第6話 手の形と、言い直し

朝、共有キッチンの電気は白かった。


寮の部屋の白とは違う。

生活の白。誰が使ってもいい白。匂いが薄い白。


私はコップに水を注いで、ひと口飲んだ。冷たい。

義足の接続のところは、まだ少しだけ熱い。でも、昨日みたいに「やばい」じゃない。


舞は私の向かいで、湯気の出るマグを両手で包んでいた。

それを見て、舞はお茶派なんだな、と思う。

私は朝からコーヒーが欲しい日もあるけど、今日はお茶でいい。


舞がスマホを見せた。


『痛み、どうですか』


「昨日よりはマシ」


舞は頷く。

それから、私の手元を見る……と思ったら、見ない。視線がいったん私の口元に戻る。


舞は、自分の癖を直している。

ルールのせいだ。たぶん、私のせいでもある。


舞がスマホに打つ。


『今日は、ゆっくりで大丈夫です』

『無理は、しない』


最後の行だけ句読点がない。

舞の言葉が、日々の中で少しずつ砕けていくのが分かる。


私は「うん」と言って、頷いた。


そのとき、背中の方から声がした。


「すみませーん、ここ座っていいですか」


振り向いた。

車椅子の子がいた。たぶん同じ寮の人。髪が短くて、笑い方が軽い。


私は席を譲るでもなく、ただ「どうぞ」と言って端にずれた。

舞も少しだけ椅子を引く。動きが丁寧。


車椅子の子は、私と舞を見て、貼り紙の話を知ってるみたいな顔で笑った。


「ルールの部屋って、あなたたち?噂になってる」


私は一瞬だけ固まった。

噂。嫌いな単語。


舞が先にスマホを見せた。


『すみません』

『迷惑でしたか』


噂って言われただけで「迷惑」まで飛ぶの、舞らしい。

私は慌てて口を動かした。


「迷惑じゃない。勝手にルール作ってるだけ」


車椅子の子は笑って、手をひらひらした。


「いや、良い意味。あの寮ってさ、みんな遠慮しすぎるから。ルール化、助かる人多いと思う」


助かる人。

その言い方は、嫌じゃなかった。


舞が小さく頷いた。肩が少し下がる。


車椅子の子は名札みたいなカードを胸元にぶら下げていた。そこに「栞」と書いてある。


「私、栞。よろしくね」


私は「紬」と言って、舞の方を見る。

舞がスマホを見せる。


『舞と申します』

『よろしくお願いします』


まだ敬語。

栞はそれを気にしない顔をして、マグを持ち上げた。


「舞ちゃん、しゃべれないの?」


舞は頷いて、胸の前で指を動かした。

私は意味が分からない。形は丁寧。


舞はすぐスマホも見せた。


『声が出にくいです』

『手話と、文字を使います』


栞は「へえ」と言って、嬉しそうに頷いた。


「手話できるのすごい。私、覚えたいと思ってたけど続かなくてさ」


舞が一瞬だけ目を丸くした。

それから、スマホ。


『すごくないです』

『必要だから、覚えました』


必要だから。

それは強い。


栞は私の杖を見て、義足を見て、何も言わなかった。

視線の扱いがうまい。舞と同じ種類のうまさ。


「今日、10時からラウンジで避難訓練の説明あるよ。光と振動のやつ。忘れないでね」


私は「了解」と言いかけて、舞を見た。

舞は『了解』の手の形をして、にこっとした。

私はその形を真似しようとして、指が迷子になった。


舞が笑った。肩が揺れる。無音。


私は顔が熱くなって、わざと真面目に言った。


「舞、それ、教えて」


舞は一瞬だけ止まって、それからスマホ。


『……いいですか』

『迷惑ではないですか』


迷惑じゃない。

舞のこの確認癖は、たぶん傷の跡だ。


私は首を振った。


「迷惑じゃない。むしろ助かる」


舞は少しだけ目を細めて、頷いた。


栞が「じゃ、私先行くね」と言って、車椅子を回した。

去り際に小声で、「二人いい感じじゃん」と言って、笑って逃げた。


私は反射で「違う」と言いかけて、飲み込んだ。

違うのかどうか、まだよく分からない。


舞は栞の背中を見て、スマホを見せる。


『噂』

『嫌でしたか』


「嫌じゃない」


私はそう言ってから、少し考えて付け足した。


「噂されるのは嫌だけど、ルールが誰かの役に立つなら、まあいい」


舞は頷いた。

『まあいい』の口の形をしてみせて、私が笑う。


部屋に戻ると、舞は机の上の紙を一枚持ってきた。

ルールの紙じゃない。白紙。

そこに、ペンで大きく手の形が描いてある。


舞が自分の手を出して、ゆっくり形を作る。

親指と人差し指が動いて、胸の前で止まる。


舞は私を見て、同じ形を促す。


私は真似する。

指がつる。変な方向に曲がる。


舞が笑う。無音。

でも、笑いが優しい。


舞はスマホを見せた。


『これは』

『ありがとう』

『でも、地域で少し違います』


地域差。

手話にも方言があるんだ。


