第7話 ホットバタードラムの落とす影

百瀬さんがヘルプとしてほぼ固定になってくれて、オレの疲労は大きく改善された。

洗い物や掃除といった雑用を百瀬くんが積極的に引き受けてくれるおかげで、手の荒れも一時期より落ち着き、痺れを伴うような痛みも減った。


少しずつではあるけれどお客様のカクテルも任せることができるようになってきたことで、店はこれまでになく安定し、ようやく大学の授業に顔を出せる時間的な余裕もできてくれた。

数ヶ月前には、とても想像できなかった変化だ。


快く百瀬さんを出してくださり、研修だからと人件費まで負担してくれるYのマスターには、本当に頭が上がらない。

三井ご夫妻が、相談するきっかけをくれたことにも改めて感謝したくなる。

もちろん、誰よりも百瀬さんの頑張りは大きい。


本当に、沢山の人に支えられて、この店は守られているような気がした。


恩を受けたからには、いつか返さないといけない。

そう思いながらも、とりあえず今は目の前の作業が優先だ。


荒れた指先に触れる、乾いた少し厚めの紙。

そこに並ぶ数字の羅列が、美大生であるオレの頭を圧迫する。

「文系なんだよ、オレは」と独り言を吐き、手元の請求書と睨めっこしながら帳簿を付ける。


複式簿記。

大学のパソコンで必死に覚えた見様見真似の数字は、何度弾いても合わずに右往左往する。


請求書から数字を書き写す。

ふと、違和感を覚える。


あそこの酒屋、また値上がりしたのか。

仕入れの量は大きく変わっていないのに、そこに記載された数字は先月より5%も跳ね上がっている。


本格的な冬に入り、青果類の仕入れ値は更に跳ね上がっていた。

ジンフィズのライムや、カクテルの飾り付けのオレンジすら、気軽に切ることを躊躇いそうになる。 


酒の仕入れを減らすか…だが、いつ無くなるかビクビクしながら営業するわけにもいかない。

来月の棚卸しは一日がかりになりそうだな、とゲンナリする。


次は人件費、だが時給の計算はオレだけでいい。

一々タイムカードを付けるのも面倒だから、固定給に変えようかなと思ったこともあったが、結局チーフに任命された時から変えていない。

そんな決定権もない。


給与の計算を終え、ふぅ、と溜息を一つ。

視界の端で、開封前の請求書が僅かに浮き上がる。

大きな溜息をもうひとつ落として、手を伸ばした。


ここまで、意識的に見ないようにしていたものだった。


「今月も……厳しいな…。」


封を切って数字を見た瞬間、胃のあたりがきゅっと凍りつく。

先程算出したオレの給与と、請求書に記載された額はほとんど変わらない。

画材を買ってしまえば、残るのは数千円が良いところ―生活費の、足しにもならない。

 

「……仕方ない、か。」

小さく呟きながら、請求書をそっと伏せた。

その指先は、まるで冷たいナイフに触れたように、かすかに震えていた。


見間違いじゃないよな、ともう一度給与を計算する。

数字は変わらなかった。


メモ帳を一枚、破り取って殴り書きの計算をする。

計算をするまでもなく、分かりきっていたことだけど…。


まあいい、今月も食費を切り詰めればいいことだ。

 

どうせ絵を描く時は食欲は全くなくなる。

食事を抜くことには慣れている。

満足感を味わってしまうと、満たされた感覚が邪魔をして絵に向かうモチベーションが無くなる。

美味しくて幸福な食事は、今、オレには必要ない。


だから、塩と胡椒、時折セールで安く買えるパスタとオリーブオイルだけ。

具なんてものはどこにもない、満腹感も味すらない。

エサのようなメシくらいが、オレにはちょうどいいんだ。


そう自分に言い聞かせ、胃の奥から響いたキュウ、と小さな音を上げる腹をグッと握りしめ、聞かなかったことにする。


ケホッ

乾いた咳がひとつ。


そういえばそろそろ乾燥が気になる季節だ。加湿器を見えない位置にセットしておこう。

 

そろそろ開店の準備に入らなければならない時間だ。

帳簿と請求書を乱雑に仕舞い、鍵をかけるように、意識を切り替える。

ここからは、プロとして動く時間の始まりだ。

荒れた指先で、おしぼりの準備を始める。


おしぼりをウォーマーにセットして、フルーツをチェックする。

丸氷のセットは今百瀬くんに担当してもらうようにしている。

この作業が荒れた指先に滲みるのも大きいが、ペティナイフの扱いの習熟にはもってこいの作業だからだ。


この作業のための時間を、オレのトイレやフロアの清掃と並行してできるようになったことで、オレの出勤時間にもかなりのゆとりができるようになったんだ。

 

一通り、大まかな開店準備が整ったタイミングで百瀬くんも出勤してくる。


「おはようございます!

