サヨナラ~終わりを告げる青春。最初で最後の恋~
Nemu°
サヨナラ~終わりを告げる青春。最初で最後の恋~
朝七時。スマートフォンのアラームが鳴り響く前に、僕は目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む六月の朝日が、部屋の中をうっすらとオレンジ色に染めている。窓を開けると、初夏特有の爽やかな風が頬を撫でた。今日も晴れるだろう。梅雨入り前の貴重な晴れ間だ。
制服に着替え、髪をざっと整えて階段を降りる。母はすでに朝食の準備を終えていて、食卓にはトーストと目玉焼き、それにサラダが並んでいた。
「おはよう、拓海」
「おはよう」
僕——橋本拓海は、ありふれた高校三年生だ。特別なことは何もない。成績は中の上、運動神経も普通。友達は多くもなく少なくもなく、いつも同じメンバーで昼休みを過ごしている。
朝食を済ませ、リュックを背負って玄関を出る。家のドアを閉めた瞬間、隣の家からも同じようにドアの開く音が聞こえた。
「あ、拓海くん! おはよう!」
明るい声が飛んできた。振り向くと、そこには見慣れた笑顔があった。
春海——佐藤春海。
僕の幼馴染で、物心ついた頃からずっと一緒にいる存在だ。家が隣同士で、保育園も小学校も中学校も、そして今通っている高校も同じ。クラスは違うけれど、登下校はいつも一緒だった。
「おはよう、春海」
「今日もいい天気だね!」
春海はいつものように屈託のない笑顔で僕に話しかけてくる。肩まで伸びた茶色の髪を軽く揺らしながら、僕の隣に並んで歩き出した。
彼女はいつもこうだ。明るくて、元気で、誰とでもすぐに仲良くなれる。僕とは正反対の性格だ。そんな彼女と一緒にいると、なぜか自然と僕まで前向きな気持ちになれる。
「ねえねえ、昨日のドラマ見た? あの展開、まさかだったよね!」
「ああ、見た見た。確かにびっくりした」
実際には見ていなかったけれど、春海が楽しそうに話すから、つい相槌を打ってしまう。彼女はそれに気づかず、ドラマの内容を熱心に語り続けた。
駅までの道のりは約十五分。その間、春海はずっと話し続けている。僕はほとんど聞き役に回っているけれど、それが心地いい。彼女の声を聞いていると、なんだか安心するのだ。
改札を抜け、ホームで電車を待つ。朝の通勤ラッシュで電車は混んでいたけれど、僕たちはなんとか隣同士で立つことができた。
「あ、そうだ。今日の放課後、図書室に行くんだ」
春海がふと思い出したように言った。
「図書室? 何か調べ物?」
「うん。現代文のレポートで、夏目漱石について書かなきゃいけなくて。本を何冊か借りようと思って」
「へえ、頑張ってるんだな」
「拓海くんはもう終わったの?」
「いや、まだ。俺も今週中には手をつけないと」
「一緒に行く?」
春海が無邪気に聞いてくる。彼女にとって、それはごく自然な提案なのだろう。幼馴染の僕を誘うことに、何の躊躇もない。
「そうだな、じゃあ一緒に行くか」
「やった! じゃあ放課後ね」
春海は嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、僕も自然と口角が上がる。
学校に着き、昇降口で靴を履き替える。ここで春海とは別れて、それぞれの教室へと向かう。
「じゃあね、拓海くん。また放課後!」
「ああ、また後でな」
手を振る春海の後ろ姿を見送りながら、僕は自分の教室へと足を進めた。
教室に入ると、すでに何人かのクラスメイトが席についていた。窓際の自分の席に座り、リュックから教科書を取り出す。
「おー、拓海。おはよう」
隣の席から声がかかった。親友の健斗——田中健斗だ。
「おはよう」
「今日も春海ちゃんと一緒に登校?」
「ああ、いつも通り」
「いいなあ、幼馴染って。俺も可愛い幼馴染が欲しかったわ」
健斗は冗談めかして言う。彼はこういう軽口をよく叩くけれど、悪気はない。むしろ、そのおかげで場が和むことが多い。
「別に、ただの幼馴染だから」
「そう言いつつ、まんざらでもなさそうだけどな」
「何言ってんだよ」
僕は苦笑しながら答えた。確かに春海は可愛いと思う。でも、それは幼馴染としての感情であって、恋愛感情とは違う——そう思っていた。少なくとも、この時までは。
放課後、約束通り図書室へ向かった。
校舎の三階にある図書室は、窓から差し込む西日が心地よく、いつも静かで落ち着いた雰囲気に包まれている。僕はこの空間が好きだった。
扉を開けると、すでに春海が本棚の前に立っていた。背伸びをして、手の届かない高い位置にある本を取ろうとしている。
「春海」
声をかけると、彼女は振り向いて笑顔を見せた。
「あ、来てくれたんだ! ちょうど良かった。この本、取ってくれない?」
春海が指差した先には、夏目漱石の評論集があった。僕は彼女の隣に立ち、軽々とその本を取って手渡した。
「ありがとう! やっぱり背が高いと便利だね」
「そんなに高くないけどな」
「私から見たら十分高いよ」
春海は僕より頭一つ分小さい。彼女が笑いながら言うと、なぜか少し照れくさくなった。
僕たちはそれぞれ必要な本を探し、テーブルに並んで座った。春海は真剣な表情でノートに何かを書き込んでいる。時折、本のページをめくる音だけが静寂を破る。
僕も自分のレポートに取り掛かろうとしたけれど、なぜか集中できなかった。
