第6話 ギムレットの王
ギムレットはシンプルなカクテルだ。
ジンとライムジュース、それだけ。
シンプルだからこそ、奥が深い。
バーテンダーによって全くその表情を変える。
ハードに振るのか、ソフトに軽やかに振るのか。
冷凍庫から出したばかりのタンカレーか、
どっしりとしたゴードンか、
それとも伝説が愛したプリマスジンか。
バーテンダーの数だけ、ギムレットの数はあると言っても過言ではない。
それは、正しいとか間違いだ、という単純な話ではない。
それだけたくさんのギムレットが世の中にはあって、どれもがそれぞれの魅力を抱えている。
ショートカクテルといえばギムレット、という声を聞くことも多い。
嬉しいことに、オレの店ではギムレットを頼むお客様が増えていた。
確か、オレがチーフになり、1人で店を回すようになって…半年くらいしてからだろうか。
徐々にその比率は上がってきているように思えた。
常連のお客様は、その日のオーダーの内に最低一杯は頼まれるのがほとんどだ。
中には、ギムレットを軸にしてオーダーを組み立てて、なんていった相談を受けたこともある。
「ギムレット、お願い。」
根津様だ。あの、Kの閉店以降、根津様は足繁くこの店に通ってくださっていて、今はもう古参の常連さんとも顔馴染みになっている。
「かしこまりました。」
何度も通って下さった際に観察した結果、根津様は決してお酒が強いわけではないことが分かった。ただ、そんなご自身の飲むペースを理解して、上手に飲まれる良いお客様だ。
お好みとしては、ゆっくり楽しみたいタイプ。
本日はこのギムレットで二杯目、ならばゆっくり楽しめるようにコシの強いゴードンを主軸に、柑橘類の複層的な味わいで楽しんでいただけるレシピで組み立ててみよう。
ロックグラスに丸氷を入れ、氷の表面をゴードンでリンスする。
ロックグラスをカウンターの上に置く。
この時間は、ちらほらと灯を灯し始めた、外のネオンが丸氷の面に淡く映り込む。細い窓から映り込む多彩な色彩が、スーラの点描画のように見える。
シェーカーのボディに、出来上がりの時にフレークが余り生まれないように、気持ち大きめの氷を組み上げる。
ゴードンを40ml、フレッシュのライムジュースを10ml、ローズのライムジュースを5ml、そしてシトロンジェネヴァを5ml。
ストレーナーを被せ、キャップを嵌めて空気を逃す。
シェーカーを左肩の前に構え、世界と断絶する。
周りの音が消えていくのがわかる。
ストロークが始まる。
軽やかに、少し長めにシェイク。カシャカシャカシャと、軽やかな音がカウンターの中に響く。銀色のシェーカーの中のイメージが、まるでその壁がないかのように流れ込んでくる。
あと…2シェイク。
スローダウン、僅かに名残惜しそうな音を響かせてシェーカーを静止する。
キャップを外し、静かに、丸氷の表面に滑らせるように…ギムレットを注ぐ。
カシャン…
と残響を残して、注ぎ終えたシェーカーを切るように持ち上げる。
仕上げに、小さくカットしたライムの皮を、ロックグラスの上から優しくピールする。
「お待たせしました。ギムレットでございます。」
完成したギムレットを、根津様のコースターの上に残されていたジンフィズのグラスと差し換える。
根津様の所作には美しさすら感じる、ノージンググラスのようにロックグラスを燻らせ、揺蕩うライムの香りを楽しんでから口に含む。
小さく、喉が上下するのが見える。
「ありがとう。
あぁ、ライムの香りが立って…。ジンがしっかり効いているのに決して重くない。
うん、いつもながら見事だよ。」
褒められて悪い気はしないが、正直気恥ずかしい。
「ありがとうございます。」
「チーフのギムレット、本当に美味しいもんね〜!
私にも、ギムレットくださ〜い!」
「ありがとうございます、三井様。
かしこまりました。」
一年半前にこのカウンターで告白を受けた三井様だ。
先月めでたくご入籍され、ご夫婦となった今も変わらずお二人で通ってくださる。
もちろん、本日もご主人の方の三井様とご一緒だ。
意外と奥様、酒豪なんだよな…。
だから、ドライ・ジンそのもの!といったシャープさと華やかさで、短い時間で満足感を得られるレシピが好みだ。
とはいえ、これで五杯目…少しだけライム感を増してサッパリさせたいな。
カクテルグラスを冷凍庫に移す。
ボストンシェーカーのボディに四角に切った氷を並べていく。
タンカレー10を45ml。フレッシュ・ライムジュースを15ml、粉糖を1/2tsp。
カットライムを更に半分にし、果肉部分だけを剥ぎ落としてシェーカーに落とす。
ストレーナーを被せ、キャップを嵌めて空気を逃す。
時間との勝負だ。
意識を集中させる。
時間が加速していくように感じる、店のBGMが意識の外に遠のいていく。
自らを鼓舞するように、ワイドスタンスを取り…振る!
少しハードに、シャープにシェイク。粉糖とライムの果肉が入っているから、ハードシェイクとはいえナインシェイク。
指先の体温がシェーカーの中に伝わる前に…シェーカーを止める。
カクテルグラスを冷凍庫から出して、シェーカーの中身を注ぐ。
最後の一滴、注ぎ終わると同時にシェーカーを回転させる、空になったシェーカーの中でカシャン!と氷の音が響く。
カクテルグラスに注がれたギムレットの表面には、想定した通りのフレークとほんの僅かな果肉片。
よし。
「お待たせしました。ギムレットでございます。」
「ありがとう〜!
ん〜!美味しい〜!」
「いや、美味しいのは分かるんだけど、ビールじゃないんだからひと口でそんなに飲むなよ…。」
ご主人の方の三井様が、変わらない優しい笑顔を向けながら奥様に注意をする。
「いいじゃない〜!
子供ができたら飲めなくなるんだもん、今のうちに飲み溜めしとくの!」
「ちょ、バカ、おまっ!」
…いつも微笑ましい、仲の良いご夫婦だことで。
「…おーい、チーフよ〜。わりぃけどちょっと冷房下げてくれや〜。
もう夏も終わったってぇのに、新婚さんの惚気に当てられて暑くなってきたわ。」
今日も居座る安永様が、三井様の隣の席で呆れたように声を上げると、店内には穏やかな笑い声が響いた。
最近は常連様同士での交流も増え、店内には笑い声が絶えなくなった。
バーテンダーとして、お客様の幸せそうな笑顔を見ることができる、これ以上の幸せはないんだ、と思うと、意識せずとも頬が緩む。
このまま、末永く当店をよろしくお願いします、と心の中でつぶやいて、2つのシェーカーを洗い場に移す。
夏も終わり、秋めいて来た外の空気、冬場ほどではないとはいえ、水は冷たい。
荒れた手が水に触れるたびに、電流のような痛みが走る。スポンジに伸ばした手が、その痛みの予感に怯えの色を隠して止まる。
それでも、洗い物は進めなければいけない、このままではグラスが足りなくなる。蛇口を捻り、水を出し、スポンジを握る…。
……ッ!!
