第4話 休む日のルール

朝、目が覚めた瞬間に分かった。


今日、歩くとやばい。


義足の接続のあたりが、じん、と熱を持っている。昨日は絆創膏で誤魔化せたけど、今は皮膚が「もうやめて」って言ってる感じ。


私はベッドの上で、天井を見た。


白い。何もない。

でも、視界の端には貼り紙がある。


「ルール」


透明マスクの絵。

ベンチの絵。

そして昨日追加した、「痛いときは休む」。


休む。

簡単なはずなのに、難しい。


カーテンの向こうから、紙をめくる音がする。さらさら。


舞は、今日も起きてる。


私は杖に手を伸ばしかけて、やめた。起き上がる前に、一回だけ確認する。


……本当に痛い?


痛い。うん。痛い。


私はカーテンを少し開けて、舞の正面に回った。ルール。


「おはよう」


舞は私の口元を見て、頷く。補聴器はついてる。

スマホが出てくる。


『おはようございます。』

『足は、大丈夫ですか』


いきなりそこ。


昨日、私が擦れたのを舞は見ていた。

見て、覚えてる。


私は笑いそうになって、笑えなかった。


「……今日、ちょっと痛い」


舞の目が、ほんの少しだけ鋭くなる。怒ってるわけじゃない。心配の形。


舞はスマホを打って、見せた。


『休む、ですね』

『昨日のルールです』


昨日のルール。

舞が言うと、言い訳じゃなくなる。


私は、息を吐いて頷いた。


「うん。休む」


言った瞬間、負けたみたいな気持ちになる。

でも同時に、勝った気持ちもある。


休むって、自分に勝つことでもある。


舞は小さく頷いて、それから机の上のスケッチブックを閉じた。

閉じたのに、持ち上げない。今日は描く気分じゃないのかもしれない。


舞はスマホを見せる。


『授業、欠席連絡しますか』

『必要なら、私が一緒に行きます』


一緒に行く、って、どこまで。

教室まで? 保健室まで? 事務室まで?