視線が、無意識のうちに春海の方へ向いてしまう。
彼女の横顔。少し前屈みになって、真剣にノートと向き合っている姿。たまに髪を耳にかける仕草。ペンを持つ指先。
ああ、春海ってこんな風に勉強するんだな。
今まで何度も一緒に勉強してきたはずなのに、こんなにじっくりと観察したことはなかった。いや、観察という言葉は適切ではないかもしれない。ただ、自然と目が向いてしまうのだ。
「拓海くん、どうしたの?」
突然、春海が顔を上げて僕を見た。
「え、あ、いや、何でもない」
慌てて視線を逸らす。春海は不思議そうな顔をしたけれど、すぐにまた自分の作業に戻った。
危ない。今のは完全にバレそうだった。
でも、どうして僕は春海をこんなに見つめていたんだろう。
それは、この時の僕にはまだわからなかった。
六月の半ば、学年行事として遠足があった。
行き先は山の中にある自然公園で、クラスごとにバーベキューをするという企画だ。僕たちのクラスも朝早くから集合し、バスで現地へ向かった。
天気は快晴。空気は爽やかで、森の中は心地よい涼しさに包まれていた。
バーベキューは盛り上がった。健斗が率先して火を起こし、女子たちが野菜を切り、みんなでワイワイと楽しんだ。僕も肉を焼いたり、飲み物を配ったりと、それなりに動き回った。
そして午後、自由時間になった。多くの生徒たちは公園内を散策したり、芝生で遊んだりしている。僕はベンチに座って休んでいると、後ろから声がかかった。
「拓海くん!」
振り向くと、春海が走ってきた。彼女のクラスもこの公園に来ていたらしい。
「春海。お前のクラスもここなのか」
「うん! さっきまでバーベキューしてたんだ。めっちゃ楽しかった!」
春海は息を切らしながらも、満面の笑みを浮かべていた。
「一緒に散策しない? せっかくだし」
「ああ、いいよ」
僕たちは公園内の遊歩道を歩き始めた。木々のトンネルをくぐり、小川のせせらぎを聞きながら、ゆっくりと進んでいく。
「ねえ、拓海くん。高校生活も残り一年切ったね」
春海がふと呟いた。
「そうだな」
「早いよね。あっという間だった」
「本当にな」
春海は少し寂しそうな表情を浮かべた。でも、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「でも、まだまだやりたいことたくさんあるし! 文化祭も体育祭も、最後だから全力で楽しみたいな」
「ああ、そうだな」
「拓海くんは、高校生活で一番の思い出って何?」
突然の質問に、僕は少し考えた。
一番の思い出——。
修学旅行、体育祭、文化祭。いろんなイベントがあったけれど、どれも楽しかった。でも、一番と言われると難しい。
「うーん、まだ決めてないかな。最後まで楽しんでから決めたい」
「そっか。私もそうかも」
春海は笑った。
そして、ふと立ち止まり、僕の顔をじっと見つめた。
「でもね、拓海くん」
「ん?」
「私、拓海くんといる時間が一番楽しいかも」
その言葉に、心臓が一瞬止まったような気がした。
「え、あ、そう……かな」
「うん。だって、ずっと一緒にいるから、安心するんだよね」
春海は無邪気に笑っている。彼女にとって、それはごく自然な感情なのだろう。幼馴染への信頼と安心感。
でも、僕の胸の中には、何か違う感情が芽生え始めていた。
ドキドキする。顔が熱い。
これは——何だ?
遠足から帰った夜、僕は自分の部屋で一人、ベッドに横たわっていた。
天井を見つめながら、今日のことを思い返す。
春海の笑顔。彼女の言葉。そして、あの時感じた胸の高鳴り。
「私、拓海くんといる時間が一番楽しいかも」
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
どうして、あんなにドキドキしたんだろう。
春海はいつも通り、何の気なしに言っただけだ。幼馴染としての信頼を口にしただけ。それなのに、僕はあんなに動揺してしまった。
スマートフォンを手に取り、春海とのLINEのトーク画面を開く。
今日のやり取りは、帰宅後の「お疲れ様!」というスタンプだけ。それでも、何度も読み返してしまう。
ため息をついて、スマートフォンを枕元に置いた。
そして、もう一度考える。
春海のこと。
彼女といると楽しい。彼女の笑顔を見ると嬉しい。彼女が悲しんでいると、自分まで悲しくなる。彼女が誰かと楽しそうに話していると、なぜか少し寂しい気持ちになる。
これって——。
「もしかして、俺……」
声に出してみる。でも、その先の言葉が出てこない。
認めたくない。認めてしまったら、今までの関係が変わってしまう気がする。
春海は僕の幼馴染だ。物心ついた頃から一緒にいる、大切な存在。でも、それ以上の感情を抱いてしまったら——。
怖い。
もし、この気持ちが恋だとしたら。
もし、春海に伝えて、拒絶されたら。
今までの関係が壊れてしまうかもしれない。
でも。
でも、もう気づいてしまった。
「俺、春海のことが……好きなのか」
小さく呟いた言葉が、静かな部屋の中に溶けていく。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような感覚。
それは、苦しくて、でもどこか心地よくて。
初めて知る感情だった。
ベッドの中で目を閉じる。春海の笑顔が瞼の裏に浮かぶ。
これが恋なのか。
もう、誤魔化せない。
僕は、春海のことが好きだ。