私はもう一回真似して、舞の顔を見る。

舞が頷く。


舞は次の形も見せる。

短く、分かりやすいもの。


『了解』

『大丈夫』

『待って』

『もう一回』


最後の『もう一回』が、ちょっと刺さった。


私は今まで、分からないときでも「大丈夫」と言ってしまう。

その癖に、舞は気づいてるのかもしれない。


10時になって、私たちはラウンジへ行った。


人が集まっている。

車椅子の人、白杖の人、補聴器の人、義足の人。

それぞれの「困る前提」が、ここでは普通に並ぶ。


支援スタッフが前に立って、説明を始めた。

今日は透明マスクだった。もう用意してあるのが当たり前になってる。


「火災報知器は、音だけじゃなく、光と振動で知らせます。各部屋の枕元に振動端末があります」


説明の途中で、スタッフがスイッチを押した。


ラウンジの壁のランプが点滅する。

机の上の端末が小刻みに震える。


私の手のひらに、ぶるぶると伝わる。

音より先に、身体が「危険」を理解する。


舞は、その瞬間に目線を上げた。

点滅を見る。端末を見る。落ち着いている。


舞の世界は、こういうふうに情報が入るんだな、と思った。


私は舞の横顔を見た。

舞は私の口元じゃなく、壁の光を見ている。

でもその顔が、少しだけ苦しそうだった。


怖いのは音じゃない。

“見逃すこと”だ。


説明が終わったあと、舞はスマホを見せた。


『光は分かります』

『でも、混乱すると見落とします』

『だから、ルールがあると安心です』


ルール。

舞にとってそれは、安心の形。


部屋に戻る途中、舞が急に立ち止まった。

廊下の掲示板の前。


そこに「避難手順」が貼ってあった。

ピクトグラム。大きい字。


舞はそれをスマホで撮って、拡大して、じっと見る。

その姿が真剣すぎて、私は声をかけにくい。


でも、背中向けて話さない。

私は舞の横に回って、口を動かした。


「舞、見落とすの怖い?」


舞は私を見て、少しだけ迷って、頷いた。

そしてスマホ。


『怖いです』

『忘れます』

『私の頭は、時々』


最後の行が途切れている。

舞の「時々」は、説明しきれないものだ。


私は喉の奥がきゅっとなって、変なことを言いそうになった。

励ますとか、慰めるとか、簡単にやると嘘になる。


だから、私は別のことを言った。


「じゃあ、ルール追加しよ」


舞の目が少しだけ大きくなる。


部屋に戻って、私たちは貼り紙の前に立った。

ルールが並んでる。透明マスク。文字起こし。痛いときは休む。写真は確認してから。


私はペンを取って、書いた。


「分からないときは、言い直す」

「分かったふり、しない」

「もう一回、って言っていい」


舞がそれを見て、ゆっくり頷いた。

スマホ。


『嬉しいです』


句読点がない。

舞の「嬉しい」は、増えている。


舞はペンを取って、小さな絵を足した。

耳の絵じゃない。目の絵でもない。


手の絵。


『もう一回』の手の形。

それが、貼り紙に増えた。


私はその絵を見て、少しだけ笑った。


「舞、絵が上手いのずるい」


舞が無音で笑う。肩が揺れる。

それから、スマホ。


『ずるくないです』

『練習しました』


練習。


舞が机の引き出しを開けて、紙束を出した。

そこに、手の絵がたくさん描いてあった。

同じ形が、何枚も。何回も。


反復。


私は一瞬だけ、背中が冷たくなった。


舞はそれに気づいたみたいに、すぐスマホを見せた。


『すみません』

『気持ち悪いですか』


気持ち悪い。

その単語が出るのが、舞らしい。先に自分を責める。


私は首を振った。


「気持ち悪くない。ただ、すごい」


舞は目を伏せた。

それから、少しだけ砕けた顔で、スマホ。


『忘れたくないので』

『形で残します』


形で残す。

保存。


私は、その言葉の重さを胸の中で一回受け止めてから、言った。


「私も、覚えるよ。ゆっくりでいいから教えて」


舞の顔が、ほんの少しだけ明るくなる。

敬語が出そうで出ない、境目みたいな顔。


舞は手を出して、『もう一回』の形を作った。

私は真似して、今度は少しだけ上手くできた。


舞が頷く。

そして、スマホに短く打つ。


『うん』


一文字だけ。

敬語じゃない。


それが、今日いちばん効いた。


窓の外では、どこかで人が笑っている。

聞こえる笑いじゃなくて、見える笑い。遠い動き。


私は貼り紙の手の絵を見て、息を吐いた。


ルールが増える。

言い直しが増える。

分かったふりが減る。


怖いものは、たぶん減っていく。


そう信じられる日が、少しずつ増えていく。

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