第18話:盤面の外側

## 『優しいじゃない、わたし』


### 第18話:盤面の外側


その日以来、エリとエリカの世界は、色を失った。

二人は、交代でアリサのマンションを訪れた。夏美は、そんな二人を、いつも穏やかな笑みで迎え入れ、甲斐甲斐しくアリサの世話を焼いていた。その光景は、傍目には、心を病んだ友人と、それを支える友人たちの、美しい友情の物語に見えただろう。


しかし、エリとエリカにとって、その部屋は、息の詰まるような地獄だった。

ソファの隅で、虚ろに微笑むアリサ。その魂の抜け殻を見るたびに、自分たちが犯した罪の重さを、まざまざと見せつけられる。


「アリサ…」

エリが、何度呼びかけても、アリサの瞳には、かつての光が宿ることはなかった。彼女は、ただ、夏美の顔色を窺い、夏美が微笑めば、安心したように微笑み返すだけ。完全に、夏美の「人形」と成り果てていた。


エリカは、何度も、この状況を覆すためのシナリオを、頭の中で組み立てた。夏美を、法的に、あるいは物理的に、アリサから引き離す方法を。

しかし、その全てが、行き詰まった。


夏美の行動には、一片の隙もなかった。

彼女は、アリサの正式な後見人となる手続きを進め、アリサの莫大な資産を管理下に置いた。その全てを、アリサの「治療」と「療養」のために使うのだと、完璧な書類と共に、公的機関に証明してみせた。

アリサを診察した精神科医もまた、「重度のPTSDによる、解離性障害。田中さん(夏美)による、手厚いケアが不可欠」という診断を下した。その医師が、夏美によって巧みに選ばれ、誘導された人物であることに、エリカは気づいていたが、それを証明する術はなかった。


夏美は、アリサが築き上げた、「論理」と「計画」の城を、内側から、完全に奪い取ってしまったのだ。


---


ある夜。

エリカのマンションで、二人は、黙って、グラスを傾けていた。


「…もう、無理よ」

エリが、力なく呟いた。

「私たちに、できることなんて、何もない。アリサは、もう、帰ってこない…」

その瞳には、諦観の色が、濃く浮かんでいた。


エリカは、何も答えなかった。

ただ、窓の外の、冷たい夜景を、見つめていた。

彼女の頭の中では、まだ、無数のシミュレーションが、高速で繰り返されていた。しかし、どのルートを辿っても、行き着く先は、完全な「チェックメイト」だった。


(…本当に、そうだろうか?)


エリカの脳裏に、ふと、ある記憶が蘇った。

それは、数年前、アリサが悪質な詐欺事件から自分を救い出してくれた時の、彼女の言葉だった。


『…エリカ。どんなに完璧なゲーム盤でも、必ず、外側があるものよ』

『プレイヤーが、盤の上で駒を動かすことしか考えていない時、本当に賢い人間は、盤そのものを、ひっくり返すことを考えるの』


(…盤そのものを、ひっくり返す…)


エリカの瞳に、久しぶりに、鋭い光が宿った。

そうだ。自分は、夏美が作り上げた、この完璧なゲーム盤の上で、もがき続けていただけだ。夏美のルールの中で、勝とうとしていた。

だから、勝てなかったのだ。


「…エリ」

エリカは、隣の親友に、静かに、しかし、強い意志を込めて、言った。

「…一つだけ、方法があるかもしれない」


「…え?」


「私たちが、勝つための方法じゃない。…この、狂ったゲームそのものを、終わらせるための方法よ」

エリカは、自分のスマートフォンを手に取ると、ある番号を、ゆっくりと、打ち込み始めた。


それは、彼女が、調査員時代に使っていた、古い、裏社会の情報屋の番号だった。


「…もしもし、私だ。西園寺だ」

彼女の声は、もはや、アリサの友人としての声ではなかった。それは、目的のためなら、手段を選ばない、冷徹なプロフェッショナルの声だった。


「…仕事の依頼だ。…ある人物の、完全な『失踪』を手伝ってほしい」

「…報酬は、言い値で構わない」


エリは、息を呑んで、エリカの横顔を見つめていた。

彼女が、何をしようとしているのか。

その、あまりにも危険で、後戻りのできない計画の意味を、エリは、まだ、理解できていなかった。


しかし、エリカの瞳には、迷いはなかった。

アリサを救うためではない。

夏美に復讐するためでもない。


ただ、この、終わりのない地獄の連鎖を、断ち切るために。

彼女は、自ら、盤面の外側へと、足を踏み出そうとしていた。

たとえ、その先にあるのが、さらなる闇だとしても。


**(第18話 完)**

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