第三章 侵食(Erosion)

第15話 Erosion: Rumors(侵食する噂)


 教室の空気が、熱を帯びている。

 それは初夏の陽気のせいではない。生徒たちの口の端に上る、ある一つの話題が持つ熱量だ。


「おい見たかよ、昨日の『黒狐』の配信!」

「見た見た! あの『紫電の戦乙女』とガチ喧嘩して逃げ切るとか、マジで何者?」

「つーか、あの二人デキてんじゃね? 喧嘩するほど仲が良いって言うし」

「バカ言え、光莉様がそんなわけないだろ。あの人は孤高の生徒会長だぞ」


 放課後のホームルームが終わった直後の教室。

 赤坂和也は、机に突っ伏して狸寝入りを決め込みながら、飛び交う噂話に耳を傾けていた。


 ――またかよ。


 心中で毒づく。

 ここ数日、どこへ行ってもこの話題ばかりだ。

 D-Streamの急上昇ランキングを独占し、登録者数が爆発的に伸びている謎の覆面配信者、『黒狐』。

 その正体が、クラスの片隅で寝ている資産価値31の落ちこぼれ(俺)だなんて、誰も想像すらしていないだろう。


『……知名度の上昇率、前日比150%。順調ですね、キャリア』


 脳内で、シアンの涼やかな声が響いた。

 彼女は和也の視界の端にウィンドウを展開し、SNSのトレンドワードを表示してくる。

 そこには『#黒狐』『#光莉ちゃんマジ鬼嫁』といったタグが並んでいた。


「(……順調すぎて怖いんだよ。特に、光莉関連の話題が)」

『有名税です。彼女とのカップリング需要は、貴方の収益の約30%を支えています。感謝すべきかと』

「(感謝できるか。バレたら物理的に殺されるぞ)」


 和也が溜息をついて顔を上げると、教室の前方から鋭い視線を感じた。

 黒髪をなびかせ、生徒会の腕章をつけた少女――鳴神光莉だ。

 彼女は取り巻きの生徒たちと談笑しながらも、その紫電の瞳を一瞬だけ、和也の方へと向けていた。


 ――監視。


 あの瞳は、幼馴染に向ける温かいものではない。

 問題児を監視する、冷徹な執行官の目だ。

 しかし、その奥に僅かながら「探るような色」が見えるのは、和也の気のせいだろうか。

 昨日の配信で見せた黒狐の動きに、何か既視感を覚えているのかもしれない。


 目が合うと、光莉はフイと視線を逸らし、何事もなかったかのように教室を出て行った。

 その冷たい態度は、クラスメイトたちには「無能な幼馴染への決別」と映るだろう。

 だが、和也だけは知っている。

 彼女がこれから向かう先が、生徒会室ではなく、ダンジョンのゲート前であることを。


「(……はぁ。今日も待ち伏せか)」

『愛されていますね』

「(監視だっつーの)」


 和也は鞄を掴み、逃げるように教室を後にした。

 日常であるはずの学校生活に、少しずつ、だが確実に「黒狐」としての非日常が侵食し始めている。

 その感覚は、スリルと共に、言いようのない緊張感を和也に与えていた。


        ***


 Cランク階層「岩喰いの洞窟」。

 今日の配信も、いつものように奇妙な緊張感の中で行われていた。


【名無しA】:今日も後ろに守護霊(光莉ちゃん)いるなw

【名無しB】:腕組み監視スタイル助かる

【名無しC】:黒狐、やりづらそうで草


 コメント欄の通り、和也の背後――配信ドローンの画角ギリギリの位置には、光莉が仁王立ちしていた。

 彼女は何も言わない。手も出さない。

 ただ、和也がミスをすれば鋭い殺気を放ち、独自の改造スキルを使おうとすれば咳払いをする。

 無言の圧力による、完璧なコントロール。


『……右、30度。ステップ回避』


 シアンの指示に従い、和也は襲いかかる「ロック・リザード」の突進を避けた。

 慣性制御ブーツの出力は抑え気味だ。派手に使いすぎると、光莉に「未認可の改造品」だと追及されるリスクがあるからだ。


「(……窮屈だなぁ、もう!)」


 和也は内心で悪態をつきながら、高周波ブレードでリザードの硬い鱗を切り裂いた。

 シアンの演算による「装甲の隙間」への一点突破。

 派手さはないが、玄人好みの渋い職人芸だ。


 リザードが光の粒子となって消滅する。

 と同時に、背後から拍手の音が聞こえた。


 パチ、パチ、パチ。


 光莉ではない。彼女なら、こんな安っぽい拍手はしない。

 和也が振り返るのと同時に、コメント欄がざわめいた。


【名無しD】:誰だ?