開店準備もうバッチリっすね…。

何でオレは来ちゃダメなんすかぁ?」


請求書を見られる訳にはいかない、という理由は伏せて、表向きの理由を述べる。とはいえ、これも本心だ。


「百瀬くんのお給料は、Yから出てるだろ?

あくまでも百瀬くんは研修として来てくれているんだ。

雑用なんてさせられないからね、勉強に集中してもらいたいんだよ。」


「そうですけど…。

開店準備でも勉強になることってたくさんありますよね〜、それも勉強したいんですが?」


「それも確かにあるけれど、まずはもう少し安定してカクテルを作れるようになってからだね。

こないだも、ステアの時に氷がぶつかってたじゃないか。」


ステアの技術は、シェイクのように派手ではない。だが、この技術は明確にバーテンダーの根底だ。

絶対に疎かにはできない。

 

シェイクは派手だし、それなりに練習した程度とか、真似ごとでも何となくサマにはなるだろう…もちろん、プロとアマチュアでは雲泥の差が生まれることは言うまでもないことだが。

だが、ステアだけは、本当に反復練習だ。


一日この練習をサボれば、自分で分かる。

三日もサボれば、バーテンダーなら分かる。

一週間もサボれば、お客様にも伝わる。


だから、オレも自宅でステアの練習は毎日欠かしたことはない、今でもだ。

本当にそのバーテンダーの腕を見たいならステアを見るべきだと思う。


「うっ…すみません…もっと勉強します…。」


笑い返しながらトイレの清掃に入る。

百瀬くんには今のうちに丸氷をやってもらおう。

そして、瞬く間に開店準備が終わり、いよいよ今日の営業開始の時間が訪れた。

さあ、今日も頑張ろう。


重いドアの蝶番を軋ませ、看板を出す。

今日の蝶番はやけに軋むな。


コンセントを繋いで、看板の灯りを灯し、店の開店を街に知らせる。

店のドアを開けようとドアに手を掛けた時、声を掛けられた。


「よっ、チーフ!ちょうどいいタイミングだったかな?」


「あ、安永様。いらっしゃいませ。

はい、ちょうど今開けたところですよ。」


蝶番を軋ませながら、重いドアを開け安永様を迎え入れる。


「百瀬くんもおはよう〜!」


「安永様、いらっしゃいませ!」


百瀬くんもコートをお預かりしながら気持ちの良い挨拶を返す。

いいなぁ、これが若さか…。


いや、オレの方が若いんだけどね。


「じゃあ、早速だけど一杯いただこうかな…。」


「胡椒付きのブラッディ・メアリでよろしいですか?」


「やめて!

まだ根に持ってるの!?」


「ええ、忘れることは絶対にございませんよ。

バーテンダー潰し、なんてあんな不穏な異名、絶対に忘れるはずがないでしょ!」


「チーフのあの呼び方、安永様が犯人だったんですか!?」


安永様は愉快そうに笑いながら、おしぼりで手を拭う。


その視線が、オレの顔を見て、一瞬止まる。

なんだ…?

後ろめたいことは……ある。


安永様の視線は、先程帳簿を片付けた辺りを彷徨う、なんだ…慌てて仕舞ったとはいえ、何か仕舞い忘れたものは無いはずだ。


その視線がもう一度、オレの視線とぶつかる。


ひとつ、ふぅ、と息を吐いてから、

「チーフ、大丈夫かい?

無理してないか?」


安永様は"あの日"、あの場に居た唯一のお客様だ。

病院まで立ち会ってくださり、その後のことも全て知っている。


支援も申し出てくれたが、オレはそれを断り、全てを秘密にしてくれるように頼み込んだ。

安永様はその義理を律儀に守ってくれている。

代わりに、こうして度々店を訪れては、オレを気遣ってくれる。

安永様にも、心の中でずっと感謝している…不本意な異名についてだけは今も根に持っているけど。


「え?ああ、大丈夫ですよ。

最近は課題に打ち込んでて、少し疲れは出てるのかも知れませんね…。

でも、やっと絵を描く時間が取れるようになったんです。」


作り笑顔で答える。

それに、休んでいた分の課題が溜まっていることも事実で、四戸さんとトシ先輩が教授に事情を話して掛け合ってくれて、特別に遅れを許してもらえているだけだ。


「そうかい。随分と顔色が良くないように見えるが…。

無理はするなよ、体に悪い。」


「お気遣いありがとうございます。

じゃあ、特別にブラッディ・メアリ以外もお出ししましょう。」


「いやホントその節は…、ゴメンってマジで!」


カウンターに明るい雰囲気が戻って来てくれた。


「じゃあーーー

やっぱり、ギムレットかな!チーフのギムレットは最高だからね!」


「かしこまりました。」

 

