第9話 困惑と解放
「まい。」
信じられない声が、
格子の向こうから静かに響いた。
闇を背負ったまま現れたのは――高成だった。
顔は相変わらず感情の薄い、冷たい仮面。戦の最中というのに、彼は甲冑を身につけず、紺の直垂を身にまとっている。
その手には、今しがた異形を切り捨てた、青白い刀身をした太刀が握られていた。
「生……田さ……ま?」
まいは動けなかった。
視界の端で、赤い血がゆっくりと広がり続ける。異形の亡骸は青い炎を上げながら灰となり、その血溜まりへと溶けていった。
名を呼びながらも、頭は何も理解していない。
――助かった。
その事実すら、まだ言葉にならない。
ただ、目の前に立つ男を、まいは呆然と見つめていた。
高成。
青い鬼火と、炎の光を受けて、彼の輪郭はどこか現実味を失っている。
刀身から滴る血を、彼は無造作に振り払った。異形のものか、人のものか――区別する気もない動作だった。
「……立てるか」
低い声が落ちる。
まいは返事をしようとして、喉が震えた。声にならない。
首を横に振ろうとしたが、それすら億劫で、ただ瞬きを繰り返す。
高成は一瞬だけ彼女を見下ろし、それ以上は何も言わなかった。
代わりに、腰から短刀を抜く。
金属が擦れる、乾いた音。
次の瞬間、鍵に刃が叩きつけられた。
一度、二度。火花が散り、鈍い衝撃が牢の中まで響く。
――がきん。
鍵が砕け、鎖が床に落ちた。
長いことまいを閉じ込めていた扉が、きしみを立てて開く。
「ここを出る」
命令だった。問いではない。
高成は手を差し出さない。
ただ、開いた扉を一瞥し、逃げ道があることを示すだけだ。
「え……?」
まいは、ようやく自分の身体を意識した。
やっと、やっと、この狭く怖かった檻から逃げられる。
立たなければならない。
そう思うのに、足に力が入らない。
膝が震え、土壁から離れようとすると、そのまま崩れ落ちそうになった。
恐怖が、まだ骨の中に絡みついている。
「……む、り……」
かすれた声が、床に落ちた。
高成は小さく舌打ちをした。
苛立ちではない。時間がないことへの判断だった。
遠くで、再び叫び声が上がる。
人のものか、異形のものか――もう、どうでもいい。
まいは高成に見捨てられるのではないかと震えた。彼は悩むようにまゆ根を寄せている。そして、
「……仕方ない」
一歩踏み込み、初めて牢の中に足を入れた。
その気配に、まいの肩がびくりと跳ねる。
(──怖い。)
助けにきたのに、わざわざ殺す理由がないのはわかっていた。しかし、無条件に体が反応する。
まいは、異形を見ていた時と同じ表情で、高成を見た。
高成がまいの前に片膝をつく。
(!?)
思わず目をきつく瞑る。
次の瞬間、強い腕が彼女の肩を掴んだ。
「――しっかりしろ」
低く、耳元で囁くような声。
冷たいはずの声なのに、掴む手には不思議と温かさがあった。
「……っ」
泣きたくなるような胸の痛みが、じんわりとまいの胸に落ちる。
生きている。
この人は、生きている。
それだけが、ぼんやりと理解できた。
この人なら、私を助けてくれる。
うっすらと目を開き、視点の定まらない中。高成の闇を纏ったような黒い瞳が、炎に揺らめくのが鮮明だった。
まいの意識を確認すると、高成の目線は部屋を囲み始める炎へと向かう。
火の手はどんどん迫り、室内の温度も上昇していく。座敷牢が崩れ落ちるまで、あと数刻も持たないだろう。
鋭い声でまいに命令する。
「時間がない。立て!」
そう告げると同時に、高成は彼女の両脇に手を差し込み抱え上げた。拒否する余裕もなく、まいの身体は宙に浮く。
腕の力は迷いがなく、乱暴ですらあった。
――この人は、なぜ私を助けるの。
まいは疑問だった。
高成には、景綱とは違う、別の目的がある。
景綱の思惑はどうであれ、南雲としての目的はわかっている。しかし、高成の目的とはなんだ。
景綱と違い、高成は得体がしれない。
その事実が、なぜかひどく怖かった。
この手を離された時、自分はどうなるのだろう。