恋に気づいてから、僕の日常は少しずつ変化していった。
春海を見る目が変わった。いや、正確には、春海を意識してしまうようになった。
朝の登校時、いつものように隣を歩く春海の横顔に、自然と視線が向く。彼女が笑う度に、胸の奥が温かくなる。そして同時に、どう接すればいいのかわからなくなる。
それでも、表面上はいつも通りを装っていた。幼馴染として、何も変わらないように。
しかし、ある日の昼休み。
僕の気持ちは、思わぬ形でクラスメイトたちに察知されることになった。
「なあなあ、拓海」
昼食を食べ終えた頃、健斗が意味ありげな笑みを浮かべて話しかけてきた。
「何だよ」
「お前、最近春海ちゃんのこと見る目変わってない?」
その言葉に、一瞬息が止まった。
「は? 何言ってんだよ」
「いやいや、バレバレだって。朝とか、春海ちゃんのこと結構見てるだろ?」
「見てねえよ。普通に話してるだけだ」
必死に否定する僕を見て、健斗はニヤニヤと笑った。
「おー、顔赤くなってるし。これは確定だな」
「なってねえし!」
「拓海、春海ちゃんのこと好きなんだろ?」
その瞬間、周りの空気が変わった。
同じテーブルにいた他のクラスメイトたちが、一斉にこちらを向いた。
「え、マジで?」
「拓海、春海ちゃん好きなの?」
「幼馴染から恋人って、めっちゃいい展開じゃん!」
次々と飛んでくる言葉に、僕は完全にパニックになった。
「違う違う! 勘違いするなって!」
「でも否定が必死すぎて逆に怪しいぞ」
「そうそう、素直に認めちゃえよ」
クラスメイトたちは楽しそうに僕をからかう。悪気はないのだろうけれど、僕にとっては拷問のような時間だった。
「本当に違うから! 春海はただの幼馴染だから!」
「ただの幼馴染ね〜。でも幼馴染って、一番恋に発展しやすいって言うよね」
「そうそう、毎日顔合わせてるんだから、好きになっても不思議じゃないし」
どう否定しても、火に油を注ぐだけだった。
結局、昼休みが終わるまで、僕はクラスメイトたちの格好の餌食になってしまった。
あの日以来、僕は春海と顔を合わせる度に、余計に意識してしまうようになった。
クラスメイトたちの言葉が頭から離れない。
「素直に認めちゃえよ」
確かに、このままずっと気持ちを隠し続けるのは辛い。いつかは伝えなければいけない。それはわかっている。
でも——。
ある日の放課後、春海と一緒に帰ることになった。
いつもの駅までの道のり。夕暮れ時の空は、オレンジ色に染まっている。
「今日も一日お疲れ様!」
春海はいつものように明るく話しかけてくる。
「ああ、お疲れ」
「ねえねえ、明日の英語のテスト、ちゃんと勉強した?」
「一応な。でもあんまり自信ない」
「私も! 一緒に頑張ろうね」
彼女は笑った。その笑顔が、眩しくて、そして少し切なかった。
伝えよう。
今、ここで。
春海に、自分の気持ちを——。
「あのさ、春海」
「ん? どうしたの?」
春海が不思議そうに僕を見る。その瞳は澄んでいて、まっすぐで。
言葉が、喉の奥で詰まった。
この笑顔を失いたくない。
もし、告白して断られたら。もし、気まずくなってしまったら。
今までの関係が壊れてしまったら——。
「いや、何でもない」
「そう? 変なの」
春海はクスッと笑って、また前を向いた。
僕は、自分の弱さに歯がゆさを感じながら、ただ黙って歩き続けた。
次の日の放課後、健斗に呼び出された。
「ちょっと話があるんだけど」
そう言って、彼は僕を屋上へ連れて行った。
誰もいない屋上。風が心地よく吹いている。
「で、何の話?」
僕が聞くと、健斗は真剣な表情で言った。
「お前、まだ春海ちゃんに告白してないの?」
またその話か——。
僕はため息をついた。
「してない」
「なんで?」
「なんでって……」
理由は、わかっている。怖いからだ。関係が壊れるのが怖いからだ。
でも、それを口に出すのは恥ずかしかった。
「別に、まだいいかなって」
「いや、良くないだろ」
健斗は呆れたように言った。
「お前、このままずっと何もしないつもり?」
「そういうわけじゃ……」
「じゃあいつ言うんだよ。卒業してから? それとも一生言わないつもり?」
健斗の言葉が、胸に突き刺さる。
「怖いんだろ? 断られるのが」
図星だった。
「でもな、拓海。何もしないで後悔するより、やって後悔する方がマシだぞ」
「……」
「お前が春海ちゃんのこと好きなのは、もうみんな気づいてる。だったら、ちゃんと伝えろよ」
健斗の言葉は、優しくて、でも厳しかった。
「わかってる。わかってるけど……」
「じゃあ、いつ言うんだよ」
「それは……」
言葉に詰まる。
健斗はため息をついて、僕の肩を叩いた。
「まあ、無理にとは言わないけどさ。でも、チャンスは待ってくれないぞ」
そう言い残して、健斗は屋上を後にした。
一人残された僕は、フェンスに寄りかかりながら空を見上げた。
わかってる。
わかってるんだ。
でも——。
週末の夕方、春海から突然LINEが来た。
「今日、ちょっと散歩しない?」
珍しく春海の方から誘ってきた。僕は迷わず返信した。
「いいよ。どこ行く?」
「河川敷! 夕日が綺麗だから」
待ち合わせ場所で春海と合流し、一緒に河川敷へ向かった。
六月の夕暮れ。空はオレンジとピンクのグラデーションに染まっていて、川面がキラキラと輝いている。
「わあ、綺麗……」
