第5話 窓の外の音

朝、痛みがゼロになったわけじゃない。

でも「やばい」から「いけるかも」には変わっていた。


義足の接続のあたりを指で押す。じん、とする。

昨日貼った絆創膏は、きれいに当たっている。舞の“位置”のおかげ。


私はベッドの上で、少しだけ足をぶらぶらさせた。


歩ける。

でも、今日は無理したくない。


無理しない。って、たぶん私の人生で一番難しい。

でも昨日、ルールにした。貼り紙にした。絵までついた。

逃げ道が減ったぶん、守れる気がする。


カーテンの向こうで、舞が起きる気配がした。

紙をめくる音じゃない。衣擦れ。引き出しの音。

舞はたぶん、授業の日だ。


私はカーテンを少し開けて、正面に回る。ルール。


「おはよう」


舞は私の口元を見て、頷いた。

スマホ。


『おはようございます。』

『足、どうですか』


舞の朝は、そこから始まる。


「昨日よりは、マシ」


舞が少し笑った。

音はないけど、目の形が柔らかい。


『今日は、行けそうですか』

『無理なら、休みましょう』


休みましょう、って言えるのがすごい。

舞は“休む”を否定しない。


私は少し考えて、言った。


「午前だけ行く。午後は戻る」


舞はすぐ頷いた。

『了解』を手でも言った。私はもう、なんとなく分かる。


『帰り、迎えに行きますか』

舞のスマホに、そう出て、私は一瞬だけ固まった。


迎え。

普通の言葉なのに、胸の奥が少し熱くなる。


私は首を振った。


「大丈夫。ゆっくり戻る」


舞は頷いて、それからスマホ。


『困ったら、連絡してください』

『一人にしません』


句読点が少ない。

舞の言葉が、また少し近い。


私は、ちゃんと口を動かして言った。


「……ありがとう」


舞は目を細めた。

そして、いつもの敬語に戻るみたいに、スマホ。


『いってらっしゃいませ』


それが面白くて、私は笑った。


「舞、接客向いてる」


舞は肩を揺らした。無音の笑い。

それから、鞄を持った。


私はその背中に声をかけそうになって、思い出して止まる。

背中向けて話さない。ルール。


私は舞の前に回って言った。


「いってらっしゃい」


舞は頷いた。

『いってきます』を口の形で作る。声はない。


ドアが閉まる。

部屋が静かになる。


昨日はこの静けさが、少し怖かった。

今日は、怖くない。


貼り紙がある。

“休む”がある。

舞の「一人にしません」も、たぶんどこかに残っている。


私は支度をした。

義足のベルトを少し緩める。痛むところに余裕を作る。

杖を握る。

透明マスクを鞄に入れる。スマホの文字起こしアプリも確認する。


玄関で鍵を持ったとき、また思った。


軽い。


この鍵の軽さに、私はまだ慣れない。

鍵が軽いのに、出ていくのは重い。

でも、今日は昨日より軽い。


大学までの道を、いつもよりゆっくり歩いた。

段差の少ないルート。信号の音が鳴る場所。

風が冷たくて、頬が少し痛い。冬の匂い。


キャンパスに入ると、人の声が増える。

話し声、笑い声、靴音。

私はその中で、自分の歩く音を意識した。

義足の硬い音。杖の先の音。

昨日よりは控えめだけど、消えない。


教室に入る。

先生は透明マスクだった。舞の報告どおり。

少しだけ、世界がまともになる。


授業は集中できた。

でも途中から、接続のあたりがまた熱くなる。

皮膚が薄く擦れて、熱が溜まる。


私はノートを閉じた。

諦めるのが早い、って昔なら思った。

でも今は、ルールがある。


痛いときは休む。


私は欠席じゃなく、途中退室という形にした。

廊下に出て、壁にもたれて呼吸を整える。


そのとき、窓の外から音がした。


ドン。


何かが落ちたみたいな音。

続いて、バタバタと走る音。笑い声。

体育の授業か、部活か。


私は窓の外を見た。

グラウンドで、誰かが転んで笑っている。

みんな、痛くても笑うんだな、と思った。

私も昔、そうだった気がする。


突然、スマホが震えた。


舞からだ。


『今どこですか』

『帰り道、寒いです』

『足、無理してませんか』


私は画面を見て、少しだけ眉を寄せた。


舞、監視してる?