(信用してはだめ。でも、今はこの人を頼るしかない)
震える足を必死に踏ん張って立ち上がる。
それを高成は一瞬の目配せで確認すると、手を離した。
そして、
まいに向かって、手を差し伸べる。
「ついて来い。」
炎の赤が彼の横顔を照らす。
その横顔は人間離れした美しさで、
恐ろしいほど瞳は凪いでいる。
反対に、まいの胸は、行く先のわからない恐怖で潰れそうだった。
でも――
ここで死にたくない。
だから。
まいは震える手で、高成の手を掴む。
「はい……!」
決意を決めたまいを見て、高成は目を細め、ほんのわずかだけ頷いた。勢いよく手が引かれる。
炎と怒号の渦巻く夜へ、
二人は駆け出した。
この瞬間から――
まいの運命は大きく、
そして取り返しのつかないほど動き始める。
泣きはらした目の腫れ、恐怖で震える指先、そして困惑───
その全てを、飲み込むように。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯
座敷牢を出た瞬間、先程よりも強い熱気が肌を刺した。
廊下はすでに炎に呑まれ、梁が爆ぜる音が闇に響いている。
足元に転がるのは、城の侍たちの亡骸。
血と煤の匂いが混じり合い、息を吸うだけで喉が焼ける。その中を、高成に手を引かれ走っていく。
(熱い!目が開けられない……!)
高成は迷いなく障害物の間を避けていくが、その速さについていくのに必死だった。それに加え、目を開けば中の水分が蒸発してしまいそうだ。目をこらし、限られた視界の中を進む。
――ぐちゃり。
「あ……」
前方に再び不快な音。まいの足が止まる。
「何をしている!」
高成の怒号が飛ぶが、足がすくんで踏み出せない。
見てはいけないとわかっていても、音の方へ視線を上げたまいは、声を失った。
天井に、人間の足を咥えた異形。
先程の異形と同じように、人の形を残しながらも、口は耳まで裂け、濁った眼が炎を映してぎらついている。
しかし、その異形は、長い髪に、見慣れた小袖を身にまとっていた。
食事を運んできていた女中と、その姿が重なる。
「……っ」
足が、動かない。
恐怖が身体の奥まで絡みつき、思考を奪っていく。
「いや…、」
その手を、高成が強く掴んだ。
「見るな。走れ」
低く、命令するような声。
次の瞬間、高成の刀が閃いた。
異形の首が宙を舞い、炎の中へ消える。
それでも廊下の奥から、別の影が蠢いていた。
「ちっ……」
高成は苛立ったように口の端を歪める。
乱暴にまいの手を引き、半ば引きずるように走り出す。
迫る異形を次々と斬り伏せながら、階段へと向かう。
炎が背後でうねり、城が悲鳴を上げて崩れ始める。
まいの視界は涙と煙で滲み、それでも――
握られたその手の熱だけが、確かだった。
素足のまいを庇って時々抱えられながら、やっと階段の前にたどり着く。
ここが何階なのかはわからないが、まいには暗闇がぽっかりと口を開けて待っているかのように思えた。
まいの足が止まる。
「……どうして、助けるんですか」
問えば、ほんの一瞬だけ視線が向けられる。
「聞くな。目的のためだと言ったはずだ」
それ以上は言わない。
いつもの高成に戻ったような、冷静な声。
けれど、炎に天井の梁が崩れ落ちる瞬間──
高成は、反射的ともいえる速さでまいを背に庇った。
その動きが、迷いなく自然で、
“目的”という言葉では片付けられない気がした。
まいは体勢を崩し、尻もちをつく。
梁は幸い階段にはかからず、2人の行く手を阻みはしなかった。
「止まるな。ここにいれば殺される」
高成は背を向け、まいが立ち上がるのを確認するまで動かない。
急かさない。触れもしない。
ただ、出口へと続く闇の縁で、まいの覚悟が再び決まるまで待ってくれているかのようだった。
まいはふらつきながら立ち上がり、
震える足でその背に続いた。
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