分かっていても息が止まる。歪みそうになる顔を、気持ちだけで抑え込む。
先日、痛みに負けて、一瞬シェーカーを落としそうになったことが脳裏に浮かんだ。
二度とあんな失敗は許されない。
今日はしっかりハンドクリームでケアしなきゃダメだな。
いけない、ネガティヴなことばかり考えてしまいそうになる。軽く頭を振ってイヤな考えを振り払う。
他のことを考えながら洗おう。
そうだ、三井様といえば。結婚式の二次会に当店をご利用くださったな。
マスターと二人で立っていた頃は貸切営業でパーティーもしていた。
でも、オレ一人で店を回すようになってからは貸切営業はお断りしていた。
物理的に無理だからだ。もちろん、その売上は喉から手が出る程欲しいものではあったのだけど。
三井様からご相談を受けた時も、お気持ちは嬉しいけど…と最初は断ったんだ。
でも、2人が付き合い始めることになったこのお店で、どうしても、と言われて、隣町のYのマスターに頭を下げて人を借りることができた。
Yのマスターはこの店のマスターと同門で、若い頃は同じ店で切磋琢磨していたらしい。
年齢はウチのマスターの方が上だが後に入って来たとのことで、Yのマスターはウチのマスターの兄弟子に当たるそうだ。
いつもお邪魔した際には親戚の伯父さんみたいな感じで接してくれてたんだけど、その話をしに行った時にはめちゃくちゃ怒られた。
それからも、研修目的、という理由で、若いバーテンダーを貸してくれる。
研修だからと、人件費もYのマスターが持ってくれる。
めちゃくちゃ助かっている。
お陰で、大学の授業には出れるようになった。
既に単位が危ないので、留年は避けられなさそうだけど、それは仕方ない。
こうなった時に、覚悟はしていた。
今はこの店を守ることと、金を稼ぐことだけを考えなきゃ。
「すみませんチーフ、遅くなりました!」
Yからヘルプで来てくれている、百瀬さんだ。若いとはいえオレより年上だけど。
初めて来てくれたのはその三井様のご結婚のパーティーの時で、その後は何人かでローテーションになっていたようだが、ここ半月はほとんど百瀬さんが固定になったようだ。
店としても、どこに何があるかとか教える手間が減ってくれて、正直に嬉しく思う。
「百瀬さん、ありがとうございます。
遅くなんてないですよ、Yも人手が足りないだろうに、いつも本当にすみません。
マスターにも、無理しないようにお伝えしてあるんですが…。」
「いえ、ここ程人手が足りないわけじゃないですし。今日はパーティーか入っちゃってたのが、中々ハケなくて…。
あ、洗い物代わりますよ!」
「すみません、お願いします。」
助かった。顔には出さずに済んだはずだけど、やっぱり指先が痺れを伴うような痛みで脈打っている。
どうしても手の動きが遅くなる。グラスまでは手が回っていなかったところだ。
気が付けば、カウンターは8割方埋まっている。
百瀬さんが洗ってくれたグラスを拭きあげながら、グラスホルダーに並べて行く。
ふと、根津様が失礼、と携帯電話を手に席を外してドアの外に出て行く。
蝶番の音を聞きながら、仕事の連絡でも入ったかな?と次のグラスを磨いていく。
飛び切りの悪戯が上手く行った時の子供のような目をしながら、根津様はすぐにお戻りになった。
そんなに大きな問題でなかったのなら良かった、と一人ごちながら、グラスをチェックしていく。
百瀬さんはグラスを丁寧に洗ってくれる方だ。いつ見ても彼の洗ったグラスは、一点の曇りもなく向こう側を透かしてくれる。
少し不器用で、時間はかかるかも知れないけれど、こういう方は絶対にいいバーテンダーになる。
心の中だけに先輩風を吹かせながら、その日の営業を回していった。
お客様もまばらに立ち去って行き、そろそろ今日の締め、を考え始めていた時。
珍しく最後のお客様になるまでお残りになっていた根津様が、そういえば、と声を掛けてくる。
「そっちの、百瀬くんだっけ?」
「はい、百瀬と言います!
Yから勉強のためにお邪魔しております、よろしくお願いいたします!」
しっかりとお辞儀をして挨拶を返す。本当に真面目な方だ。
真摯な姿勢には好感を覚える。
本当に素晴らしい方をお貸出しくださったな、と改めてYのマスターへの感謝を強くする。
「そうだよね、Yで見たことあるなと思って。
どうだい、こっちには慣れたかい?」
「はい、お陰様で!
Yとは違って、小ぢんまりした箱ですが、その分お客様との距離も近くて。
良いお店にお邪魔させてもらえてるなって思いますよ〜!」
小ぢんまりした店で悪かったな、と心の中で毒づく。
まあ、確かにYからしたら、どんな店でも小さく見えるかも知れない。
「チーフは若いけど、すごいだろ〜?」
なんで根津さんが自慢げなんですか…そんなに持ち上げても何も出ませんよ?
「すごいですね…。
特に、やっぱりギムレットがすごいです。
凄すぎます…。
お客様のお好みと、お酒の進み具合を全部把握して、微調整してる…。
正直、Yでもここまではしてません。マジで勉強になります。」
素直な言葉に鼻がむず痒くなるが、同時に百瀬さんの言葉遣いが気になった。ちょっと敬語が崩れてますよ?
