だが、その足早な立ち去りは……。


 「……リリア様は、仰ったのだ。『私が変えるから、お前たちはそこで待っていろ』と!」


 「あの去り際の背中を見たか!? すでにスラムの改革案を脳内で完成させ、実行に移すために急いでおられるのだ!!」


 スラムの住人たちは、一斉に地面に頭を擦りつけ、号泣した。


 その夜、スラム影の底では、これまでの自暴自棄な生活を捨て、自分たちの聖域を世界一快適な場所(魔王様が住みたがる場所)にしようという、空前絶後の大掃除が始まった。


 ようやく城への馬車に辿り着いた時、セバスチャンは手帳を猛スピードで動かしていた。


 「リリア様。素晴らしい手腕です。スラムの住人に対し現状を肯定することで自尊心を回復させ、その上で秘めた資源に光を当てる。……もはや、社会福祉の天才としか言いようがありません」


 「……セバスチャン。私は、ただ暗いところが落ち着くって言っただけです」


 


 一方、人間界の聖帝国。

 勇者エドウィンは、スパイからの報告を受け、眉間に深い皺を寄せていた。


 「……何だと? 新魔王は、難攻不落のスラム街を一言で掌握し、最下層の住人たちを最強の狂信者へと変えたというのか……?」


 「……恐ろしい。リリア・フォン・ダークネス。貴様は、これまでのどの魔王よりも、狡猾で、巨大な悪だ!!」


 勇者の勘違いもまた、臨界点を突破しようとしていた。

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