EditoR_05 過去の記憶


 14年前の夏──これが、すべての始まりだった。

古びた稽古場の床に、柔らかな日差しが差し込んでいた。埃っぽくて、決して洗練された空間ではない。窓の外では蝉の声が響いており、開け放たれた窓から風が吹き抜けるたびに、カーテンがふわりと揺れた。空気は少し重く、しかしそのぬるさの中に、人の熱と熱が交わる気配があった。けれど、そこは確かに物語が生まれる場所だった。優は、その端で黙々と台本に赤を入れていた。大学を卒業し、アルバイトをしながら生計を立て、この劇団に演出助手として加わって1年。26歳になっていた。机にはインクで染まったペン、飲みかけの紙コップのコーヒー、付箋だらけの分厚い台本が散らばっていた。裏方に徹しながらも、心のどこかでは──いつか、自分の脚本で舞台を立ち上げたい、そう夢見ていた。


「……すみません、遅れました!」


大きな声とともに、ひとりの女性がドアを押し開ける。勢いで舞った埃が、差し込む日差しに照らされて光の粒になった。


──彼女が、マヤだった。


星野マヤ、当時22歳。オーディションでアンサンブルに選ばれたばかりの新人。メインキャストの代役も兼ねていた。それでも、不思議とその場に存在が馴染んでいた。その声、その佇まい──どこかで聞いたような台詞を、先入観にとらわれず、自分の言葉にして吐き出していた。稽古が終わった帰り道、彼女は台本を抱えて近づいてきた。


「演出助手さんですよね?ここ、ちょっとわからなくて…」


その日を境に、ふたりは言葉を交わすようになった。セリフの裏にある感情、人物の動き、間。優が語る“言葉の奥”を、マヤは熱心に受け取ってくれた。

そして、ある日の夜、稽古後──誰もいない舞台袖、マヤがぽつりとつぶやく。


「あたし、うまく笑えないとき、物語の中に逃げるんです」


その声には、わずかに震えが混じっていた。照明の落ちた舞台袖の闇の中、マヤの横顔が静かに光を帯びていた。優は、その言葉がどこか自分に似ていると思った。


「俺も。現実より、台詞の中の方が素直になれる」


たがいに笑った。その瞬間、ふたりの距離は決定的に近づいていった。

──それから色んな話をした。好きな映画、好きな食べ物、たまには政治の話や、幼い頃の話。

不思議とウマが合った。喋っていなくても、心地よい空気がふたりの間に流れていく。そして、自然と惹かれ合っていき、ふたりは恋人同士になった。だが、周囲には内緒だった…



マヤはSNSを始め、フォロワーが少しずつ増えていった。最初は舞台を宣伝するためだった。


「今日の舞台、ありがとう」

「誰かの涙に、私はなりたい」


そんな彼女の言葉が、少しずつ注目されていった。活動の幅を広げるため、アイドルのオーディションにも挑戦。見事合格し、知名度がどんどん高まっていった。

一方、優も密かに文章を書き始めた。leafという投稿サイトに、You-KIというペンネームでこっそり短編小説を載せる。


「言葉なら、舞台がなくても届くかもしれない」


それが、書くことへの最初の一歩だった。夜な夜な机に向かい、灯りの下で言葉を紡ぐ時間は、彼にとって心の避難所でもあった。だが、マヤの活動が忙しくなるにつれ、ふたりの間には、言葉にできない隙間が生まれていった。

ある夜。マヤが笑いながら言った。


「もし、私がいなくなっても、私の物語を書いてくれる?」


そのときのマヤの笑顔は、どこか寂しげで、まるで未来を予見しているようだった。


「そんな怖いこと言うなよ!縁起でもない」


優は冗談と受け止めたが、その言葉は心に刺さった。深く、鋭く、抜けない棘のように。



アイドル活動をし、その活動の裏側や、プライベートの写真をアップするなかで、SNSでどんどんフォロワーも増え有名になっていくマヤは、舞台でも、徐々にメインを任されるようになっていく。さらに、色んな仕事のオファーもこなすようになり、ときにはうまくいかない事もあったが、活動の幅が着実に広がっていった。そんなある日、大作映画のヒロインのオーディションが舞い込んだ。


「優、この映画に挑戦したいんだけど、どう?」

「いいね。これ合格したらすごいよ。」

「協力してくれる?」

「もちろん」


優は、マヤが合格するために、とことん付き合った。朝から晩まで台詞の練習に付き合い、表情や間合い、声のトーンまで、細かく一緒に研究した。その結果、ヒロインに大抜擢。有名事務所にも所属し、その映画の大成功もあり、あっという間にマヤはスター街道に乗っていき、TVで見ない日はない位に有名になっていった。彼女の写真は街の大型広告に掲載され、駅のビジョンでは笑顔が流れ続けていた。