後で店の責任者として軽く注意しておくか。
この場で指摘しなければならない程致命的、ではないし、今じゃなくてもいい。
「ね、いやホントこの歳でここまでってのは、並大抵の努力じゃ出来ないはずだよ。
いいお店に勉強させてもらって、良かったじゃないか。」
「本当に、尊敬ですよ…。
Yでも、ここの研修は取り合いですからね!
Yもめちゃくちゃ良いお店なんですが、どうしても大箱なので、スタッフも多いから…。」
いらしてくださった方はみんなやる気に溢れてて、色々質問されたりとかあったけど。
そんな話、一回も言われたことないよ?
「確かに、しっかりしたお店ではあるけれど、カウンターに立つ許可が出るまで時間がかなりかかるんだろ?」
「はい、そうなんですよ〜。
私も、自分なりには勉強して、時間がある時には見てもらったりもしてるんですが…中々、合格が出なくて。
でも、このお店に来れるようになってからは、時間がある時にマンツーマンでご指導いただけて、Yに帰った時にマスターからもだいぶ伸びたなって言ってもらえてるんですよ!」
そうなんだ…。
同門のよしみだからと一方的に助けてもらってる、と思っていたけれど、少しでも百瀬さんのためになっているなら良かった。
これ以上恩ばかりが増えたら、どうやって返して良いか分からなくて、申し訳なさで潰れるところだった。
少しホッコリしていたところで、根津様が爆弾を落とす。
「それは良かったじゃないか!
どうだい、一杯作ってみてくれないか?」
見習いがお客様に初めて出す一杯。それは、ただの一杯ではない。
その後のバーテンダー人生を決めると言っても過言ではない、とても大切な一杯だ。
さすがに、お預かりしている身ではその責任は負えない。
百瀬さんの本当の師匠である、Yのマスターに合わせる顔が完全になくなる。
「根津様、申し訳ありません…。さすがに、それはちょっと…。」
本音では作らせてあげたい。
お客様にお酒を出す喜びを知って欲しい。
うまい、と言われる時の、震えるような感動を、体験させてあげたい。
でも、カウンターに立つ以上はプロだ。
お店によって、その基準があり、その許可を出すのはその店のマスターだ。
百瀬さんはあくまでヘルプで来てくれているだけの、紛れもないYのバーテンダーだ。
オレが許可を出すわけにはいかない。
「Yのマスターには、さっき許可をもらってあるんだ。」
心臓が、ドクン、と大きく音を鳴らして跳ね上がる。
「えっ…いつの間に…?」
あぁ、もしかして。
先程の、あの悪戯を成功させた時のような根津様の笑み。
そして、珍しくこんな、わざわざ他のお客様がお帰りになるまでお待ちいただいた理由。
まったく…大人には敵わないな。
百瀬さんは、そこまで手を回してくれていたことに、固まって口をパクパクさせている。
「百瀬くんは真面目に、このお店でもずっと勉強してるじゃないか。
チーフが良く指導してくれてるのも、Yのマスターも分かっていたよ。」
胸が熱くなる。
「そうは申されましても…お預かりしている身としても、責任がありますから…。」
「電話してみると良い。後は、直接聞くべきだと思う。」
その通りだ。
「かしこまりました。少しだけ、お待ちください。」
バックヤードに下がり、時計を見て携帯電話でYの店をダイヤルする。
この時間なら、Yのマスターはお店にまだいらっしゃるだろう。
緊張で手が震える。
プルル、と呼び出し音が鳴る。
その音が、オレには時限爆弾のタイマーのように聞こえた。
3コールで電話が繋がる、息を飲む。
『お電話ありがとうございます。バーYでございます。』
この声は、Yのマスターだ。
「あっ、マスター。
いつもお世話になっております、あの、チーフです。」
『ああ、チーフか。根津様から聞いたか?』
「はい、百瀬さんのことです。
百瀬さんの、最初の一杯…。」
『ああ、許可を出したぞ。
お前から見て、百瀬はどうなんだ?』
唾を飲み込む。
「非常に真面目で、真剣に取り組んでいます。
時間があれば、常にステアの練習も欠かさない。
いい、バーテンダーになると思います。」
『そういうことを言っているんじゃない。オレに遠慮するな。
アイツの酒は、もうお客様に出せるレベルか?』
ぶっきらぼうな言葉が、ちゃんと本音で話せ、と急かす。
ここで、お為ごかしの下手なことは言えない。言ってはならない。それは百瀬くんのためには決してならないからだ。
「まだ、もう少し時間は必要かも知れません…。
ですが、最初の一杯、のタイミングとしては、ちょうど良いと思います。」
この最初の一杯。
バーテンダー人生を決める一杯は、早くても遅くてもいけない。
これから伸びるためにも、そろそろ殻を破る必要があるとは感じていた。
その許可を出す権限が、オレにはないと思っていたから、言えずにいただけで。
『そうだろう。オレも、そろそろいいかな、とは思っていたんだ。
頼んだぞ、チーフ。』
「ですがマスター!
