第3話 透明マスク

朝、カーテンの向こうから、紙をめくる音がした。


さらさら。

昨日より少しだけ、近い音。


私はベッドの端に座って、義足のベルトを締め直す。

まだ痛みは残っているけど、昨日みたいな赤さはない。絆創膏も剥がれていない。


机の横の貼り紙が増えていた。


「撮る前に聞く」

「描く前に聞く」

「嫌な日は『今日はだめ』」

「大事な話は正面」

「背中向けて話さない」


舞が端っこに、ちいさく丸で囲った絵を描いている。

『聞く』って文字の横に、スマホの絵。

そのスマホが、私の方を向いている。


舞はスケッチブックを閉じて、膝に乗せたまま、スマホを見せた。


『今日』

『大学』

『一緒に行きますか』


舞の質問は、いつも丁寧だ。

でも、今日は言葉が短い。たぶん緊張してる。


「行く。…隣でいい?」


舞が頷く。小さく。

それから、またスマホ。


『部屋』

『マスク』

『外してほしいです』


いきなり核心。


私は一瞬、言葉に詰まった。

私だって、外したい。

でも、外すのが怖い瞬間もある。顔が見られるのが嫌な日だってある。


舞は私の口元を見て、待っている。


私はゆっくり口を動かした。


「分かった。部屋では外す。…ただ、無理な日は『今日はだめ』って言う」


舞の目が少しだけ丸くなる。

それから、頷いた。


『はい』

『言ってください』


言ってください。


その言葉が、少しだけ胸を軽くした。

“言っていい”って、許可みたいに聞こえたから。


玄関を出ると、冬の匂いがした。

冷たくて、乾いている匂い。

寮の廊下の消毒みたいな匂いとは違う。


舞は私の歩幅に合わせて歩く。

合わせてるのが分かるくらい、少しだけ遅い。


駅までの道で、舞はずっと周りを見ていた。

音じゃなくて、動き。

自転車の影。車の揺れ。人の口元。


私はその目線が、怖いのに、頼もしいとも思った。

舞は世界を、目で受け取っている。


大学に着くと、人が多い。

笑い声。呼び声。マスクの白い面。


舞の肩が少しだけ上がる。

見落としたくないから、身体が固くなる。


私は舞の視界に入るように、少し前を歩いた。

でも、すぐに気づく。


これ、私が“先回り”してる。


私は歩幅を戻して、舞と並んだ。


「どっちがいい?私の後ろ?横?」


舞はスマホを見せた。


『横』


「了解」


私が勝手に決めない。

昨日作ったルールを、ここで守る。


教室の前で、舞が止まった。

ドアの向こうから、先生の声が聞こえる。私は聞こえる。舞は聞こえない。


舞がスマホを見せた。


『口』

『見える?』


私はドアの小窓から覗いた。

先生は普通のマスクだった。白い。


私は舞を見て、息を吸った。

昨日のオリエンと同じ。繰り返したら、舞は落ちる。


私はメモ帳を取り出して、短く書いた。


「難聴です。透明マスクで話してもらえますか」


舞に見せると、舞が頷いた。

“それでいい”の頷き。


私はドアをノックして、教室に入った。


先生の視線がこちらに来る。

みんなの視線も、少しだけ来る。


私は笑わなかった。誤魔化さなかった。

舞のために目立つのは、別にいい。


「すみません」


私は口を大きく動かして、先生にメモを渡した。


先生は一瞬固まって、メモを読んで、頷いた。


「えっと…わかった。透明マスク、今日は用意がないけど、次から対応する。今は…前の席でいい?それと、文字起こしアプリ使ってもいいよ」


私はその言葉を舞に伝えた。

舞はすぐに頷いて、前の席に座った。


舞がスマホを見せた。


『ありがとう』


私は頷いて、だけど言い足した。


「私が言っただけ。舞が言えないわけじゃない」


舞が一瞬、目を細めた。

それから、スマホ。


『言えます』

『でも』

『助かります』


助かります。


昨日の「決まる」とは違う。

これは、ちゃんと選んだ言葉だ。


授業が始まる。


先生の声は、マスクの布で少しこもる。

舞のスマホの文字起こしは、ところどころ変な単語になる。


私はノートを取る。

舞は画面を見て、たまに私のノートを見る。


舞の視線が、私の口元に来る瞬間がある。

でも、授業中の私はマスクをしている。


舞の目が、少しだけ困る。


私は小声で言った。口元を見せたくて、少し横を向く。


「ごめん。授業中は外せない」


舞は頷いた。

理解の頷き。

でも“困る”は残る。


私はノートの端に、短いメモを書いて舞に見せた。


「わからないとき、指でトントンして。ここ」


私は自分の机を指した。

舞が頷く。


舞の指が、机を二回、軽く叩いた。

合図みたいに。


授業の途中、私の義足の付け根がじわっと痛んだ。

擦れている感じ。熱が出る前の痛み。


私は姿勢を変えた。

変えた瞬間、痛みが強くなる。


息が止まる。