春海は感嘆の声を上げた。
「本当にな」
僕たちは河川敷の土手に腰を下ろし、並んで夕日を眺めた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。ただ、風の音と川のせせらぎだけが聞こえる。
「ねえ、拓海くん」
春海がふと口を開いた。
「ん?」
「私たち、ずっと一緒だったよね」
「ああ」
「これからも、ずっと一緒だといいな」
その言葉に、胸が締め付けられた。
今だ。
今、伝えるべきだ。
春海に、自分の気持ちを。
「春海、実は——」
言いかけた瞬間、春海が笑顔で振り向いた。
「実は?」
その笑顔を見た瞬間、言葉が消えた。
また。
また、言えなかった。
「いや、これからも、よろしくな」
「うん! こちらこそ!」
春海は屈託なく笑った。
僕は、自分の弱さに腹が立った。
夕日が沈んでいく。オレンジ色の空は、少しずつ暗闇に変わっていく。
まるで、僕の気持ちも一緒に沈んでいくみたいに。
告白できないまま、時間だけが過ぎていった。
でも、僕は何もしないわけにはいかなかった。気持ちを伝えられないなら、せめて春海のことをもっと知りたい。彼女が何を好きで、何に興味があって、どんなことを考えているのか。
そう思い始めてから、僕は春海の言動に今まで以上に注目するようになった。
ある日の昼休み、春海が友達と話しているのが聞こえてきた。
「ね、最近このカフェにハマってるんだ。ここのパンケーキが本当に美味しくて!」
春海がスマートフォンの画面を見せながら、楽しそうに話している。
パンケーキか。春海は甘いものが好きなんだな。
そう言えば、小さい頃もよくお菓子を分けてくれたっけ。
別の日、登校中に春海が鼻歌を歌っていた。
「何の曲?」
僕が聞くと、春海は恥ずかしそうに笑った。
「あ、バレた? 最近よく聞いてる曲なんだ。めっちゃいいメロディーで」
「へえ、どんなアーティスト?」
「えっとね……」
春海はアーティスト名を教えてくれた。僕はそれをスマートフォンにメモした。
家に帰ってから、その曲を検索して聴いてみる。
確かに、爽やかで心地いい曲だった。春海が好きな理由もわかる気がする。
また別の日、図書室で一緒に勉強していた時のこと。
春海がふと窓の外を見て、呟いた。
「雨、好きなんだよね」
「雨?」
「うん。雨の音って、落ち着くから。それに、雨の日って特別な感じがするの」
春海は少し照れくさそうに笑った。
「変だよね」
「いや、全然変じゃないよ」
僕は答えた。
「俺も雨の音、嫌いじゃない」
「本当? 良かった」
春海は嬉しそうに笑った。
そうやって、少しずつ春海のことを知っていく。
彼女の好きな食べ物、好きな音楽、好きな天気、好きな色。
些細なことだけれど、それが嬉しかった。春海のことを知るたびに、もっと好きになっていく自分がいた。
そしてある日、僕は思い切ってあのカフェに行ってみることにした。春海が友達と話していた、パンケーキが美味しいという店。
週末の午後、一人でその店を訪れた。
小さくておしゃれな店内。窓際の席に座り、春海がお勧めしていたパンケーキを注文する。
運ばれてきたパンケーキは、ふわふわで、確かに美味しかった。
春海は、この味が好きなんだな。
この景色を見ながら、こうやって食べるのが好きなんだな。
そう思うだけで、なんだか幸せな気持ちになった。
スマートフォンで写真を撮る。LINEで春海に送ろうかと思ったけれど、やめた。
今はまだ、自分だけの秘密にしておきたかった。
七月に入り、学校は体育祭の準備で賑わい始めた。
体育祭は、毎年この時期に行われる学校最大のイベントの一つだ。クラス対抗で様々な競技を行い、優勝を目指す。
僕たちのクラスも、放課後に練習を重ねていた。
そして体育祭当日。
天気は快晴。青空の下、グラウンドには生徒たちの熱気が満ちていた。
午前中の競技が進み、午後には学年全体で行うリレーがあった。各クラスから選抜されたメンバーが走る、最も盛り上がる種目だ。
そして、春海もその選抜メンバーの一人だった。
「次は、三年生女子リレーです!」
アナウンスが流れ、選手たちがスタート位置に並ぶ。
僕はクラスメイトたちと一緒に、観客席から声援を送った。
「春海ちゃん頑張れー!」
「いけー!」
スタートの合図と同時に、選手たちが一斉に走り出した。
春海は第三走者。彼女の出番を待ちながら、僕は緊張した面持ちで見守っていた。
そして、春海にバトンが渡った。
彼女は全力で走る。髪が風になびき、その表情は真剣そのものだった。
必死に腕を振り、足を動かす。一生懸命に、前だけを見て。
その姿が、とても眩しかった。
「頑張れ、春海!」
僕も思わず大声で叫んでいた。
春海は見事に次の走者へバトンを繋いだ。そして、ゴールまで走り切った彼女は、膝に手をついて息を整えていた。
結果は三位。メダルには届かなかったけれど、春海は満足そうに笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、僕は改めて思った。
ああ、やっぱり好きだ。
こんなに頑張る春海が。こんなに全力で何かに取り組む春海が。
そして、その笑顔を見られるだけで、僕は幸せだった。
体育祭が終わった後、春海が僕たちのところへ歩いてきた。
「お疲れ様!」
「お疲れ、春海。すごかったよ」
僕が言うと、春海は照れくさそうに笑った。
「ありがとう。でも三位だったから、ちょっと悔しいな」
「十分すごいって」
「拓海くんもリレー出てたよね? お疲れ様」
「ああ、まあまあだったかな」
そんな他愛のない会話。
でも、その一瞬一瞬が、僕にとっては大切な時間だった。
それから、僕は少しずつ春海に対して小さな好意を示すようになった。
さりげなく、彼女の荷物を持ってあげたり。
彼女の好きなお菓子を買ってきて、「たまたま買いすぎたから」と言って渡したり。
雨の日には、傘を差しかけたり。
でも、春海は何も気づいていないようだった。
「ありがとう、拓海くん! 優しいね」
そう言って、いつものように屈託なく笑う。
彼女にとって、僕はただの幼馴染。いつも一緒にいる、気の置けない存在。
それ以上でも、それ以下でもない。
ある日、春海が風邪を引いて学校を休んだ。
僕は放課後、彼女の家を訪ねた。
インターホンを押すと、春海の母親が出てきた。
「あら、拓海くん。いらっしゃい」
「こんにちは。春海、大丈夫ですか?」
「ありがとう。もう熱は下がったから、明日には学校に行けると思うわ」
「そうですか。良かった」
僕はプリントの束を手渡した。
「これ、今日の授業のプリントです。春海に渡してもらえますか?」
「ありがとう。わざわざ届けてくれて」
「いえ、ついでですから」
母親は微笑んで、プリントを受け取った。
その時、二階から春海の声が聞こえた。
「お母さん、誰?」
「拓海くんよ。プリント届けてくれたの」
「えっ!」
ばたばたと足音が響き、階段を降りてくる音がした。
そして、パジャマ姿の春海が玄関に現れた。
「拓海くん! ありがとう!」
「おう、大丈夫か?」
「うん、もう全然平気。明日から学校行けるよ」
「そっか、良かった」
春海は嬉しそうに笑った。髪はボサボサで、顔色もまだ少し悪い。でも、その笑顔はいつも通り明るかった。
「本当にありがとうね。わざわざ来てくれて」
「いや、家近いし。大したことじゃないよ」
僕はそう言って、帰ろうとした。
「待って、拓海くん!」
春海が呼び止めた。
「これ、お礼」
そう言って、彼女は小さなキャンディーを一つ手渡してくれた。
「いつも優しくしてくれるから。ありがとう」
その言葉と、小さなキャンディー。
些細なことだけれど、僕の胸は温かくなった。
「ああ、ありがとう。じゃあな」
「うん、また明日!」
家に帰る途中、僕はそのキャンディーをポケットの中で握りしめていた。
春海は気づいていない。
僕のこの気持ちに。
でも、それでもいい。
今は、ただ彼女の側にいられるだけで幸せだから。
七月の終わり、夏休みが始まった。
夏休みといっても、僕たちは受験生。部活を引退した後は、ほとんどの時間を勉強に費やさなければならない。
でも、それでも春海とは変わらず連絡を取り合っていた。
「今日、図書館で勉強しない?」
春海からのLINEに、僕はすぐに返信した。
「いいよ」
待ち合わせ場所で春海と合流し、一緒に図書館へ向かった。
夏休み中の図書館は、受験生たちで混み合っている。僕たちはなんとか二人並んで座れる席を見つけ、勉強を始めた。
数学、英語、国語。それぞれの問題集を開き、黙々と取り組む。
でも、時々春海が小さく呟く。
「うーん、この問題難しい……」
「どれ?」
僕が覗き込むと、春海は数学の問題を指差した。
「これ、解き方がわかんない」
「ああ、これはね……」
僕は説明を始めた。春海は真剣な表情で聞いている。
「あ、なるほど! そういうことか!」
理解した瞬間、春海はパッと顔を輝かせた。
「ありがとう、拓海くん! やっぱり頭いいね」
「そんなことないって」
「いやいや、本当に。私なんか全然ダメだもん」
春海は笑いながらそう言った。
その無邪気な笑顔。
僕のことを、何の疑いもなく信頼してくれる眼差し。
ああ、もう無理だ。
ますます好きになってしまう。
勉強の休憩時間、自動販売機でジュースを買って戻ってくると、春海は窓の外を眺めていた。
「どうした?」
「ん、蝉の声が聞こえるなって」
「ああ、夏だもんな」
「うん。夏休みって、なんか特別な感じがするよね」
春海はそう言って、僕の方を向いた。
「受験生だから、あんまり遊べないけど。でも、こうやって拓海くんと一緒に勉強できるのは楽しいな」
その言葉に、胸が苦しくなった。
春海は、僕といることを「楽しい」と言ってくれる。
でも、それは友達として。幼馴染として。
恋愛感情とは、きっと違う。
それでも。
それでも、僕は嬉しかった。
彼女の側にいられることが。
彼女が笑顔でいてくれることが。
「俺も、春海と一緒だと勉強頑張れる気がするよ」
素直にそう言うと、春海は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、これからも一緒に頑張ろうね!」
「ああ」
夏の日差しが、窓から差し込んでいた。
蝉の声が、遠くで響いている。
この瞬間を、ずっと忘れたくないと思った。
図書館を出た後、僕たちはコンビニに寄った。
「アイス食べたい!」
春海は子供みたいにはしゃぎながら、冷凍庫の前に立った。
「どれにしようかな〜」
真剣に悩んでいる春海の横顔を、僕はじっと見つめていた。
「拓海くんは何食べる?」
「俺は……これかな」
適当に一つ選ぶ。正直、何でも良かった。春海が嬉しそうにしているのを見られれば。
「じゃあ私はこれ!」
春海は迷った末に、いちご味のアイスを選んだ。
レジで会計を済ませ、外のベンチで一緒にアイスを食べる。
「美味しい〜!」
春海は幸せそうに目を細めた。
その姿が、たまらなく愛おしかった。
こんな些細な日常。
特別なことは何もない、ただの夏休みの一コマ。
でも、僕にとっては、かけがえのない時間だった。
春海の無邪気な笑顔。
何気ない仕草。
全部全部、好きで。
もう、どうしようもないくらい好きで。
でも、言えない。
この関係を壊したくないから。
「ねえ、拓海くん」
「ん?」
「これからも、ずっと一緒にいようね」
春海がふと呟いた。
「当たり前だろ」
僕は笑って答えた。
心の中で、ずっと一緒にいたいと願いながら。
でも、その「一緒」の意味が、僕と春海では違うことを知っていた。
それでも。
それでも、今はこれでいい。
そう、自分に言い聞かせた。
夏の日差しの中、僕たちはアイスを食べ終えた。
そして、それぞれの家へと帰っていった。
明日も、また一緒に勉強しよう。
そう約束して。
夏休みが終わり、二学期が始まった。
日焼けした顔、夏の思い出話、そして受験へのプレッシャー。教室には、いつもとは少し違う空気が流れていた。
僕と春海の関係は、相変わらずだった。朝は一緒に登校し、時々一緒に帰る。休日には図書館で勉強する。
そんな日常が、これからもずっと続くと思っていた。
でも、変化は突然訪れた。
九月の初め、ある日の昼休み。
僕が教室で弁当を食べていると、健斗が意味深な表情で話しかけてきた。
「なあ、拓海」
「ん?」
「春海ちゃん、最近誰かと仲良くなってないか?」
その言葉に、僕は箸を止めた。
「え、誰と?」
「隣のクラスの悠真。ほら、バスケ部のエースだった奴」
山本悠真。確かに聞いたことがある名前だった。背が高くて、爽やかで、女子からも人気がある男子。
「別に、知らないけど」
僕は平静を装って答えた。でも、胸の奥に嫌な予感がよぎった。
「いや、この前廊下で二人で話してるの見たんだよ。めっちゃ楽しそうに笑っててさ」
「……そう」
「お前、気にならないの?」
「別に。春海が誰と仲良くしようと、俺には関係ないし」
そう言いながら、心の中では激しく動揺していた。
春海と悠真。
二人が、仲良く話している。
その光景を想像するだけで、胸がざわついた。
放課後、僕は春海を待った。いつものように一緒に帰るつもりで。
でも、いつまで経っても春海は現れなかった。
LINEを開いて、メッセージを送ろうとした瞬間、廊下の向こうに春海の姿が見えた。
そして、その隣には——。
悠真がいた。
二人は楽しそうに話しながら、僕の方へ歩いてきた。春海が僕に気づいた。
「あ、拓海くん! ごめん、今日は先に帰ってて」
「え……」
「ちょっと悠真くんと用事があるの。また明日ね!」
そう言って、春海は悠真と一緒に去っていった。
僕は、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
それから、春海と悠真が一緒にいる姿を頻繁に見かけるようになった。
廊下で話している姿。
昼休みに中庭のベンチで座っている姿。
放課後、一緒に下校する姿。
見るたびに、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
ある日の昼休み、僕は一人で中庭を通りかかった。
そこに、春海と悠真がいた。
ベンチに並んで座り、何か話している。春海は楽しそうに笑っていた。
その笑顔は、いつも僕に向けてくれる笑顔と同じで。
でも、僕に向けられているわけじゃない。
悠真に向けられている。
それが、たまらなく辛かった。
僕は足を止め、遠くから二人を見つめた。
悠真が何か言うと、春海が笑う。
悠真が笑うと、春海も笑う。
息がぴったりだった。
まるで、昔からの友達みたいに。
いや、もしかしたら——それ以上の関係なのかもしれない。
「拓海、何見てんの?」
突然、後ろから声がかかった。振り向くと、健斗が立っていた。
「いや、何でもない」
「嘘つけ。春海ちゃんのこと見てただろ」
健斗は僕の視線の先を見て、小さくため息をついた。
「やっぱりな。お前、辛そうな顔してるぞ」
「してないよ」
「してる」
健斗は断言した。
「なあ、拓海。やっぱりちゃんと気持ち伝えた方がいいんじゃないか?」
「今更無理だよ」
僕は呟いた。
「もう、遅いんだ」
「何が遅いんだよ。まだ何も始まってないだろ」
「でも……」
言葉が続かなかった。
健斗は僕の肩を叩いた。
「諦めるのは、まだ早い」
そう言い残して、健斗は教室へ戻っていった。
一人残された僕は、もう一度春海たちの方を見た。
二人はまだ楽しそうに話していた。
僕の知らない話題で。
僕の知らない表情で。
そして、僕は気づいてしまった。
春海が、少しずつ遠くへ行ってしまっているということに。
それから、僕は少しずつ春海との距離を取るようになった。
自分から、距離を取った。
朝の登校は、わざと時間をずらした。
放課後は、春海を待たずに先に帰った。
LINEの返信も、遅くなった。
そうすれば、傷つかなくて済むと思ったから。
春海が悠真と仲良くしている姿を見なくて済むと思ったから。
でも、それは間違いだった。
距離を取れば取るほど、春海のことを考えてしまう。
今、春海は何をしているんだろう。
悠真と一緒にいるんだろうか。
楽しそうに笑っているんだろうか。
そんなことばかり考えて、勉強も手につかなかった。
ある日、春海からLINEが来た。
「拓海くん、最近冷たくない? 何かあった?」
その言葉に、胸が痛んだ。
春海は気づいていた。僕が距離を取っていることに。
でも、理由は言えなかった。
「何もないよ。ちょっと忙しいだけ」
そう返信した。
「そっか。でも、たまには一緒に帰ろうよ。寂しいよ」
「ごめん、塾があるから」
嘘をついた。
春海からの返信は、それきり来なかった。
きっと、傷つけてしまったんだろう。
でも、僕はこれ以上傷つきたくなかった。
自分を守るために、春海を遠ざけた。
教室で、健斗が呆れたように言った。
「お前、逃げてるだけじゃん」
「逃げてない」
「逃げてるよ。自分が傷つきたくないから、春海ちゃんを避けてる」
「違う」
「じゃあ何なんだよ」
健斗の言葉に、僕は答えられなかった。
「このままだと、本当に春海ちゃんを失うぞ」
その言葉が、胸に突き刺さった。
わかってる。
わかってるんだ。
でも、どうすればいいのかわからない。
気持ちを伝える勇気もない。
かといって、このまま距離を取り続けるわけにもいかない。
僕は、完全に行き詰まっていた。
九月の終わり。
涼しい風が吹き始め、秋の気配が感じられるようになった頃。
僕は、決定的な瞬間を目撃してしまった。
放課後、駅へ向かう道。
いつもの帰り道を一人で歩いていた。
前方に、見覚えのある二つの影が見えた。
春海と、悠真だ。
二人は並んで歩いている。
それだけなら、いつものことだった。
でも——。
次の瞬間、僕の足が止まった。
二人が、手を繋いでいた。
春海の右手と、悠真の左手が。
しっかりと、繋がれていた。
頭が真っ白になった。
心臓が、激しく音を立てている。
呼吸が、うまくできない。
二人は楽しそうに話しながら、そのまま歩いていく。
僕は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
どのくらいそうしていただろう。
気がつくと、二人の姿はもう見えなくなっていた。
僕は、その場にしゃがみ込んだ。
胸が、痛い。
苦しい。
涙が、溢れそうになる。
でも、泣くわけにはいかない。
こんなところで、泣くわけには。
「くそ……」
小さく呟いた。
自分の弱さが、情けなかった。
ずっと気持ちを伝えられなかった自分。
距離を取って、逃げていた自分。
全部、自分のせいだ。
春海は、悪くない。
悠真も、悪くない。
悪いのは、全部僕だ。
ようやく立ち上がり、重い足取りで家へと向かった。
家に着いても、食事も喉を通らなかった。
部屋に閉じこもり、ベッドに倒れ込む。
天井を見つめながら、あの光景が何度も頭に浮かぶ。
繋がれた二人の手。
春海の笑顔。
それが、悠真に向けられている事実。
もう、終わりなんだ。
僕の、片想いは。
スマートフォンを手に取り、春海とのLINEを開く。
最後のメッセージは、一週間前。
「また一緒に勉強しようね」
春海からのメッセージに、僕は「うん」とだけ返信していた。
それきり、何も送っていない。
指が震える。
何か、送りたい。
でも、何を送ればいいのかわからない。
結局、何も送らずにスマートフォンを置いた。
夜、眠れなかった。
目を閉じると、春海の顔が浮かぶ。
そして、悠真と繋いだ手が浮かぶ。
その繰り返し。
明日から、どうやって春海と接すればいいんだろう。
もう、いつも通りには戻れない。
そんなことを考えながら、朝を迎えた。
十月。
修学旅行の季節がやってきた。
行き先は京都。三泊四日の旅程で、寺社仏閣を巡り、日本の歴史と文化を学ぶ。
本来なら楽しみにすべきイベントのはずだった。
でも、僕の心は重かった。
新幹線の中でも、観光地を回っている時も、春海のことが頭から離れなかった。
彼女は別のクラス。行動班も違う。
だから、ほとんど顔を合わせることはなかった。
それが、少しだけ安心だった。
でも、三日目の夜。
その安心は、あっさりと崩れ去った。
宿舎は、京都の古い旅館だった。男女で階が分かれており、僕たちは二階に、女子は三階に宿泊していた。
夜、布団に入ってから、健斗が小声で話しかけてきた。
「なあ、拓海」
「ん?」
「お前、まだ春海ちゃんのこと引きずってるだろ」
「……」
答えなかった。答える必要もなかった。
「つらいよな」
健斗の声は、いつになく優しかった。
「でも、諦めるな。まだチャンスはあるかもしれないから」
「チャンスなんてないよ」
僕は呟いた。
「春海は、もう悠真のことが好きなんだ」
「それ、本人に確認したのか?」
「してないけど……」
「だったら、まだわからないだろ」
そう言われても、信じられなかった。
あの日見た光景。繋がれた二人の手。
あれを見て、まだ希望を持てというのは無理な話だ。
しばらく沈黙が続いた。
そして——。
「ねえねえ、春海ちゃんって、山本くんのこと好きなの?」
突然、上の階から女子の声が聞こえてきた。
旅館の作りが古いせいか、上の階の声が微かに聞こえてくる。
その声に、僕は思わず耳を澄ませた。
「え、何で?」
春海の声だった。
「だって、最近すっごく仲良いじゃん。いつも一緒にいるし」
「あ、うーん……」