その、大事な一杯を、オレなんかが!」
『オレなんか、がなんだ。
お前の腕は聞いてるし、オレも見たさ。お前に足りないのは、人を育てる経験だ。
いいか、バーテンダーはな。旨い酒を出すのは当たり前だ。
だけど、それだけじゃ二流なんだよ。』
ガツンと、殴られたような衝撃を受ける。
『お前の、酒の味は間違いなく素晴らしい。
だが、孤高なんだよ。
それは、お前が一人で全部抱え込んで、どうしようもなくなってからオレのところに頭を下げた時にわかっていた。
いいか、覚えておけ。本当のバーテンダーはな。
人を育ててこそ、一流なんだ。』
人を、育ててこそ…。
そんなことは、考えたこともなかった。
正直、そんな余裕もなかった。店を回すこと、その日の営業を無事に終えること。
それしか、考えられないでいた。
電話口の向こうから、呆れたような深い溜息が聞こえる。
『お前の悪いところだ。
謙虚であること、責任感が強いこと。
確かにそれは美徳だ。だがな。
行き過ぎた責任感は、お前自身の身を滅ぼすぞ。
もっと周りを頼れ。アイツの弟子なら、オレにとっても弟子なんだ。
オレにも、もう少し助けさせろよ。』
「ありがとう…ございます…。」
唇を噛み締める。胸に熱いものが込み上げてきて、視界を滲ませようとする。
厳しいはずの声が、やけに温かく聞こえる。
『百瀬を、頼む。アイツを、お前に任せたぞ。
じゃあ、切るからな。』
「ありがとうございます!
責任を持って、育てさせていただきます!」
『バカやろ!
お前が1人で背負うなっつってんだろ!
なんかありゃすぐに相談するんだよ!
まったく…、ギムレットの王とか呼ばれてるくせにそっちは半人前だな』
ん?最後なんて言った?
聞き返す前に、電話が切れる。
少しだけモヤモヤとしたものを覚えるが、それは今はどうでも良い。
今は、そんなことよりも優先しなければならないことがある。
百瀬さんの、最初の一杯。
さっき噛み締めていた唇から、薄く血の味がする…。
そっと舌で舐め取り、気持ちを切り替えようと頬を張る。
頬を張った掌の熱を感じる。
この熱が何なのか、今なら分かる気がする。
カウンターに戻る。
百瀬さんは、期待と不安で落ち着かない表情でオレを見つめる。
待たせて、ごめん。
「根津様。
大変お待たせいたしました。
Yのマスターから、間違いなく許可をいただきました。」
「だろ?」
ニヤリと、根津様の頬が上がる。
オレの後ろで、百瀬さんは驚きに目を見開き、口を開けて固まってしまった。
「百瀬さん…いや、百瀬くん。
お客様にお出しするカクテルは、水割りだ。
作れるね?」
指導側が遠慮していてはダメだ。さん呼びは今日今この時を持って終わりにする。
くん呼びに変えた意味を理解したのだろう、百瀬さんの表情が一段と引き締まる。
「は…はい!」
「え〜、水割りなの〜?」
拗ねたように唇を尖らせる根津様だけど、ここは何を言われても譲れない。
「はい、この店では、お客様への最初の一杯は、デュワーズの水割りと決められています。
これは私もそうでした。先輩方もそうしてきたと伺っております。
ご了承ください。」
「まあ、店の決まりなら仕方ないか。わかったよ。
百瀬くん、お願いね!」
不承不承ではあるがご納得いただいた。
その間に、百瀬くんの準備もできたようだ。
「水割りはデュワーズで、シングルだ。
分かってるだろうけど、アルコールと水の比重を意識して、ゆっくりでもいいから確実に、ね。」
「はっ…はい!」
8オンスのタンブラーグラス、デュワーズ、そして割水。
水割り用の四角にカットしたキューブアイスをペールに入れて渡す。
百瀬くんがグラスを手に取り、アイストングで氷を挟む。
ほんの僅かに、手が震えている。
タンブラーグラスに、氷が積み上がる。
バースプーンが右手、グラスは左手。
氷の隙間へバースプーンを挿し込む。
一回転。
二回転。
何も入れないまま、グラスの氷を回す。
グラスを冷やし、氷の角を取るための大切な儀式だ。
グラスから抜いたバースプーンで氷を抑えながら、グラスに溶け出した水を捨てる。
タンブラーグラスを、静かにカウンターに置く。
左手に持つメジャーが揺れる。
百瀬くんにとっては、生まれて初めてお客様の目の前で酒を作る。
オレも、最初の一杯の時は手が震えて…。
あの時は、マスターが、確か。
「大丈夫だよ。今までの自分のしてきたことに、自信を持ちなさい。」
あぁ、そうだ。自然と、マスターと同じ言葉が口を突いて出てきた。
あの時のマスターも、こんな気持ちだったのだろう。
百瀬さんの手の震えが、少しだけ小さくなる。
根津様も、一言も発することはない。
こぼさないようにと慎重にメジャーに注がれるデュワーズの、トットットッ、という小さな音だけが、心臓の鼓動の代わりに聞こえる。
氷のような緊張感が、カウンターを支配する。
計り終えたメジャーを傾けて、グラスに注ぐ。
氷とデュワーズを馴染ませるために、またしてもステアする。
氷が溶け出さないように、素早く、四回。
水を規定量まで注ぎ、バースプーンをグラスと氷の隙間に挿し込み、氷を持ち上げるようにしながらステア。
横回転だけではダメ。
縦方向も合わせた、楕円をイメージしたステアが大切。
そうでなければ、比重の違う二つの液体は決して混じわることはない。
その時だった。
カシャ
小さな音が響く。
バースプーンと氷がぶつかる音だった。
百瀬くんの手が止まる、目を見開いて、焦りの表情を浮かべる。
根津様も、何も言わず…小さく目を見開く。
オレも何も言わない。
オレに答えを求めるように、百瀬くんが振り向く。見つめる目が、助けを求めている。
だが。オレは答えを出さない。
プロのバーテンダーとして、彼自身に答えを出させる…カウンターに立つ覚悟を決めたのなら、それは責任だ。
だから、一言だけ。
「キミの、やりたいようにやりなさい。」
それは…いつかのマスターがオレにくれた言葉。
オレが、バーテンダーとして、その責任に目覚めた日の言葉。
百瀬くんが、突き放すような言葉に目を見開く、そして、考えたのは一秒にも満たない。
もう一度、根津様の方に向き直り、しっかりと目を見つめて告げる。
「根津様、大変申し訳ございません。
この水割りは失敗してしまいました。
今すぐ作り直させていただきます。
もう少しだけお時間をください!」
言い終えて、深く頭を下げる。
根津様は…あの、包み込むような優しい、柔らかな笑顔で。
どこか嬉しそうに、百瀬くんを見つめ返している。
「いいよ。キミの、今出来る最高の一杯を、飲ませてくれ。」
「ありがとうございます!」
百瀬くんがもう一度頭を下げる。
すぐさまグラスを洗い場に戻し、自ら新しいグラスを持ってくる。
吹っ切れたのだろうか、動きから固さが抜けたように思える。
良い表情になったな、そんなふうに感じた。
手順通りに進め、先程失敗したステア…うん、今度は上手くいっている…。
おっと、そろそろ止めないといけないな、気付いているかな?オレのイメージからは二回ほど多くステアした後、バースプーンは動きを止める。
これが、百瀬くんの最初の一杯。
「水割り、でございます…。」
初めての一杯を作り終え、評価を受ける、という現実に再び緊張の波が訪れたのだろう。
少しだけ震える手で、グラスを置く。
「ありがとう。」
根津様の大きな手が、グラスを抱える。
ゆっくりと口に運ばれるグラスを、百瀬くんは片手でもう片方の腕を押さえながら見つめる。
ふふ、緊張するよね。
根津様の唇に百瀬くんが作った水割りのグラスが触れ、その中の柔らかな黄金色の液体が口内へと注がれる。
「……。
ああ、旨いよ。」
百瀬くんの表情が、緊張から解放され一気に綻ぶ。
喜びに紅潮した頬を弾ませ、
「ありがとうございます!!」
わかるよ、嬉しいよね。
旨いよ。
その短い一言は、バーテンダーにとって最高の賛辞だ。
「良かった〜!!」
膝から力が抜けたのか、カウンターに寄りかかるようにしながら百瀬さんが息を吐く。
肩を叩いて、良くやったな、と声を掛ける。
「チーフから見てどうだった?」
「そうですね、70点かな?」
「えっ!」
「おっと、予想より厳しいな…?どこが減点だった?」
「ステアが二回程多かったかな、と。
あと、カウンターの中ではもう少し落ち着かないと、ですね。」
「そんなぁ〜!」
「ただ、ね。」
何を言われるのかと百瀬くんが身構える。
「最初に作っていた時。ステアを失敗した時、自分で作り直したのは良かった。
あのまま続けようとしていたら、私が止めるところだった。」
百瀬くんの顔が強張る。
根津様も苦笑いだ。
「いやいや、厳しいな〜、チーフは!」
「確かに、厳しいと思います。
ですが、」
百瀬くんの目を見て、笑いかける。
「百瀬くんの、最初の一杯。
どうしても、失敗させたくなかったんです。」
根津様も、小さくハッとした顔をして百瀬くんを見る。
「私自身、今でも最初の一杯を思い出せます。それは私の中で、原点だから。
その記憶は、バーテンダーである限り…いや、バーテンダーを辞めて違う道に進んだとしても、決して忘れることはないはず。
そうして、百瀬くんが最初の一杯、を思い出す時に。」
今度は、根津様の目をしっかりと見つめて、告げる。
これが、彼の最初の一杯を指導したオレの責任だ。
「失敗をそのままに、誤魔化した思い出にさせることはできません。」
百瀬くんが俯く。握った両手が、小さく震えている。
「そう、だな。悪かった、確かにチーフの言う通りだよ。
ただな…。」
グラスを持ち上げて、根津様がまた悪戯な笑顔を見せる。
「それでもやっぱり、70点は厳しすぎるんじゃないか?」
敵わないな。目を見合って、笑う。
百瀬くんも、目を潤ませながら、満面の笑みを浮かべていた。
緊張に包まれていた百瀬くんも、大きな喜びの中にこれからの課題を見つけられたことだろう。
最初の一杯が、根津様で本当に良かった。
「さすがはギムレットの王、だね。
Yのマスターより厳しいんじゃないか?」
ん?さっきも聞いたぞ、それ。
「ギムレットの王?
何ですかそれ?」
根津様が、ヤベ、と舌を出して笑う。
「知らなかったの?
チーフ、この辺りじゃギムレットの王、って呼ばれてるんだよ。
最高のギムレットが飲みたきゃ、ここに行け、ってね。」
え、初耳なんですけど?
「めちゃくちゃ有名ですよね!
だから、Yでも王から学べるって、新人バーテンダーがこぞって行きたい行きたいって、くじ引きしてるくらいですよ!」
知らなかったの、オレだけ?!
「何それ…。」
「やけに最近、ギムレットのオーダー増えたなとか思わなかった?」
確かに…、思い返してみれば全体の二割はギムレットだった気がする。
ショートカクテルだけに絞ってみれば、その半数以上がギムレットだったはずだ。
「まあ、これで王の後継者もできたな!
責任重大だぞ、百瀬くん!」
「プレッシャーかけないでくださいよ、根津様ぁ〜!」
新人バーテンダーが確かな一歩を踏み出したその夜は、知らないところで出回っていた、オレの新しい異名を知った夜になった。
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