舞が気づいた。

私の顔の筋肉の動きを見た。

すぐにスマホ。


『痛い?』


私は頷きかけて、止めた。

“大丈夫”って言うと、舞は引き下がる。

でも引き下がってほしくないときがある。私の都合で。


私は正直に書いた。舞のスマホメモに打って見せる。


『痛い』

『少し休めば平気』

『今は聞いてくれてありがとう』


舞の肩が少しだけ下がった。

舞も緊張していたのが分かる。


舞がスマホを見せた。


『休める場所』

『知ってます』

『行きますか』


私は一瞬、断ろうとした。

私が迷惑をかけるのが嫌だ。

でも、その嫌さが私のプライドだってことも分かっている。


私は頷いた。


「行く」


舞が立ち上がろうとして、止まった。

舞は私の顔を見る。私の口元を見る。

それからスマホ。


『触っていい?』


聞いた。


私は頷いた。


「いい」


舞は私の肘に、指先だけを軽く添えた。

支えるというより、ここにいる合図。

それが、ちょうどよかった。


廊下の端の休憩スペースに座る。

ベンチ。自販機。窓の光。

舞は私の横に座って、私の足元を見た。


見る。

でも、昨日みたいな“測る目”じゃない。


舞はスマホを見せた。


『絆創膏』

『あります』

『要りますか』


私は首を振った。


「ある。自分で貼る」


舞は頷く。

変に踏み込まない。そこが舞の賢さだ。


私はトイレの個室に入って、手早く手当てをする。

接続部に新しい絆創膏。

ベルトの位置を一個ずらす。


戻ると、舞がベンチに座って、スケッチブックを開いていた。


舞の鉛筆が動いている。

紙の上に、ベンチと窓と、私の杖の影。


私は胸の奥が少しだけざわついた。


舞が、私の痛みを、線にする。

怖いのに、安心する。


舞がスマホを見せた。


『描いていいですか』


聞いた。


私は一拍置いてから、頷いた。


「いい。…でも、痛いところは今日はだめ」


舞の目が少しだけ揺れる。

残念、じゃなくて、理解の揺れ。


『わかりました』


舞は絵の中の私の足を、描かない。

代わりに杖と、手の位置と、背中の角度だけ描く。


それだけで、“休んでいる私”は分かる。

舞の線はずるい。少ないのに、ちゃんと当たる。


授業に戻る途中、舞がスマホを見せた。


『紬さん』

『さっき』

『先生に言った』

『すごい』


すごい。


私は息を吐いた。

その言葉が、私の嫌いな褒め方に近いから。


「すごくない。必要だっただけ」


舞は少しだけ首を傾げた。

そして、スマホ。


『私は』

『言うの』

『怖い時ある』


怖い時ある。


私は頷いた。


「私もある」


舞が小さく笑った。肩が揺れる。音はない。


午後の授業は、先生が紙に要点を書いてくれた。

黒板の字。矢印。箇条書き。

舞が少しだけ息をしやすくなる。


帰り道、寮へ戻る頃には、足の痛みは落ち着いていた。

でも、私は疲れていた。目立った疲れじゃなく、内側の疲れ。


部屋に入ると、私はマスクを外した。

舞も、安心したみたいに肩が落ちた。


舞がスマホを見せた。


『口』

『見える』

『うれしい』


私はそのまま頷いた。

言葉にしないほうが、逃げ道が減る気がしたから。


机の前に、貼り紙を出す。


私はペンを持って、舞を見る。


「今日のルール、増やす?」


舞が頷く。

それから、胸の前で指を動かす。『増やす』の形。たぶん。


私は書いた。


「授業は透明マスク(お願いする)」

「分からないときは文字起こし+板書」

「痛いときは休む」

「触る前に聞く(今日も守れた)」


舞がその横に、小さな絵を描いた。


透明マスクの顔。

スマホの文字。

椅子の絵。

そして、丸で囲った『聞く』。


舞はスマホを見せた。


『今日』

『戻れた』


戻れた。


私は頷いた。


「戻れた」


舞が、ほんの少しだけ口の形で「うん」を作った。

声は出ない。

でも、その「うん」は、マスクなしで見えた。


私はそれを見て、胸の奥が少しだけ熱くなった。


今日の私は、舞のために動いた。

舞のため、の顔で。


でも、その中に、私の都合も混ざっていた。

舞が私を見る瞬間が、確かに嬉しかった。


その嬉しさを、まだ私は綺麗にできない。


舞はスケッチブックを閉じる代わりに、膝に乗せた。

そして、スマホ。


『明日も』

『一緒?』


私は頷いた。


「一緒」


舞が笑う。無音の笑い。

でも、部屋の空気がちゃんと柔らかくなる笑い。


私は貼り紙を見た。

ルールが増えるほど、逃げ道が減る。


でも、減っていいと思った。


だって、口元が見えるこの部屋は、もう少しだけ、私たちの場所になってきている。

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