EditoR_04 その声の主

静かな部屋の中、微かなキーボード音だけが響いていた。喜多邑優(キタムラユウ)は、自分の執筆画面を見つめながら、言葉を綴っていた。机の上には、冷めかけたコーヒーと、積み上げられた資料。蛍光灯の白い光が原稿用紙を淡く照らし、夜更けの孤独を浮かび上がらせていた。窓の外には都会の夜景がぼんやりと滲み、時折遠くの車のクラクションや風に揺れる木の葉のざわめきが、現実を思い出させる。微かに漂うコーヒーの苦い香りが、眠気と不安を同時に呼び覚ましていた。


──タイトル:『鏡の向こうで』


モニターには、数分前に書き上げたばかりの一節が表示されている。


『少女は、鏡の中に知らない自分を見た。その瞳は、自分よりも強く、遠くを見ていた。』


その一文に、自分でも説明できない既視感を覚える。キーを打つ指先が止まり、薄暗い部屋の空気がやけに重たく感じられた。壁掛け時計の秒針の音すら、鼓膜に刺さるように大きく響き、胸の鼓動と重なり合って時間の感覚が乱れていく。そして、その直後だった。スマホが通知で震える。手に取って確認すると、InSTARのタイムラインに見覚えのある投稿が流れてきた。


──『#MAYA☆の物語 始めます』


──“MAYA☆”と名乗る少女の写真。


そこには、まるで自分の書いたばかりの情景をなぞるかのように、鏡の前で静かに微笑む彼女の姿があった。目が離せない。瞳の奥の光が、画面を隔てて優の胸を刺す。喉の奥がひりつき、呼吸が浅くなる。冷や汗が首筋を伝い、椅子の背もたれに背を押し付けても、ざわめきは収まらなかった。


「……まただ。あの“目”、あの光景。なぜ彼女は、俺の書いたとおりに行動するんだ。偶然か?それとも──」


優の頭の中に、いくつもの可能性がよぎる。誰かが、自分の原稿を盗み見ている?いや、それにしては、あまりにも早すぎる。更新したのは、ほんの10分前。彼女が撮影して投稿するには、どう考えても間に合わない。


──それとも、俺が彼女を見て書いてる……?


その逆転した因果に、背筋が冷たくなる。


(いや……そんなわけはない)


指先が汗ばみ、モニターに映る文字が揺らんで見えた。視界が狭まり、こめかみに鈍い痛みが広がる。窓に映る自分の顔は、知らない他人のように見え、背筋を震わせた


(まさか……未来を……?)


滑稽な妄想だと思いたかった。でも、胸の奥が警鐘を鳴らしている。モニターの光が優の瞳を鋭く照らし、耳奥に響く鼓動と息苦しさが一層増していった。



一方その頃、咲姫は部屋で自分のスマホを見つめていた。ベッドの上、パジャマの袖をぎゅっと握りしめながら。カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、彼女の横顔を淡く照らしている。ベッドのシーツがひんやりと冷たく、孤独を映し出すようだった。


You-KI──彼の新作が、今日も更新されていた。


『鏡の向こうで』


読んだ瞬間、息が止まりそうになった。胸の奥が強く締め付けられ、鼓動が体の外に響いている錯覚に襲われる。指先が震え、ページをめくる動作さえ心許ない。


(……これ、まるで……今日の私?)


スタジオで撮影してもらったあの瞬間。レフ板の光、カメラのレンズ、鏡に映ったMAYA☆としての自分。その情景が、小説の中でそっくりそのまま描かれていた。


(これって、偶然……なのかな?)


震える手で、ページを閉じる。視界が滲み、目の奥が熱くなっていた。けれど、なぜか怖くはなかった。むしろ、不思議と胸の奥に安堵が芽生えていた。涙がにじみそうになりながらも、唇には小さな笑みが浮かぶ。


(誰かが……ちゃんと見てくれてる)


咲姫は目を閉じた。あの文章の“彼”に、自分の存在が届いているような気がして。その安堵は、小さな灯火のように心の奥をあたため、闇にふわりと広がり、彼女を包んでいった。



その翌日、優は職場の控室で自販機で買った缶コーヒーを握っていた。脳裏には、昨夜の“投稿の一致”が焼き付いている。缶の冷たさも感じられないほど意識は遠く、窓から差し込む昼の光が、かえって心をざわつかせた。


「……これは、きっと偶然じゃない」


何かが確実にリンクしている。彼女が小説を読んで真似しているのか。それとも、もっと別の……そのとき、同僚の女性スタッフが顔を出した。


「喜多邑さん、また休憩中にスマホ見てニヤニヤしてる〜」

「……え、いや、ニヤニヤはしてない」

「ほんと〜?最近、ちょっと雰囲気変わったって評判ですよ?」


軽口を叩かれながらも、優の中では答えの出ない疑問が渦巻いていた。缶コーヒーを口に運ぶが、味はまるでしなかった。同僚の言葉が、フィルターがかかったように遠ざかっていく。


