EditoR_03 MAYA☆の物語、はじめます。
【WEB広告モデル募集】
はじめて応募した広告モデルの合格通知が来た。一歩踏み出した気がした。
ギャラはそんなに高くはないが、れっきとしたプロの仕事だ。 胸の鼓動が速くなる。
(……これは、チャンスかもしれない)
週末に、小さなスタジオでの撮影に、咲姫は初めて“MAYA☆”として臨んだ。入り時間より少し早く着いてしまい、入口の前で深呼吸を繰り返す。
「落ち着いて、落ち着いて……」
まだ早朝の光が差し込む中、スタジオのガラス扉に自分の姿が映る。思わずその姿を見つめてしまう。緊張でこわばっているけれど、昨日よりほんの少し背筋が伸びていた。指先は冷たいのに、心臓は熱く脈打っている。まるで二つの自分がせめぎ合っているようだった。
ドアを開けると、想像していたよりも明るい雰囲気のスタジオ。天井から吊るされたライト、白いスクリーン、数脚のスツール。カメラ機材のわずかな作動音が、空気を震わせている。そこに流れる空気は、日常とはまったく違う匂いを帯びていた。
「おはよう、今日はよろしくね」
優しそうな声に振り向くと、シンプルな服装の30代くらいの男性が立っていた。笑顔の奥に、プロフェッショナルな冷静さが見え隠れしている。言葉は柔らかいが、その視線は鋭く観察者の目をしていた。
「おはようございます。MAYA☆と申します。よ、よろしくお願いします」
「緊張してる?」
咲姫は、少しだけうなずく。喉が乾いているのに、声が出なかった。でも、その問いかけがどこか心をほぐしてくれた。
「この前、参考までにだけど、InSTARの投稿見たよ!表情がとても良かった。その調子でよろしくね」
「は、はい」
少し肩の力が抜けた。初めて会う相手に褒められるのは不思議な感覚だったけれど、嫌ではなかった。その言葉に背中を押されるように、ほんの少し胸を張った。用意された簡単な衣装に着替えると、スタジオの奥で撮影が始まった。衣装の布の感触、スタジオの匂い、肌に触れるライトの熱。その全てが、普段の生活とはまるで違う世界を告げていた。
「レンズの向こうで、誰かがあなたを見てると思って」
その言葉に、咲姫は思わず背筋を伸ばした。レンズの先に“誰か”がいる──そう思うだけで、表情が少し変わった気がする。
──カシャ。
シャッター音が響くたびに、咲姫の中の“マヤ”が目覚めていく。最初はぎこちなかった笑みも、徐々に自然になっていく。照明の熱、カメラのレンズ、足元の硬い床──そのすべてが、舞台装置のように咲姫の感覚を刺激した。心臓の鼓動とシャッター音がシンクロし、まるで自分が“演じる役”に飲み込まれていくようだった。
「笑ってみて」
その指示に、少し口元をゆるめた。でも、笑顔はただの表情じゃない。“誰か”に見られるという意識が、咲姫の感情を引き出していく。
──カシャ。
「……いいね。その目、すごくいい」
撮影の合間、鏡の前で自分の姿を見つめる。慣れない衣装、ぎこちないポーズ。それでも、その中には確かに“変わっていく自分”が映っていた。頬に赤みが差し、瞳には微かな自信の光が宿っている。でも──ほんの少しずつMAYA☆になっていく自分がいる。今まで感じたことのない想いが溢れながら、撮影が終了した。カメラマンが画像を見せてくれた。
「これ、今日の中で一番好きかも」
「あ、あの、InSTARに乗せたいんですけど、オフショットとか貰えたりしますか?」
「うん。良いよ。じゃあ、これなんかどうかな?」
「ありがとうございます」
画面の中の自分が、少しだけ大人びて見えた。どこか強くて、でも儚い。まるで、小説の中のマヤそのものだった。光の加減、表情の揺らぎ、それが絶妙に切り取られていた。
(自分じゃないみたい。こんな私がいたんだ)
◆
咲姫はカメラマンの了承を得て、貰ったオフショットを自分のInSTARアカウントに投稿した。指先がわずかに震えていたが、その震えは確かに未来への鼓動だった。
『#MAYA☆の物語、はじめます』
たったそれだけの言葉が、自分の中で特別な意味を持っていた。これは“誰かの物語”じゃない。私自身が描き始める、“自分の物語”だ。投稿してしばらくして、スマホが静かに震えた。それは通知音だったけれど、咲姫には脈打つ鼓動のように感じられた。まるで、これからの新しい自分の物語に続くドアを開く前の、ノックの音だった。画面を覗き込むと、コメントが次々と増えていく。自分という存在が“誰かの心”に届いた証拠が、指先で確かに確認できた。
「……コメント、来てる」
──「雰囲気すごい…プロですか?」
──「これはバズる予感」
──「応援してます!」
知らない誰かからの言葉が、じんわりと心に染みていく。見ず知らずの誰かが、自分の姿に心を動かしている。
(わたし、本当に変わり始めてる……)
その投稿から数時間後──InSTARの通知が鳴った。見慣れない名前──@hinata_official。フォロワー数30万超の人気インフルエンサー。
『この子、なんか気になる。昔、ずっと憧れてた人に似てる。』
そう添えられたRe:STAR(リスター、シェア)とともに、咲姫の投稿が一気に拡散された。アプリの画面が更新されるたびに、通知が溢れていく。咲姫は驚きと興奮でしばらく画面を見つめ続けていた。胸の奥に熱が広がり、視界がにじむほどだった。
(昔ずっと憧れていた人って誰なのかな?)