安永様の顔を見る。

心なしかいつもより少し眉間の皺が深く見える、何か悩んでいるのか。

こういう時はサッパリ目に仕上げたほうがいいかな。


安永様の好みと一杯目であること、そして配合はサッパリ目に…。

頭の中が急に冷えてくる、今あるお店のジンの味わいが口の中に広がる。

ライム、甘み…パズルのピースが揃うようにギムレットのレシピが組み上がっていく。


よし、これで行こう。


カクテルグラスを冷凍庫に入れ、シェーカーのボディをひっくり返し、氷を落とす。

カシャン、気のせいかいつもより僅かに音が鈍く聞こえる。

冷凍庫に保管してあるビフィータージンを取り出し、45ml。

ライムはフレッシュで15ml、シュガーシロップを1dash。


ストレーナーを被せ、キャップを嵌め、空気を逃がして構える。

左肩前でシェーカーを構える、世界を切り離していく…集中が甘い、小さく聞こえるBGMにチリチリとしたノイズが入る。


大きく息を吸う、さらに深く集中して…ストロークが始まる。


カシャ、カシャ、カシャカシャカシャ…。小気味の良いリズムがカウンターに響き渡り、指先の温度がシェーカーに吸われて一体化していく。


…ここだな。


シェーカーを止め、キャップを外してカクテルグラスを取り出し、出来立てのギムレットを注ぐ。

ダウンライトに照らされた極小のフレークが虹色に煌めいている。うん、今日のフレークも最高だ。


最後に、香り付けのライムピールを振り掛け、コースターに重ねる。

 

「ギムレットでごさいます。」

「おぉ〜、来たよ、王のギムレットだ!」


最近は、オレの作るギムレットは王のギムレット、なんて呼ばれているらしい。

こそばゆいが、正直悪い気はしない。

このカウンターで磨いてきた技術が認められたのだと思えば、素直に嬉しいとすら思える。


ひと口口に含み、プハァ、と息を漏らす。

顔を見れば分かる、今日のギムレットも安永様はお気に召してくれたようだ。


「あ〜、コレコレ。今日はちょうどサッパリしたい気分だったから甘すぎなくてちょうどいいね〜。」


ケホッ

喉が一瞬詰まる、軽い咳払いで違和感は消えた。


「ありがとうございます。」


「なんだ、風邪かい?気を付けないとダメだぞ。


そういえば、チーフ、留年するんだっけ?」


いきなり脈絡もなく爆弾を落とす。

痛いとこ突くなぁ…。


「いやー、それ言わないでくださいよ…。

一般教養がどーしても単位足りなくて。」


「なんか、チーフ、単位とか言ってると本当に大学生なんだなって思いますよね…。

カウンターに立ってるの見ると、オレよりも全然しっかりして見えるのに。」


百瀬くん?


「カウンターに入っている時は、私、ね?

で、百瀬くんは私が老けてる、とでも言いたいのかな?うん?」


なお、オレに老けてるとか大人っぽいとか落ち着いている、といった話題はタブーである。

常連さんなら決して口にすることはない。

以前盛大にネタにした安永様に、一杯目は水しか出さなくなったことは常連さんのネットワークでしっかり共有されているらしい。

ちなみにその時は安永様が三日で根を上げた。


「し、失礼しました!」


安永様はゲラゲラ笑ってる。

…やっぱりバージン・メアリにしてやれば良かった。


「でもまあ、百瀬くんも来てくれたし。

もう少ししたら少しくらいはお店も任せられるんだろ?」


「うーん、そうですね、まだ流石に1人では、というところはありますが。

様子を見て、少しずつ、にはなりますかね?」


「ちぇっ、チーフってば、ホントウチのマスターより厳しいかも。」


「ほうほう…じゃあ、もっと厳しくしても良いようですよって、Yにお邪魔した時に言っとくね。

いやぁ、百瀬くんがそんなドMだったとは思わなかったよ。」


百瀬くんを預かっている立場上、定期的にYにはお邪魔している。

行く度にあそこのマスターには説教をされているが、ウチのマスターと兄弟弟子だけあって同じようなことばかり言うもんだから、ちょっと懐かしく感じて、嬉しい。


「やめてくださいって!オ…私ドMじゃないですし!」


ケラケラと安永様が楽しそうに笑う。

安永様、下世話な話が大好きだしツボったかな?


