第16話 Erosion: Jamming(侵食する雑音)


 Cランク階層「岩喰いの洞窟」。

 無数の鍾乳石が牙のように垂れ下がる薄暗い通路を、和也は無言で進んでいた。

 今日の配信も、いつも通り順調に――あるいは、順調すぎるほど静かに始まっていた。


 だが、開始から30分。

 その平穏は、不快なノイズと共に侵食され始めた。


『……警告。通信パケットに異常な遅延(ラグ)を確認』


 脳内で、シアンの声が低く響く。

 普段ならクリアな彼女の声にも、微かな雑音が混じっているように聞こえた。

 視界の端に表示された配信モニタリング画面では、映像が時折激しく乱れ、ブロックノイズが走っている。


【名無しA】:なんか今日、画質悪くね?

【名無しB】:カクついてるな。ラグい

【名無しC】:黒狐の動きもなんか重そうに見える

【名無しD】:運営の鯖落ちか? それともダンジョンの磁場異常?


 コメント欄がざわめき始める。

 和也は足を止め、周囲の空間を見回した。

 肌にまとわりつくような、不快な圧迫感。ただの回線不良ではない。もっと作為的な、悪意のある「何か」が、この空間を覆っている。


「……ジャミングか?」

『肯定します。極めて指向性の強い妨害電波です。発信源は単一ではありません。座標A-3、B-7、C-2……私達を取り囲むように、複数の発信機が配置されています』


 シアンが視界上のマップに、赤い警告点を次々と表示させる。

 まるで、獲物を追い込む狩人の陣形だ。


『さらに、悪いニュースがあります。……前方より、不自然なほど高密度の生体反応が接近中』


 ズズズ……と、地響きのような音が聞こえてくる。

 一匹や二匹ではない。数十、あるいは百に近い数のモンスターが、一斉にこちらへ向かってきている音だ。


『敵性体、多数。……解析結果、これらは「誘引香(ルアー)」によって興奮状態にさせられ、意図的に誘導されています』


 MPK(モンスター・プレイヤー・キル)。

 モンスターを意図的に他プレイヤーに押し付け、事故死に見せかけて殺害する、探索者として最も卑劣で、最も許されざる行為。

 ダンジョン内での「完全犯罪」の手口として、裏社会で横行している手口だ。


「……相手は、昨日の連中か」

『十中八九、「白翼の騎士団」の下部組織(ワークス)でしょう。勧誘を断られた腹いせにしては、随分と手が込んでいます』


 シアンの声は冷ややかだ。

 大手クランのプライドを傷つけられた報復。

 配信を妨害して評価を下げ、さらにモンスターの大群をぶつけて物理的に抹殺する。

 二重の罠だ。


「……陰湿だな。どうする? 一旦引くか?」


 和也はブレードの柄に手をかけながら問う。

 逃げようと思えば、慣性制御ブーツの機動力で振り切ることは可能だ。

 だが、シアンは首を横に振った(ような気配がした)。


『いいえ。逃げれば、彼らは図に乗ってさらなる干渉を仕掛けてくるでしょう』


 シアンは冷ややかに、しかし獰猛に笑った。

 その声音には、管理者AIとしての絶対的な自負と、自身のキャリアを害そうとする虫けらへの激しい怒りが滲んでいた。


『売られた喧嘩は、倍のレートで買い取りましょう。……電子戦(ハッキング)の準備を。彼らのデバイスを、再起不能になるまで“教育”して差し上げます』


        ***


 一方、通路から離れた岩陰。

 光学迷彩マントで姿を隠した白翼の工作員たちは、手元の端末を見ながら忍び笑いを漏らしていた。


「へへ、かかったぞ。ジャミング深度、最大。これで配信はボロボロだ」

「誘引香の効果も抜群だな。Cランクの群れが一斉に黒狐に向かってる」


 彼らは三人組の男たちだ。

 白翼の騎士団が、汚れ仕事を処理するために抱えている非正規の実行部隊。

 高価なSランク装備を貸与されているが、その使い道は専ら、目障りなライバルを蹴落とすことだった。


「Fランク風情がクリス様に恥をかかせた報いだ。事故死なら文句も言えねえだろ」

「つーか、あの装備いいよなぁ。死体から剥ぎ取って、俺たちのボーナスにしようぜ」


 彼らは端末の画面越しに、黒狐が立ち尽くしている様子を嘲笑っていた。

 モンスターの波に飲み込まれ、悲鳴を上げて死んでいく様を想像し、歪んだ優越感に浸っていた。


 だが。


 ピピッ……ギャアアアン!!