【名無しE】:うわ、あのエンブレム……

【名無しF】:『白翼』じゃん! 大手クラン来たぞ


 通路の奥から数人の男たちが歩いてくるところだった。

 全員が統一された白い戦闘服を纏い、胸には金色のグリフォンのエンブレムが輝いている。

 国内有数の大手クラン、『白翼の騎士団(ホワイト・ウイングス)』。


「お見事。動画で見る以上の剣技だね、黒狐くん」


 先頭に立つ優男――金髪の副団長、クリスが、愛想のいい笑みを浮かべて話しかけてきた。

 だが、その目は笑っていない。値踏みするような、冷たい爬虫類の目だ。


【名無しG】:クリス副団長だ。本物かよ

【名無しH】:黒狐逃げろ! あいつら勧誘しつこいぞ

【名無しA】:白翼って最近、吸収合併とかエグいことしてる噂あるよな……


 視聴者たちの警戒する反応。

 シアンも即座にデータベースを参照し、警告を発する。


『……警戒を。彼らの所属はAランク相当の大手ですが、裏では強引な引き抜きや、中小クランの破壊工作で悪名高い組織です』


 和也は無言のまま、仮面の下で眉をひそめた。

 面倒ごとの予感がする。


「初めまして。私は『白翼の騎士団』副団長のクリスだ。君の活躍は拝見しているよ」


 クリスは芝居がかった仕草で手を差し出した。


「単刀直入に言おう。君、ウチのクランに来ないか?

 君のような才能が、こんな場所でソロ活動をしているのは損失だ。ウチに来れば、Sランク装備はもちろん、専用の配信スタジオも用意しよう。報酬も今の倍は保証する」


 破格の条件。

 普通の探索者なら、二つ返事で飛びつくオファーだ。

 だが、和也は動かない。

 クランに入れば、自由はなくなる。装備も管理され、シアンの存在もバレるかもしれない。

 何より――


「……お断りだ」


 和也は変声機越しの、低く歪んだ機械音声で、短く告げた。

 それは、配信史上初めて彼が発した言葉だった。


【名無しB】:喋ったああああああああああ!?!?

【名無しI】:え、今の黒狐の声?

【名無しJ】:ボイチェンだけどイケボで草

【名無しK】:そこ!? いや断ったのは英断だけど!

【名無しC】:つーか初声出しが「お断りだ」って、媚びなさすぎて好きw


 コメント欄がお祭り騒ぎになる中、クリスの眉がピクリと動く。


「ほう? 交渉の余地なしか。……賢明な判断とは思えないな。

 君は少し、目立ちすぎた。ギルドも君の『違法改造』に目を光らせている。ウチの傘下に入れば、その辺りの揉み消しも含めて面倒を見てやれるんだが?」


 それは、勧誘という名の脅迫だった。

 断れば、ギルドへの通報や、あるいは直接的な妨害工作も辞さないという暗黙のメッセージ。


 空気が張り詰める。

 和也がブレードの柄に手をかけた、その時。


「――どいて」


 凛とした、氷点下の声が響いた。

 和也の背後に控えていた光莉が、ゆっくりと和也を庇うように前に進み出る。

 その手には、既に抜刀された太刀が握られていた。


「白翼の方々。……私の監視対象に、何か用ですか?」


 紫電がバチリと弾ける。

 Sランク探索者、鳴神光莉の介入。

 クリスの表情が、余裕から焦りへと変わった。


【名無しL】:うおおおおおおおお!!

【名無しM】:光莉ちゃんキター!!

【名無しN】:最強の用心棒すぎてワロタ

【名無しO】:これもう黒狐のヒロインだろ


「おや、これは……『紫電の戦乙女』殿ではありませんか。まさか、本当に監視についているとは」

「ええ。この男は私の管理下にあります。勧誘だろうと脅迫だろうと、私の許可なく接触することは認めません」


 光莉は和也を庇うように立ち、切っ先をクリスに向けた。

 その背中は、「私の獲物に手を出すな」と雄弁に語っている。


「(……助かった、のか?)」


 和也は複雑な気分で幼馴染の背中を見つめた。

 彼女にとって自分は「犯罪者」であり「監視対象」だ。

 だが、その徹底した管理主義が、今は最強の盾となって和也を守っている。


「……なるほど。ヴァルハラのエースが出てくるとなれば、今日は引くしかないか」


 クリスは肩をすくめ、わざとらしい溜息をついた。

 だが、その去り際に残した視線は、粘着質な執着に満ちていた。


「また会おう、黒狐くん。……君はいずれ、選択を迫られることになるだろう」


 白翼の一団が去っていく。

 嵐が過ぎ去った後の静寂の中で、光莉が振り返った。


「……勘違いしないでください。あなたが他の組織に取り込まれて、監視の目が届かなくなるのが困るだけです」


 冷たい言葉。

 だが、シアンのセンサーは捉えていた。

 彼女の心拍数が、戦闘時以上に跳ね上がっていることを。


『……ツンデレですね』

「(黙れシアン)」


 和也は仮面の下で苦笑した。

 日常の侵食。そして、新たな組織の影。

 黒狐を取り巻く環境は、加速度的に複雑さを増していく。

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