舞の『一緒』は、距離が正確だ。勝手に踏み込まない。


私は少し考えて、スマホを出した。


『欠席連絡はする』

『でも、舞は授業行って』

『私は、部屋で休む』


舞が眉を少しだけ寄せる。

それから、スマホ。


『一人、嫌ですか』


嫌じゃない。

でも、嫌だ。


私は答えを言葉にするのが遅れて、舞の目を見た。


舞はずっと、私の口元じゃなく目を見ていた。


私は、短く言った。


「……ちょっと、嫌」


舞はその一言を受け取って、頷いた。


『分かりました』

『昼、戻ります』

『水と、氷、ありますか』


氷。

腫れを冷やすためだと分かる。そういうの、舞は知ってる。


私は冷蔵庫の中を思い出す。共有キッチン。昨日見た。

氷は製氷機があった。水もある。


「ある」


舞は『了解』って手でも言った。私はまだ完璧には分からないけど、今日は分かる。


私は欠席連絡をスマホで作って、大学のポータルに送った。

文章が固くなる。「体調不良のため」って書くと、嘘じゃないけど、ほんとの理由が消える。


“義足が擦れて痛いので休みます”って、ちゃんと書いていいはずなのに。

まだ、そこまでの勇気はない。


送信して、私はベッドに戻った。


舞は支度を始めた。静か。音が少ない。

けど、時々私の方を見る。確認みたいに。


私は自分の足を触って、絆創膏を剥がした。赤い。少し湿っている。

痛みって、こういう色なんだ、って思う。


私は新しい絆創膏を貼ろうとして、手が止まった。


位置が分からない。昨日は適当に貼って、たまたま良かっただけ。

今日はたぶん、適当だと負ける。


そのとき、舞が近づいてきた。


舞は私の手元を見ない。

まず私の顔を見る。スマホを出す。


『手伝いますか』

『見せてください』


私は一瞬だけ迷って、頷いた。


舞はしゃがんだ。視線が私の足元に落ちる。

でも、触らない。勝手に触れない。昨日のルールより前から、舞はそういう人だ。


舞はスマホをもう一度見せた。


『ここ、赤いです』

『昨日の位置、写真あります』


写真。


私は反射で顔を上げた。


「撮ったの?」


舞の目が、少しだけ揺れる。

やばい、って顔。怒られると思った顔。


舞はすぐにスマホを打った。


『ごめんなさい』

『勝手に、残しました』

『でも、見せます』

『直すためです』


私は、変な息を吐いた。


怒りじゃない。びっくり。

それから、少しだけ、怖い。


“保存”。


昨日までなら、私の頭の中にない単語だった。

でも今は、貼り紙にも、舞の絵にも、どこかに影がある。


舞がスマホの画面を見せた。

そこには、私の義足の接続のあたりの写真。近い。ほんとに近い。

でも、写っているのは“痛い場所”だけだった。顔も、部屋も、何もない。


そして写真の上に、舞の指が動く。

拡大して、赤い部分を指で囲うみたいにして、位置を示す。


『ここに当たると、痛い』

『こっちにずらすと、楽』


私はその画面を見て、胸の奥がきゅっとなる。


怖さが、少しだけ薄まる。

目的が、はっきりしているから。


「……分かった。助かる」


舞の肩が、ほんの少し下がる。

それから、スマホ。


『次から、撮っていいか聞きます』

『すみません』


敬語が、ちゃんと“謝罪”に戻る。

舞はルールを守りたい人だ。守れなかったとき、ちゃんと直したい人だ。


私は頷いた。


「次から聞いて」


舞は『はい』と頷いて、それから、ほんの少しだけ口の形で「ありがとう」を作った。音はない。


舞の指示通りに絆創膏を貼る。

位置が合うと、痛みが少し減る。すぐ分かる。


舞は立ち上がって、鞄を持った。

出かける前に、貼り紙の前に立つ。


舞はペンを取って、貼り紙の端に小さく追加した。


「写真は確認してから」


文字じゃなくて、絵だった。

スマホの四角。そこに丸。OKの印。


私はそれを見て、笑ってしまった。


「ルール、増えるね」


舞はスマホを出す。


『怖いもの、減ります』


昨日、私が言ったみたいに。

舞は、覚えている。


玄関まで見送ると、舞は最後にスマホを見せた。


『昼に戻ります』

『メッセージ、ください』

『痛かったら、すぐ』


「うん」


ドアが閉まる。廊下の音。遠ざかる足音。

部屋が静かになる。


静かなのに、寂しくない。

昨日のルールのせいかもしれない。舞の絵のせいかもしれない。どっちでもいい。


私はベッドに戻って、しばらく天井を見た。


“休む”って、こういうことだ。

何もしない。

でも、何もしないのって、すごく疲れる。


少しうとうとしたあと、スマホが震えた。


舞からだ。


『授業、先生がまた透明マスクでした』

『今日は、黒板が多いです』

『文字起こし、使ってます』


私は「えらい」と打ちそうになって、やめた。

舞は“えらい”が欲しいわけじゃない。


私は短く返した。


『ありがとう』

『気をつけて』


送信して、私は枕に顔を埋めた。


……舞、ちゃんと報告してくるんだ。

一人の時間にしてくれてるのに、孤独にしないやつ。


昼前、寮の内線が鳴った。

支援スタッフから、「体調大丈夫?必要なら看護師呼ぶよ」とゆっくりした声。


私は「大丈夫です」と言って、でも一つだけ聞いた。


「氷って、どこで貰えますか」


すぐ教えてくれた。

それだけで、今日は勝ちだと思った。


舞が戻ってきたのは、昼過ぎだった。

ドアが開く音。舞の足音。静かな匂いが一緒に入ってくる。


舞は買い物袋を持っていた。水。ゼリー飲料。柔らかいクッション材みたいなもの。あと、透明マスクが二枚。


舞はスマホを見せる。


『栄養、取れますか』

『痛い日は、噛まなくていいもの』


私は袋を覗いて、ちょっと笑った。


「舞、準備良すぎ」


舞は一瞬だけ目を逸らして、それからスマホ。


『怖いのが、嫌です』

『痛いの、もっと嫌です』


句読点が少ない。

舞の言葉が、少しだけ直になっている。


私は椅子に座って、舞の顔を見た。


「ありがとう」


舞は小さく頷いて、ゼリー飲料を差し出した。

私はそれを受け取って、飲んだ。甘い。冷たい。


舞は机の上にスケッチブックを置いた。

開かない。今日は描かないんだと思った。


でも、舞はペンを取って、貼り紙の横に小さな紙を追加した。

新しい「ルール」用紙。


そこに、短く書く。


『痛い日は、食べる』

『痛い日は、休む』

『写真は、聞く』


そして最後に、丸い顔。笑ってるやつ。


私はそれを見て、胸が少しだけ温かくなる。


「ルール、かわいいね」


舞がスマホを見せた。


『かわいくすると』

『怖くないです』


私は頷いた。

たぶん、そう。


窓の外は明るい。午後の光が机を白くする。

舞はその光の中で、私の足元じゃなく、私の顔を見た。


『痛み、減りましたか』


「うん。さっきより」


舞の肩が、ほんの少しだけ下がる。

それから、スマホを出す。


『良かった』


一言だけ。敬語なし。

それが、今日いちばんの救急箱みたいに効いた。


私はベッドに戻って、目を閉じた。


休む日のルールは、まだ下手だ。

でも、下手でもいい。


ルールが増える。

怖いものが減る。


私は、そういうふうに生きていけるのかもしれない。

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