第16話:檻の中の怪物

## 『優しいじゃない、わたし』


### 第16話:檻の中の怪物


アリサが目を覚ました時、最初に感じたのは、柔らかなシーツの感触と、消毒液の微かな匂いだった。ぼやけた視界が徐々に焦点を結ぶと、そこが見慣れた自分のマンションの寝室ではなく、白い壁に囲まれた、簡素な部屋であることに気づいた。


「…ここは…」

声を出そうとしたが、喉から漏れたのは、かすれた空気の音だけだった。身体が、鉛のように重い。指一本、動かすことができない。


「目が覚めましたか、アリサさん」


声のした方へ、かろうじて視線を動かす。

部屋の隅の椅子に、夏美が、静かに座っていた。その手には、ハードカバーの本が開かれている。まるで、患者の目覚めを待つ、献身的な看護人のようだった。


「…な…にを…」


「ご心配なく。ここは、私が用意した、特別なカウンセリングルームです」

夏美は、本に栞を挟むと、ゆっくりと立ち上がり、アリサのベッドのそばにやってきた。

「あなたと、じっくり、向き合うためのね」


彼女は、アリサの額に張り付いた髪を、優しく指で払いのけた。その仕草は、慈愛に満ちている。しかし、その瞳の奥にある、絶対的な支配者の光を、アリサは見逃さなかった。


「食事に混ぜたのは、特殊な神経弛緩剤。効果は数日続くわ。身体の自由は利かないけれど、意識は、はっきりしているはず」

夏美は、淡々と説明した。

「大丈夫。あなたを傷つけたりはしない。ただ、少しだけ、あなたの『本当の心』を、見せていただくだけですから」


アリサは、歯を食いしばった。全身の筋肉に力を込めるが、身体は、まるで自分のものではないかのように、ぴくりとも動かない。

かつて、自分が建人に対して行ってきたこと。

その全てが、今、自分に跳ね返ってきているのだ。


(…エリ…エリカ…)

アリサは、心の中で、親友たちの名前を叫んだ。

しかし、彼女たちに、この事態を知らせる術はない。夏美は、アリサのスマートフォンから、『しばらく一人で心を整理したい』というメッセージを、完璧な偽装で二人に送っていた。


アリサは、初めて、完全な無力というものを、味わっていた。

盤上の駒ではなく、ただ、まな板の上の鯉として。


---


夏美の「カウンセリング」は、静かに、そして執拗に行われた。


彼女は、アリサのベッドの横に座り、ただ、語り続けた。

「あなたは、どうして、あんな残酷な計画を思いついたの?」

「建人さんを壊していく時、どんな気持ちだった?」

「あなたは、本当に、人を愛したことがある?」


それは、尋問ではなかった。

夏美の声は、どこまでも穏やかで、優しかった。

しかし、その言葉の一つ一つが、アリサが必死に築いてきた、心の鎧を、一枚、また一枚と、剥ぎ取っていく。


アリサは、黙秘を続けた。しかし、身体の自由を奪われ、逃げ場のない空間で、夏美の言葉だけが響き渡る状況は、彼女の強靭な精神を、確実に蝕んでいった。


三日目の夜。

夏美は、一枚の古い新聞記事のコピーを、アリサの目の前に広げた。


『一家心中か。著名な建築家、無理心中図る』


その見出しを見た瞬間、アリサの瞳が、初めて、激しく揺らいだ。


「…あなたの、お父様のことよ」

夏美の声は、冷たかった。

「事業に失敗し、多額の負債を抱え、追い詰められた末に、家族全員を…」


「…やめろ…」

アリサの喉から、初めて、はっきりとした声が漏れた。


「あなたは、たまたま友人の家に泊まっていて、助かった。…でも、あなたの心は、あの日に、一度、死んだのよ」

夏美は、アリサの顔を、覗き込んだ。

「あなたは、信じていた父親に、裏切られた。殺されかけた。…だから、あなたは、もう誰も信じられなくなった。世界を、自分のコントロール下に置かなければ、生きていけなくなった」


「黙れ…!」


「あなたの、その完璧な支配欲は、あの日の、無力な子供だったあなたの、悲しい叫びなのよ」

夏美は、アリサの頬を、そっと撫でた。


「…可哀想に」


その、絶対的な同情と、憐憫。

アリサの、心の奥底、最も触れられたくない場所に、夏美の指が、深く、突き刺さった。


アリサの瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。

それは、彼女が、あの事件以来、初めて流した、本物の涙だった。

鎧が、完全に、砕け散った瞬間だった。


夏美は、その涙を、満足そうに見つめていた。

そして、その瞳の奥で、冷たい光が、再び、煌めいた。


(…そう。それでいいのよ)


(まずは、あなたの心を、完全に、壊してあげる)


(そして、その後で…)


夏美の、本当の復旧が、これから、始まろうとしていた。


**(第16話 完)**

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る