ちょうどその時、蝶番がギギギ、と重く軋む音がする。根津様だ。


「「いらっしゃいませ。」」


「ああ、今日もお邪魔するよ、と、おお、安永君!久しぶりだね!」


「あれ、根津さん!

こんばんは、良かった!

ちょうど話があったんですよ!」


百瀬くんがコートをお預かりする。おしぼりを持ちながら、安永様の隣の席をご用意する。


「もしかして、ホテルの件かい?」


「ええ、駅前に今建ててるあのホテル。

あそこも、根津さんとこなんですって?」


「耳が早いね。まあ、それなら話も早いな。

また、頼んで良いかな。」

「ホントですか!?いや、言ってみるもんだな!

よし、今日は接待で落としちゃいますから、私に持たせてくださいよ!」


「ハハハッ、じゃあ今日は甘えさせていただくとするかな。

あぁ、いつもので頼むよ。」


「かしこまりました。」


根津様はここ最近、一杯目は必ずギムレットだ。ロックグラスに丸氷を入れ、準備をする。


よくわからないが、何かの契約が決まったのだろう。こういうお店ではたまにあることだ。


店がお客様同士の縁を繋いだ、ということに、小さな誇りを感じる。


おっと、根津様の一杯目にはチェイサーも必要なんだった。

いかんいかん、最近抜けてきてる気がするな。気を引き締めないと。

コリンズグラスを取り出して、角氷を入れる。


せっかくなら今の、この何らかの契約が話が弾むようにお祝いの意味を込めたいな。


今日は少しだけ変わり種のギムレットにしてみよう。

ギムレットという味わいを大きく逸脱しないように…良し。


摺鉢を用意して、ブラウンシュガーを細かく砕く。

ジンは主張を抑えてボンベイ・サファイアを軸に据える、40ml。

ライムをフレッシュを20ml、ローズのコーディアルを1tsp。先程のブラウンシュガーをほんのひと摘み。


シェーカーの中にバースプーンを入れかき混ぜ、手の甲に一滴落として舐める。

もう少しだけ華やかさが欲しい、シトロンジュネヴァを1dash。今度の味はイメージ通りだ。


左肩前に構えて、今度はすぐに音が途切れて世界から断絶される。ノイズは聞こえない。


フワリと軽く、柔らかくシェーカーの前後運動が始まる。軽やかな音が、祝福のキャロルだ。

シェーカーの振動が指先に完成を伝える、スローダウン。


キャップを外す、ちょっと固いな…空気を抜きすぎたかな。

おかしいな、いつもはこんなことないのに。

幸い、少し叩いただけですぐに外れてくれた。


ロックグラスに注ぐ。

カシャ、と小さく控え目な音を立てながらシェーカーを傾ける。

ロックグラスの丸氷の上を滑るように、その液体はロックグラスを満たしていく。フレークが僅かにまろび出て、踊るように液面へと滑り落ちていった。


カン!という甲高い音を立ててシェーカーを回転させ、横に置く。


ロックグラスをコースターの上に、音を立てないように静かに置く。


「ギムレットです。どうぞ。」


「ありがとう、それでは安永君、乾杯しようか。」

「はい!乾杯!」

「乾杯!」


チン、とグラスのぶつかる高い音が響く。


今日のギムレットを口にした根津様が、驚愕に目を見開く。

「これは…随分と軽やかだな!

それでいて奥行きがあるようにも感じる…ジンの個性的な香りも洗練されているような…いや待てよ、すぐに答えは言わないでくれ、当ててみせる!」


「かしこまりました。」


トニックウォーターの蓋を開け、コリンズグラスに注ぎライムピールを振り掛けながら、小さく笑って答える。


根津様は最近はいつもこうだ。

少し手を加えたギムレットを、自分で当ててみたいのだという。

チェイサーをお出しした後も少し考えた後、ベースがボンベイであること、シトロンジュネヴァまでは言い当てたが、もう一つが…と降参されたのでブラウンシュガーですよ、とお見せしたら驚いていた。

砂糖の種類までは盲点だったらしい。

 