 突如、彼らの手元の端末から、耳をつんざくようなハウリング音が鳴り響いた。


「うわっ!? なんだ!?」

「音が止まらねえ!?」


 慌てて音量を下げようとするが、操作を受け付けない。

 それどころか、画面が毒々しい真っ青な色に染まり、そこに一匹の**「狐」**のアイコンが浮かび上がった。

 その狐は、嘲笑うように口元を歪めている。


《Access Denied. System Hacked by CYAN》

《Warning: Counter-Protocol Initiated》


「ハッキング!? バカな、俺たちのセキュリティは軍用レベルだぞ! たかがFランクの配信者に何ができる!」


 リーダー格の男が叫ぶ。

 だが、異変は端末だけではなかった。

 背後から、ズズズ……という地響きが近づいてくる。


 黒狐に向かっていたはずのモンスターの大群が、なぜか一斉に方向転換し、工作員たちの隠れ場所へと殺到していたのだ。


「お、おい! 誘引信号が逆流してるぞ!」

「馬鹿な、発信機はあっちに……いや、俺たちの端末が『餌(ルアー)』になってる!?」


 シアンのハッキングにより、彼らの持つ通信端末そのものが、強力なモンスター誘引信号を発信し始めていたのだ。

 狩る側から、狩られる側への転落。


「クソッ、逃げろ!」

「迎撃だ! この装備ならCランク程度!」


 工作員たちは慌てて武器を構え、迎撃体勢を取ろうとした。

 Sランクの強化スーツと、最新鋭の火器。これさえあれば、切り抜けられるはずだった。


 だが、引き金は引けなかった。


《Error. User Authorization Failed(使用者認証に失敗しました)》

《Safety Lock: ENGAGED(安全装置:固定)》


「は……? 撃てない!?」

「動け! なんでロックされてんだ!」


 トリガーが引けない。サーボモーターが駆動しない。

 彼らの頼みの綱であるSランク装備は、ただの重たい鉄屑へと変わっていた。


『……愚かですね。ネットワークに接続された機器である以上、私の支配下にあるというのに』


 端末から、冷徹な女性の声が響く。

 それは死刑宣告だった。


《Equipment Purge(装備強制解除)》


 カシャン、カシャン、パージ。

 乾いた電子音と共に、強化スーツのバックルが次々と弾け飛んだ。

 装甲板が剥がれ落ち、インナースーツだけの無防備な姿が露わになる。


「な、なんで脱げるんだよぉぉぉ!?」

「鎧が! 俺のSランク装備が!」

「やめろ! 返せ!」


 下着同然の姿になった工作員たちの前に、飢えたモンスターの群れが迫る。

 もはや狩りではない。一方的な蹂躙だ。


 その時。

 上空に音もなく現れた黒狐のドローンが、その無様な光景をアップで捉えた。

 ジャミングは既に解除され、クリアな4K映像が全世界に配信されていた。


【名無しD】:ファッ!?

【名無しE】:なんだあの半裸の集団w

【名無しF】:白翼のエンブレム落ちてるぞ。あいつらMPK仕掛けようとして自爆したのか?

【名無しG】:ダッサwww

【名無しH】:装備全部パージされてて草。何が起きたんだよ


 コメント欄が嘲笑と爆笑で埋め尽くされる。

 社会的な死。

 工作員たちは泣き叫びながら、最後の手段――高額な「緊急脱出アイテム(帰還石)」を使用した。


「お、覚えてろよおおおお!!」


 光に包まれて消えていく彼ら。

 命だけは助かった。だが、その代償として、総額数千万ギフトにも及ぶSランク装備の山は、すべてその場に放置されることになった。


        ***


 モンスターたちが去った後。

 静かになった通路で、和也は散乱した高級装備の山を見下ろした。


「……終わったか」

『命までは取りません。死体処理のコストが無駄ですから』


 シアンは涼しい顔で、戦利品の査定を始めている。


『ですが、彼らは全財産と社会的信用を失いました。……これで少しは、身の程を知るでしょう。この映像記録は、白翼への牽制材料としても有効です』

「お前……敵に回したくないタイプだな」


 和也は肩をすくめ、大量の戦利品(白翼からのプレゼント)を回収し始めた。

 Sランク装備の数々。中古市場に流すだけでも、億に近い利益になるだろう。

 この日の配信は、「MPK犯の自爆」という衝撃映像と共に、黒狐の(そしてシアンの)底知れない恐ろしさを知らしめる結果となった。


 そして、その様子を遠くから監視していた光莉は、小さく安堵の息を吐き、刀を納めた。

 助太刀するつもりだったが、その必要すらなかった。


「……余計なお世話だったみたいね。……本当に、底が知れないわ」


 彼女の中で、黒狐への警戒心は、徐々に別の感情――畏怖と、信頼に近い何かへと変わりつつあった。

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