咲姫は、Hinataの過去投稿を遡ってみた。
──10年前。
『#マヤの記憶』と書かれた投稿サイトleafのリンク。そこには、当時話題になったアイドル”マヤ”の軌跡と、忘れられない想いが綴られていた。そのページの写真をスクロールするたびに、咲姫の胸は強く締め付けられた。写真の笑顔はどこか自分と重なり、文章の言葉はまるで自分に向けられているように響いた。咲姫は目を見開いた。スクロールする指が震える。まるでその先に、自分の未来が書かれているかのようだった。
「……マヤ」
咲姫はその名前を、思わずつぶやいてみた。唇の動きは震えていたが、どこか甘い雰囲気を感じた。
(まるで……運命みたい)
この“出会い”は、偶然じゃないかもしれない。マヤという名前が、またひとつ深く意味を持ち始める。胸の奥で、何かが静かに繋がっていく音がした。
「“マヤ”って、こうやって生きてたんだ」
──本当に、マヤの物語が始まったのかもしれない。そんな想いが胸に広がる。心の奥から、じわりと熱が湧いてくるようだった。目を閉じれば、その熱は光に変わり、暗闇をやさしく照らしていく気がした。その夜、ベッドの中で咲姫は天井を見つめながら、そっと、もう一度呟いた。
「MAYA☆の物語、はじめます」
スマホの光が、真っ暗な天井をやさしく照らしていた。その光は、まるで星のように小さくとも、確かに咲姫の心の中で灯っていた。小さな灯りが、やがて物語を照らす大きな光になる──そんな予感を抱きながら、咲姫は静かに目を閉じた。
◆
翌朝。撮影の写真を投稿してから、Hinataの後押しもあり、InSTARのフォロワー数がぐんと増えていた。見知らぬユーザーからのDMや、コラボ依頼のコメントもちらほら届く。スマホの画面に次々と現れる通知が、現実感を失わせるほどの勢いで光っていた。
(インフルエンサーって、こういう感じなのかな……)
咲姫は、驚きと戸惑いの入り混じった感情を抱いた。画面をスワイプしながら、胸の奥に小さな灯りが大きくなるのを感じていた。昨日までとは違う景色が目の前に拡がる。まだ信じられないけれど、それが確かに“変化”の証拠だった。
◆
職場の休憩時間。制服の袖を整えながら、ポケットからスマホを取り出す。You-KIの小説ページを開くと、新しい更新があった。
タイトル:『鏡の向こうで』
読んでいると、思わず息を呑んだ。それはまるで、今の自分をなぞるような内容だった。一行ごとに心臓をつかまれるようで、スクロールする指が止まらない。
「あれ?撮影しはじめた時間より早い??」
ページを見返し、更新時刻を確認する。その内容は、咲姫の行動よりも先に更新されていた。
『少女は、鏡の中に知らない自分を見た。その瞳は、自分よりも強く、遠くを見ていた。』
鳥肌が立つ。胸の奥で、何か冷たいものと熱いものが同時に駆け巡った。
(この人は……知ってるの? 私のこと……?)
そんなはずない。でも、偶然にしては出来すぎている。まるで、どこかで見られているようだった。むしろ、先に自分の行動を予期しているような、そんな不思議な感覚を抱えたまま、咲姫はスマホを閉じた。
(でも、知っているわけがない。単なる偶然に違いないよね…)
咲姫はそう言い聞かせるだけで精一杯だった。
◆
仕事を終えた帰り道。夜の風が頬を撫で、雨の匂いがほんのりと漂う。交差点に差しかかると、咲姫はふと足を止めた。
──あの日と同じ場所。
信号が変わる。横断歩道を渡りながら、ふと後ろを振り返る。誰もいない。でも、どこかで“誰か”が見ている気がする。胸の奥にざわめきが走り、呼吸が浅くなる。
(……私の物語、どうなるんだろう)
そう思いながら、足を前へと踏み出す。夜空に、光が瞬いた。その一瞬のきらめきは、まるで合図のように咲姫の胸に届いた。そして物語は、また一歩、先へ進んでいく──彼女の知らないところで…。
◆
その頃、別の場所で──静かな部屋の中、一人の男がモニターを見つめていた。画面には、MAYA☆の最新投稿。そして、開かれたままの原稿ファイル。
タイトルは、『鏡の向こうで』
男の瞳がわずかに揺れる。キーを打つ指先が宙で止まり、微かな息遣いだけが部屋に響いた。光に照らされたモニターの中で、MAYA☆と小説が重なり合っていく。
それは単なる偶然か、それとも必然か──。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます