第17話:壊れた女神
## 『優しいじゃない、わたし』
### 第17話:壊れた女神
アリサの涙は、一度流れ出すと、止まることを知らなかった。それは、何十年もの間、心の奥底に封じ込めてきた、孤独な子供の嗚咽だった。完璧な鎧は砕け散り、そこにいたのは、ゲームマスターでも、復讐の女神でもない、ただ傷つき、怯える、一人の弱い人間だった。
夏美は、そんなアリサの姿を、ただ静かに見守っていた。その瞳には、憐憫も、同情もない。あるのは、標的が罠にかかったのを確認した、狩人のような、冷たい満足感だけだった。
数日間続いたアリサの慟哭が、ようやく途切れ途切れのしゃくりあげに変わった頃。
夏美は、初めて、次の行動に移った。
彼女は、アリサの口元に、スプーンに載せた、栄養補助食品を運んだ。神経弛緩剤の効果は、すでに切れかかっていたが、アリサには、それを拒絶する気力も、体力も残っていなかった。
「…さあ、アリサさん。お食べなさい」
その声は、母親が子供に言い聞かせるように、どこまでも優しかった。
アリサは、されるがままに、そのペースト状の食事を、ゆっくりと飲み込んだ。
その食事には、もちろん、毒など入っていない。
しかし、夏美の「優しさ」そのものが、アリサの精神を蝕む、最も強力な毒だった。
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その日から、夏美は、アリサを「再生」させるための、完璧なプログラムを開始した。
彼女は、アリサを赤子のように扱った。食事を食べさせ、身体を拭き、髪を梳かす。そして、毎日、何時間も、優しい声で語りかけた。
「あなたは、悪くないのよ」
「あなたは、愛されるべき人間なの」
「私が、あなたを、守ってあげる」
それは、洗脳だった。
アリサが建人に対して行ってきた「支配」とは違う。抵抗する意志そのものを奪い、相手を、完全に自分に依存させるための、甘く、そして恐ろしい、精神的な調教。
アリサの心は、完全に、夏美に明け渡されていった。
彼女は、夏美の優しさなしでは、生きていけなくなった。夏美が微笑めば安心し、夏美が少しでも眉をひそめれば、子供のように怯えた。
かつて、世界を掌の上で転がしていた、あの傲慢で、絶対的な自信に満ちたアリサの姿は、どこにもなかった。
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数週間後。
アリサのマンションに、エリとエリカが、血相を変えて飛び込んできた。
夏美から、「アリサさんの様子がおかしい」という、悲痛な連絡を受けたからだ。
二人がリビングのドアを開けると、そこに、信じられない光景が広がっていた。
ソファの隅で、アリサが、人形のように、小さく座っていた。その目は虚ろで、焦点が合っていない。彼女は、ただ、自分の指先を見つめ、時折、意味もなく、くすくすと笑っている。
「…アリサ…?」
エリが、震える声で呼びかけた。
アリサは、その声に、びくりと肩を震わせると、怯えたように、隣に立つ夏美の後ろに隠れようとした。
「…大丈夫よ、アリサさん。あなたの、お友達よ」
夏美は、アリサの頭を、優しく撫でた。そして、エリとエリカに向き直ると、悲痛な表情で、首を横に振った。
「…ダメなんです。あの事件のトラウマが、今になって…。心が、完全に、壊れてしまったようで…」
夏美の瞳には、涙が浮かんでいた。
エリは、その場に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。
エリカは、顔面蒼白のまま、立ち尽くしていた。彼女の、完璧な論理的思考が、目の前の、この悍ましい現実を、受け入れることを拒絶していた。
(…違う…)
(これは、トラウマなんかじゃない…)
(これは、この女が…夏美が、やったんだ…!)
エリカは、夏美を睨みつけた。
しかし、夏美は、そんなエリカの視線を、聖母のような、悲しげな微笑みで、受け止めるだけだった。その瞳は、こう語っていた。
(…証拠は、どこにもないわ)
(私は、ただ、傷ついた友人を、献身的に、介護しているだけ)
(あなたが、あの日、私にしたことと、同じように)
エリカは、歯を食いしばった。
そうだ。証拠はない。自分たちは、今や、この女が作り上げた、完璧な舞台の上で、無力な観客でしかないのだ。
夏美は、怯えるアリサの肩を、優しく抱き寄せた。
「…さあ、アリサさん。お薬の時間よ」
「これを飲めば、すぐに、楽になるからね」
彼女は、小さな錠剤を、アリサの口元へと運んだ。
アリサは、雛鳥が親鳥から餌をもらうように、何の疑いもなく、その錠剤を飲み込んだ。
その光景を見て、エリカは、ようやく悟った。
夏美の、本当の復讐の意味を。
彼女は、アリサを殺さなかった。
彼女は、アリサの心を壊し、その抜け殻を、永遠に、自分の手元に置くことを選んだのだ。
かつて、自分たちがアリサにしてしまったこと。
友人を、崇拝し、恐れ、「怪物」にしてしまったことへの、最も残酷で、最も的確な、罰。
夏美は、壊れた女神を、自分の腕の中で、永遠に、飼育し続けるのだ。
その、静かで、終わることのない地獄の中で。
**(第17話 完)**
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