第8話 異形の夜

その夜――

まいは人が殺される音で気配で目を覚ました。


最近の変わったことといえば、景綱が来なくなったことと、再び高成の訪問があることだけ。


何の変化もない、だが、余計な恐怖に脅かされることのない日が、今日も過ぎるのだと思っていた。


それなのに──。


焦げた匂い。

遠くで何かが倒れる音。

人の叫び声。


「……火?」


次の瞬間、

廊下が激しく揺れ、怒号が近づいた。


「妖だ! 城門を固めろ!!」

「玄道殿を呼べ!女は逃がすな!」


乱れ飛ぶ声に、まいの背中がぞくりと震えた。


逃がすな。

自分のことだ。


格子の、長そうな廊下の先で、侍達が甲冑を纏って走り回る音が聞こえる。


建物に火が落ちたのか、座敷牢の小窓からは赤い光が漏れ出ていた。


さらに、窓からは遠くに女の叫び声のような、それでいて、人の声とも言い難い甲高い声。


(何がおきてるの…!?)


鼓動が早鐘を打つ。


室内には薄暗いが、すでに煙が充満しているのがわかった。


状況を知るには耳を傾けるしかないのに、鼓動の音が邪魔をする。


(誰か……!)


肝心の見張り達は逃がすなとの命令があるにも関わらず、なかなか姿を見せない。


それどころか、廊下の先からも人の叫び声が聞こえるようになってきた。


「ひぎゃっ!」「来るな!ぐぁっ……」


叫びは……耳を塞ぎたくなるような、果実を握りつぶすような不快な音と共に聞こえた。



──何かが来ている。


煙で暑いのに、まいの体は冷水を浴びたように凍る。


「に、逃げなきゃ……」


オロオロとまいが逃げるため立ち上がると、途端に爆発音のような大きな音がした。

廊下にも火の足が及ぶ。


(炎が……っ)


咳き込みながら、炎の明かりを頼りに、格子のどこかから抜ける道がないか探す。

鍵の鎖の緩み、扉の蝶番のサビ、どこか、どこかに綻びはないだろうか。

格子の隙間から頭を出そうともしてみたが、当然通るわけがない。

まいは焦る。


「嫌……いやだ、死にたくない、出して!誰か!出してぇ!!」


半狂乱だった。

まいは固い格子を拳で叩く。


……殺されるのだろうとは思っていた。

景綱が言ったように、まるで家畜の繁殖のように子を産まされ、いずれは***何か***の贄として殺される。


だとしても。


自分がなぜ選ばれたのか、それすら知らぬまま死ぬのは嫌だった。


ヒビすら入る様子のない格子と、傷だらけの己の腕を見て、まいは崩れ落ちる。


「っ…うぅっ、やだ……怖い……怖いよ、弥助……っ」


あの日、自分を守って、生死もわからない幼なじみ。

その暖かい笑顔が脳裏によぎる。


帰りたい。あの、貧しくも穏やかだった日々に。


外の音が静かになる。

逃げれないのであれば、あとは息を殺すしかない。それなのに、涙と嗚咽はとめどなく溢れた。

(死にたくない、死にたくない……っ)


甲冑と具足を纏った者が走ってくる音が聞こえた。

やっと誰か来た。

見張りであろうと、命令でまいを守りに来たのには違いない。

まいは希望の入った目で音の先を見る。


しかし、


その音が、唐突に途切れた。


 ――ずぶり、と。

 湿った音と共に。


重い何かが、床に落ちる音がする。

それにつられ視線を落とす。何も、無い。が、ポタリと、一滴の赤い雫が落ちた。


「……?」


 顔を上げた瞬間、まいの喉から声にならない悲鳴が漏れた。


 灯りの届かぬ廊下の奥で、**人の形をした“何か”**が、侍を抱え込んでいた。

 いや、抱いているのではない。骨が砕ける音が、ゆっくりと、丁寧に鳴っている。


 侍の口が開き、助けを呼ぼうとして――

 次の瞬間、その首が、不自然な角度に折れた。


 まいの視界が揺れた。

 呼吸がうまくできない。耳鳴りがして、世界が遠のく。


「……ひ、っ……」


 異形は、ぎこちなく首を巡らせた。

 闇の中で、まいを見る。


男のようにも、女のようにも見える人型。

人の顔に似ている。だが目の位置が、わずかにずれている。

 口は裂けており、そこからボタボタと肉の混じった血が滴り、そこから声が零れ落ちた。


「……ああ……ここに……」


 その声は、底冷えするほど甘かった。


「姫様の………血………………」


 まいは後ずさり、土壁に背を打ちつけた。

 叫ぼうとしても、喉が張り付いて動かない。


 異形が、一歩、牢に近づく。

 格子の向こうから、黒ずんだ手が伸びてくる。


「……血を、血…お恵みを……」


(いや、来ないで、来ないで……来ないで!!)


怖い。怖いのに、目が閉じれない。

恐怖の絶頂に、視界が鈍くなる。


「いやぁぁぁ!!!」


異形の指先が、格子を越えようとした、その時――


「――触るな」


 低く、冷たい声が空気を切り裂いた。


 異形の動きが止まる。


 死んだ侍の心の臓あたりから、月明かりを反射したような、青白い刀身が突き出ている。


「あ……?」

異形は何が起こったかわからない様子で、己の胸元を見た。侍ごと、刀に貫かれている。


 次の瞬間、鋭い一閃。


 異形の胴体が、音もなくふたつに裂かれた。


 悲鳴とも呻きともつかぬ声を上げ、異形が崩れ落ちる。抱えられていた侍の体も床に叩きつけられ、首がちぎれて転がった。


侍の胴体から、赤い血が流れていく。

その広がりを放心のまま眺めながらも、まいは恐る恐る顔を上げた。


 血溜まりに立っていたのは――高成だった。

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