いや、違う。


舞は「見えない」ぶん、確認する。

怖いものを減らすために。


私は短く返した。


『今、大学の廊下』

『痛いから帰る』

『大丈夫』


送信して、私は息を吐いた。


大丈夫、って言葉は便利で、ずるい。

でも舞は、たぶん「大丈夫」を信用しない。


すぐ返事が来た。


『迎えに行きます』

『校門で待っててください』

『嫌なら、言ってください』


嫌なら言って。

その一行があるから、私は断れなくなる。


私は打った。


『嫌じゃない』

『でも、無理しないで』

『授業あるでしょ』


舞からの返事は早かった。


『午前、終わりました』

『今から行けます』

『行きたいです』


行きたい。


舞の言葉が、また少し直になっている。

私はそのまま画面を見て、笑ってしまった。


私は校門に向かって、ゆっくり歩いた。

途中、ベンチに座って足を休める。

冷たい風がスカートの裾を揺らす。


校門の前は、人の流れが多い。

新入生が写真を撮ってる。友達ができた子たちが笑ってる。

その中で、私は少しだけ浮く。

杖。義足。歩く速度。


でも今日は、浮いてもいい。


しばらくして、舞が来た。


舞は遠くからでも分かった。

歩き方が静か。周りの音に流されない歩き方。

目線が、私を探してまっすぐ来る。


私を見つけた瞬間、舞の肩が少し下がった。

安心の形。


舞はスマホを見せる。


『待たせました』

『寒くないですか』


「大丈夫」


言いそうになって、私は止めた。


「ちょっと寒い」


舞が頷いて、鞄から小さいカイロを出した。

それを、私の手のひらに置く。

触れ方が丁寧。昨日の“同意”のルールが、もう舞の中にある。


舞はスマホ。


『これ』

『持っててください』


私はカイロを握って、頷いた。


「ありがとう」


舞は小さく笑った。

そして、少しだけ口の形で「うん」を作った。

声はない。けど、さっきより近い。


帰り道は、行きより静かだった。

舞が私の横を歩く。少しだけ前じゃなく、少しだけ後ろじゃなく。

同じ速度。

私の口元が見える位置。


私は歩きながら、ふと思った。


舞は、外の音がほとんど聞こえない。

でも、今、舞は私の歩く音を聞いている気がする。

音じゃなく、振動とか、空気とか、そういうので。


私は舞の顔を横目で見た。


舞は私の口元じゃなく、目を見ていた。

外でそれをするのは難しいのに。

マスクをしている人が多いのに。

舞は、目だけで読もうとしている。


その目線が、少しだけ怖い。


優しいのに、執念がある。


私がそう感じてしまって、胸がきゅっとなる。


舞はスマホを出した。


『今日、窓の外がきれいでした』

『人が、笑ってました』


舞が“音じゃないもの”を拾っている。

私はその文を読んで、少しだけ安心した。


「舞も、見るんだね」


舞は頷く。


『見るしかないです』

『だから、いっぱい見ます』


いっぱい見ます。


それは、宣言みたいだった。

怖いのに、嫌じゃない。


寮の入口まで来ると、消毒とワックスの匂いが戻ってくる。

舞はエレベーターの前で立ち止まって、私の足元を見た。

そして、すぐに私の顔を見る。


『痛み、増えましたか』


「少し。でも、帰ってきたから大丈夫」


舞は頷いて、スマホ。


『帰ってきたら』

『休みましょう』


また“休む”。


私は笑ってしまう。


「舞、ほんと休ませる」


舞は肩を揺らして、無音で笑った。


『休めるの、好きです』

『休めると、安心します』


舞の「好き」は、生活のことに向いている。

でも、それが私にはちょうどいい。


部屋に戻ると、貼り紙が目に入る。

ルール。透明マスク。ベンチ。スマホOK。痛いときは休む。


私はベッドに腰を下ろして、義足のベルトを緩めた。

痛みがふっと軽くなる。


舞は机に座って、スケッチブックを開いた。


開いた瞬間、私は少しだけ身構えた。

舞が描く時間。舞の目が深くなる時間。


でも舞は、すぐに描かない。

まず、スマホ。


『今日』

『紬さんの歩く速さ』

『良かったです』


私は顔を上げた。


「良かったって、何が」


舞は少しだけ迷って、それからスマホを見せた。


『無理してない速さ』

『こわくない速さ』


こわくない速さ。


私はその言葉を読んで、胸の奥が温かくなる。

でも同時に、少しだけ痛い。


舞の“怖さ”は、外の世界の怖さじゃなくて、失う怖さだ。


私は小さく息を吐いて、言った。


「……じゃあ、これからも、その速さにする」


舞が顔を上げた。

目が少しだけ大きくなる。


そして、ゆっくり笑う。

音のない笑い。


舞はペンを取って、スケッチブックに線を引き始めた。

柔らかい線。可愛い線。

でも、その線の端っこに、少しだけ執念が見える。


私はそれを見て、目を逸らさなかった。


怖いのに、目が離せない。


窓の外の音は、遠い。

でもこの部屋の中では、私の心臓の音だけが、やけにうるさい。

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