その後も安永様と根津様の商談が続く中で、次々にお客様がお越しになり、店はいつもの喧騒を取り戻していった。




「それでは根津様、本日もありがとうございました。ごゆっくりお休みくださいませ。」


根津様にとっても安永様にとっても、良い方向で話はまとまったようだ。

終始上機嫌でほろ酔いのいい気分になったところで、詳しくは明日ということになった。


今はお帰りになる根津様を、安永様と二人でお見送りだ。

「ああ、こちらこそ。

では安永君、また明日にでも事務所に来てくれるかな。

出来れば夕方にしようじゃないか、そのまままたチーフの酒を楽しもう。」


「ありがとうございます!かしこまりました、お伺いするお時間につきましてはまた明日ご連絡させてください!

今日は本当にありがとうございました!」


おお、こうして見ると安永様、ちゃんとサラリーマンやってるんだな、なんて考えながら、タクシーに乗り込み片手を挙げる根津様を見送る。


「良かったですねぇ安永様!」

声を掛けてドアに手を掛ける、蝶番を軋ませて、ドアの中に滑り込む。


「いや〜ホントだよ。

これもチーフのおかげさ!ありがとな!」


そのまま身震いを一つ。


「いや〜、それにしてもちょっと外に出るだけでも冷えるね〜!

オレもそろそろ帰るか。領収書頼めるかい?」


「かしこまりました。

安永様が領収書とは珍しいですね、宛名をお伺いできますか?」


安永様にとってはここは隠れ家なのだろう、誰かをお連れしたことはなく、記憶の限りでは領収書を求められたのは初めてだった。

その足でレジに向かう。

安永様も後をついてくる、別にお席までお持ちするのにな。


「安永会計事務所、でよろしく!」


「かしこまりました…、あれ、安永様、会計士さんだったんですか!」


「言ってなかったっけ?

まあ、最近独立したばっかりの小さな個人事務所なんだけどね。

帳簿とか見るのは得意だからさ、この店のも見てやろうか?」


「そうですね、今度お願いしても良いですか?

マスターの頃からのお付き合いでお願いしているところはあるんですが、イマイチ分からなくて任せっきりでして。

いやぁ、それにしても人は見かけによらないとは言いますが…。」


「ちょっと!オレをなんだと思ってるの!」

憤慨したようなそぶりで安永様がカウンターを叩く。


「人に変なあだ名を付ける人、ですかね…?」

他に何かあるかな?


「いやだからそれは何回も謝ってるじゃない!?

そろそろ勘弁してよ、チーフ!」


「はは、これは失礼しました。

お待たせしました、領収書です。」


渋々といった表情で領収書を受け取り、目を通して確認をしている。

「ありがとう〜…。」


ふいにその視点が止まる。あれ、字を間違えてたかな…?


「なぁ、チーフ。」


―いつもの、安永様のトーンじゃない。



「その封筒、なんだ。」



安永様の視線は、さっき片付けてあったはずの帳簿を見つめている。


封筒が、帳簿の陰からはみ出していた。

「国立がんセンター」――その文字が、カウンターの照明に浮かび上がる。

指先でその封筒を帳簿のページに戻す。


「がんセンター、って。お前まさか、今も、」


聞いたことのないような低い声が、胸に突き刺さる。


「安永様。どうか、それ以上は…。」


言わないでくれ…お願いだから。

絞り出すような、小さな懇願するような声が漏れる。


「……分かったよ…。

約束、だからな。ただな、チーフよ。」


見たことのない、怒りの色を宿した目で、見つめてくる。


「お前、本当に無理すんなよ。顔色、悪いぞ。」

胸が痛い。


「ご心配をおかけして、すみません。

でもホント、大丈夫ですから。」


お会計を済ませながら、心が揺れる、お釣り銭を取り出そうとする指が震える。


「釣りはいいから、美味いもん食えよ。

それじゃ、行くか。」


百瀬くんがクロークから取り出した安永様のコートを取り出して渡している様子を眺めながら、心が泥濘に囚われたように沈んでいくのが分かる…でも、今はこうするしかない。


ケホッ、また咳が喉を突いて出てくる。

いけない、ちゃんとお見送りしないと。


蝶番が軋む音が、オレを咎めるように響く。

ドアがやけに重く感じる。

暖房で暖められた店内を、冷たい外の空気が塗り潰していく。


「今日はすみません、ご心配ばかりおかけして。

本当にいつも、ありがとうございます。」


深く頭を下げる。安永様が、あの秘密を誰にも言わないでいてくれるから、この店は守られているんだ。


「ホント無理だけはすんなよ?