そんなマヤの成功の陰で、優とマヤは変わらずに恋人として、密かに付き合っていた。だが、その関係は徐々に歪みはじめていた。マヤのプライベートの時間は少なくなり、連絡の頻度も減っていった。それでも彼女は「大丈夫」と笑っていた。



ある日、優はマヤの事務所に呼び出された。


「マヤから聞いたんだけど、君、マヤとお付き合いしているらしいね」

「え?なんでそのことを」

「彼女から聞き出したんだよ。最初は付き合っている人いないと言っていたんだけど、マヤって嘘つくときクセがあるだろ?君も知っているよね?」

「下唇を噛む癖……あ…」

(沈黙)

「へぇ。やけに具体的に知っているんだね。」

「……っ……」

「ふぅ。やっぱり、君と付き合っていたんだね」

「彼女はずっと否定していたよ」

「……それって、俺を試したんですか?」

「今、マヤは重要な時期でね。率直に言うけど、君、マヤの幸せを本当に願うなら、別れてくれないか」


優は、心の奥が一瞬で冷たくなるのを感じた。その冷たさの中で、ある種の覚悟が芽生えていた。


「もちろん、ただとは言わないよ。ここに手切れ金を300万円用意した」

「そんなもの、受け取れません。彼女のために、自分から別れます」



ある日の夜、マヤと優はいつも通り、優の自宅で会っていた。ここ最近は、周囲の目もある事から、自宅でのデートが多かった。


「優、今日は来るのが遅くなってごめんね。なかなか抜けられなくて」

「いや、それは全然良いよ。どうせ・・・」

「どうせ?」

「い、いや、何でもない」

「優、どうしたの?今日の優、何か変だよ?」


優は意を決して口に出した。


「マヤ、俺、他に好きな人ができた」


言った瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。それは、自分でも初めて感じる苦しさだった。


「え?何?何を言っているの?」

「冗談でしょ?優、まただまそうとして」

「冗談じゃないよ」

「え?何で?」

「ずっと悩んでたんだ」

「だってそんな事一言も…」

「言えるわけないだろ。そんな事。だから、別れてくれないか…今日で終わりにしよう」


嘘だった。彼女の未来を邪魔したくなかった。もちろんマヤの事務所からの圧力もあった。

──でもそれだけじゃない。マヤの重荷になりたくなかった。優はマヤの未来を願い、彼女を手放した。マヤは少しだけ、笑ったような顔をしていった。それは悲しみの中に微かな理解をにじませた、精一杯の強さだった。


「そっか…」


そして、静かに背を向け部屋を出て行った。



街中でサイレンが鳴り響く。閑静な住宅街から少し駅に近いところにあるその交差点。いつもなら静かな夜になるはずであった。けれど、様々な音が混在し、普段よりやけに騒がしい。単なる音だけでなく、人々の心が揺れ続ける、そんな騒がしさであった。

──優と別れた後、マヤは交差点で、事故に遭った。赤信号を渡ろうとしたそのときだった──その道は、ふたりが初めて会話を交わした場所だった。意識は戻らなかった。家族の想いも空しく、マヤはそのまま息を引き取った…。


──優は葬儀には行けなかった。



優は自分の夢を捨てた。脚本家・演出家を目指すのをやめた。幸せを支える人間になろうと、ブライダル業界へ転職した。


──幸せが、いつも隣を通り過ぎていく。


もちろん優は精一杯サポートするが、マヤの事もあり、いつも心が引き裂かれる思いをする。でも、それが、マヤへの──せめてもの償いだった。けれど、小説だけはやめられなかった。脚本じゃなければいい──誰かの想いを綴っているだけなんだと、そう言い聞かせた。


「叶わなかった誰かの結末を、幸せだったと言えるようにするために」


それが、優の書く理由になった。

ある日、ふと優は思い出した。まだマヤと幸せに付き合っていたころ、『もし、私がいなくなっても、私の物語を書いてくれる?』と言われた事を。

それから優は「マヤの物語」を書き溜めていった。夢を見てるんじゃなくて、これは、マヤの想いを綴ってるだけなんだと、心に言い聞かせて。


そして今年──マヤの13回忌の前日。優は、書き溜めていた『マヤの物語』を投稿し始めた。

もう、終わりにするために。それが、すべての始まりになるとも知らずに──。

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