(もし、もしも彼女が……)


言葉にできない高揚と恐れが入り混じる想いを感じる。それと同時に、胸の奥に熱が宿り、同時に冷たい汗が背を流れ落ちていく。そして、目の前の景色が霞んでいく錯覚に陥った。



数日後。優はYou-KIとしての名義で小説を更新する。夜の静けさの中、キーボードを叩く音だけが響き続けた。外では雨が降り始め、窓ガラスに水滴がリズムを刻む。雨音とキーの音が交互に重なり、まるで二人の鼓動が共鳴しているようだった。


タイトルは──『花の咲かない場所で』


そこには、誰にも見られない裏路地で、花のアクセサリーをつけた少女が写真を撮られるシーンが描かれていた。マヤがアイドルを目指していた初期、街角スナップに応募していた過去をモチーフにしたものだ。文章を打つたびに、優の脳裏にはあの頃のマヤの姿が蘇る。笑顔の奥に隠していた不安、夢を語るときのまなざし。声が今も耳に響くようで、キーボードを打つ指は止まらない。目の奥に浮かぶ映像は鮮烈で、現実と記憶の境界を曖昧にしていった。


……そして、その翌日。

InSTARに、新しい投稿が上がる。MAYA☆が、小さな花飾りを耳元につけ、古びた石段の前でポーズを取っていた。優が小説に書いた通りだった。画面越しに、風の音や湿った石の匂いすら漂ってくるような錯覚。写真の影の濃さや、石段に差す光の角度までが、文章の延長のように見えた。優は、モニターの前で動けなくなり、椅子の背に寄りかかり、両手で顔を覆った。胸が激しく上下し、呼吸が乱れる。


(いや、やっぱり……おかしい)

(古びた石段?……俺はそこまで描いていない)


偶然では説明できなかった。小説に書いていない当時の“情景”までもがなぞられている。血の気が引き、ぞくりとした震えが背骨を走る。足元から冷気が這い上がってくるようだった。それは、マヤにまつわる出来事──そして、12年前にこの世を去った、あの“彼女”の物語だった。



──Hinata。

優は、あのインフルエンサーの名前を検索する。かつて、マヤと共演していたという噂のあった、同世代のクリエイター。HinataのInSTARには、あの投稿が残っていた。ディスプレイに映る彼女のプロフィール画像が、どこか影を帯びて見える。スクロールするたびに、画面越しに冷たい風が吹き抜けるような錯覚に包まれた。


『この子、なんか気になる。昔、ずっと憧れてた人に似てる。』


そう書かれている。ページを辿ると、10年前にleafに投稿されたページがリンクされていた。古いレイアウトのページに、淡い色合いの写真と文章。縁に黄ばんで見えるようで、時の重みが指先に伝わる気がした。


『#マヤの記憶』


優は、震える手でその記録を開いた。そこには、マヤという存在が、誰かの記憶の中で今も生きていることが綴られていた。淡いフィルム写真の笑顔、かすれた文字の行間に宿る切なさ。読むたびに、胸の奥で封じ込めた痛みが疼き出した。


──忘れられない声。

──名前を呼ばれた瞬間のあたたかさ。

──そして、最後に交わした言葉。


優は思わず、パソコンを閉じる。ディスプレイの光が消え、部屋が急に暗闇に沈む。心臓の鼓動だけが耳の奥に残り、闇の中に置き去りにされた自分の息遣いが、やけに大きく響いた。


(なぜ……なぜ、こんなことに……)


机に肘をつき、額を押さえる。頭が痛む。マヤの声が──あの一言が、脳裏で繰り返される。過去と現在の境界が曖昧になり、現実感が薄れていく。記憶が呼び覚まされるたびに胸が締め付けられ、呼吸が乱れた。


『もし、私がいなくなっても、私の物語を書いてくれる?』


その言葉が、ずっと胸の中に残っていた。まるで呪いのように、優の筆を縛り続けていた。机の隅に置かれた古いノートの背表紙が視界に入り、過去と現在が交錯する。ページをめくれば、彼女の笑顔がまた蘇る──そんな恐怖すら覚えた。


──そして今。


“マヤ”の姿を借りて、誰かがその続きを生きようとしている。その“誰か”は、どこまで知っているのか。マヤの記憶なのか、それとも、まったく新しい“誰か”なのか。物語を書いているのは、間違いなく、俺だ。けれど、今書かれているのは──誰の記憶だ?

優は立ち上がり、静かに呟いた。窓の外に広がる夜景が滲んで見える。街の灯りが星のように瞬き、過去と未来を繋ぐように揺れていた。


「……君は、誰だ?」

「これは、俺が書いた物語か?彼女のリアルか?それとも──」


──その声は、誰に届くのだろう。

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