忘れてねぇだろうな?

お前が、無理は絶対にしないってのも。

約束の中には入ってんだかんな?」


「はい、もちろん承知しております。

気を付けます。」


大丈夫だ。オレはまだ、平気だ。

自分に、言い聞かせる。


「ん、それならオレから言うことは何もねえよ…。

また様子見に来らぁな。

ほんじゃね〜。」


片手を振りながら安永様の背中が遠くなっていく。


「ありがとうございました。」


寒いはずの外の空気が気持ちいい。

迷いが行き場をなくして、渦巻いているような沸き立つ心を冷やしてくれるようだった。


そのまま、しばらく立ち尽くした後、ふと我に返って店の中へと戻る。

店内の空気は外とは違って、確かな温もりを感じた。

そこで初めて、いつの間にか身体が冷え切っていたことに気付く。


「ごめんごめん、つい話し込んじゃったよ。」


もう、店内にはお客様も残っていない。

さっきまでの笑い声が嘘みたいに、BGMと百瀬くんが洗い物をする水音だけが響いている。


「お疲れ様でした、寒かったでしょう〜!

風邪ひきますよ!

ちょっと温かいものでも飲んで休憩しませんか?」


「ありがとう。そうだね、ホットバタードラムにでもしようかな?

せっかくならパンペロで。」


百瀬くんの練習として、お客様がいらっしゃらない時に何かを作らせてオレが飲む、というのはここ最近の日課だ。


間もなく電子レンジのチン、という音がして、湯気を立てる耐熱グラスを持って百瀬くんが戻ってくる。

バターと極上のダークラムの、シナモンやチョコレートなどの香りを思わせる甘い香りが湯気に乗って鼻腔を満たす。


口に含むと、パンペロ・アニバサリオの重厚な甘さと芳醇な味わいが口の中に広がる。

ダークラムということで、あまり出る機会がないが、ラムの中ではこのパンペロが一番好きだ。


たっぷりと口の中で味わった後、胃の中に落とし込む。

食道を通り胃の腑に落ちる温かい液体は、今どこにあるかがハッキリ自覚できるほど…じんわりと身体の中から温まるのを感じた。


「ありがとう、美味しいよ。

いや〜、温まるね…。」


「ホントに夜が遅くなると寒いですよね、日中はまだあったかいのに…。

でもラムって面白いですねぇ、ホワイトとダークでこんなにまったく違う顔を見せるのに、同じラムとして分類されるんですから。」


「そうだね。

熟成されたラムがダーク、とされるけど、このパンペロ・アニバサリオはアメリカン・オークの樽で六年だったかな。

お酒の熟成についてもバーテンダーは知っておかないといけないし、覚えることはたくさんあるからね。」


「ホントに覚えることがたくさんあって、学生の頃よりも勉強してる気がします…チーフは本当にすごいですよね、お酒の知識も。

その勉強と並行して学校にも通ってるんですから。」


百瀬くんの何気ない褒め言葉に、小さく胸の疼きを覚える。

百瀬くんが来るまで、大学には通う時間もほとんど取れずにいた。


考え込むように押し黙るオレを見て、少し気まずそうにする百瀬くん…。

気を使わせてしまったかな。


「いやそんなことないよ。なんせこの仕事が楽しすぎて、大学サボってばっかりいたから留年しちゃったくらいだからね。


うん、少し早いけど。

さっきも外に人影もないし、今日はこのまま終わりかな?

よし、これを飲んだら今日は閉めようか。」


無理矢理に話を変えて、少し早いけど今日の閉店を決める。


「そうですね!チーフは明日も学校ですか?」


ケホッ、また咳が出た。


「うん、この時間に帰れば、一休みしても一限は間に合いそうだし。

レジは明日やるから、閉めお願いしても良いかな?

ちょっと疲れてるみたいで。」


「チーフ、顔色悪いっすよ…。本当に大丈夫ですか?」


「うん、ちょっと寝不足かな。

百瀬くん、ありがとう。」


「大丈夫ですよ!

あとは任せて、今日はゆっくり休んでください!」


本当に、百瀬くんがいてくれて助かる。

今日は帰ったらゆっくり眠ろう。


耐熱グラスには、まだダークラムの濃い色合いが残っていた。

ダウンライトに照らされて、カウンターに短く、暗い影を落としている。


視界の端で、ドアが歪んでいる気がした。

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