春海は少し躊躇うように間を置いた。
そして——。
「実は、そうなの。好きかも」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が止まりそうになった。
「やっぱり! 絶対そうだと思った!」
「山本くん、かっこいいもんね」
「で、告白されたの? それとも春海ちゃんからする予定?」
「まだ何も言われてないけど……でも、この前手繋いでくれたんだ」
女子たちの黄色い声が響く。
「えー! それってもう付き合ってるみたいなもんじゃん!」
「そうかな……」
春海の照れた声が聞こえる。
僕は、布団の中で拳を握りしめた。
やっぱり、そうだったんだ。
春海は、悠真のことが好き。
そして、もうすぐ付き合うかもしれない。
「拓海……」
健斗が心配そうに声をかけてきたけれど、僕は何も答えられなかった。
ただ、歯を食いしばって、涙をこらえることしかできなかった。
その夜、僕はほとんど眠れなかった。
春海の言葉が、何度も何度も頭の中でリピートされる。
「実は、そうなの。好きかも」
その声が、耳から離れない。
朝になり、まだ暗いうちに目が覚めた。
時計を見ると、午前五時。
周りのみんなはまだ寝ている。
僕は静かに布団から抜け出し、旅館の外へ出た。
朝の京都は、まだひんやりとしていた。
旅館の前にある小さな庭園に座り、ぼんやりと空を見上げた。
どうすればいいんだろう。
この気持ちを、どうすれば。
「やっぱりここにいたか」
後ろから声がした。振り向くと、健斗が立っていた。
「健斗……」
「お前が布団から出て行くの、気づいてたんだ」
健斗は僕の隣に座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
ただ、静かな朝の空気の中で、時間だけが過ぎていく。
「つらいよな」
健斗がぽつりと呟いた。
「ずっと好きだったのに、伝えられなくて。そして、他の奴に取られそうになってる」
その言葉に、僕は何も返せなかった。
「でもな、拓海。お前は何も悪くない」
「俺が悪いんだよ」
僕は声を絞り出した。
「ずっと、気持ちを伝える勇気がなかった。逃げてばかりいた。だから、こうなったんだ」
「それは……」
「全部、俺のせいだ」
涙が、溢れそうになった。
でも、こらえた。
ここで泣いたら、もう立ち直れない気がした。
健斗は、何も言わずに僕の肩に手を置いた。
その温もりが、少しだけ心を落ち着かせてくれた。
「ありがとう、健斗」
「何がだよ」
「いつも、気にかけてくれて」
「当たり前だろ。お前は親友なんだから」
健斗は笑った。
「でも、まだ諦めるなよ。人生、何が起こるかわからないから」
「……ああ」
本当は、もう諦めかけていた。
でも、健斗の言葉に、少しだけ救われた気がした。
太陽が、ゆっくりと昇り始めていた。
新しい一日が、始まろうとしている。
でも、僕の心の中は、まだ暗いままだった。
修学旅行の最終日。
午前中は自由行動で、僕たちの班は清水寺と地主神社を訪れることにした。
清水の舞台から京都の街を見下ろし、その後、恋愛成就で有名な地主神社へ向かった。
「おー、ここが恋愛の神社か」
班のメンバーの一人が言った。
「せっかくだし、お参りしていこうぜ」
みんなでお賽銭を入れ、手を合わせる。
僕も、形だけお参りした。
でも、願い事は思い浮かばなかった。
今更、恋愛成就を願ったところで、何も変わらない。
「おみくじ引いてみようぜ」
健斗が提案した。
「おみくじか……」
「たまにはいいじゃん。旅の思い出ってことで」
みんなでおみくじを引くことにした。
僕も、何となく一枚引いた。
開いてみると——。
「末吉」
悪くはない。でも、良くもない。
そして、恋愛運の欄に目を移した瞬間、息が止まった。
「未練は捨てよ。新たな道を歩むべし」
その言葉が、目に飛び込んできた。
まるで、僕に向けられたメッセージのようだった。
「拓海、何出た?」
健斗が覗き込んできた。
「末吉」
「まあまあだな。俺は大吉だったぜ」
健斗は嬉しそうに自分のおみくじを見せた。
僕は、自分のおみくじをもう一度見つめた。
「未練は捨てよ」
神様は、僕に諦めろと言っているのだろうか。
春海への想いを、捨てろと。
でも、そんなこと——。
「拓海、どうした? 顔色悪いぞ」
「いや、何でもない」
僕はおみくじを結び所に結んだ。
そして、神社を後にした。
帰りのバスの中で、僕は窓の外を眺めていた。
京都の街が、どんどん遠ざかっていく。
修学旅行も、もうすぐ終わる。
そして、この旅行で、僕ははっきりと理解した。
春海は、もう僕のものではない。
いや、最初から僕のものではなかった。
ただ、僕が勝手に想いを寄せていただけ。
それを、受け入れなければならない。
「未練は捨てよ」
おみくじの言葉が、何度も頭の中で繰り返された。
修学旅行から帰ってきた次の日。
学校は、旅行の疲れを引きずりながらも、いつも通りの日常が戻っていた。
昼休み、僕は一人で中庭のベンチに座っていた。
弁当を食べながら、ぼんやりと空を見上げる。
すると、視界の端に見覚えのある姿が映った。
春海だ。
そして、その隣には悠真がいた。
二人は、ベンチに並んで座っている。
弁当を広げて、楽しそうに話している。
悠真が何か言うと、春海が笑う。
春海が何か言うと、悠真が笑う。
その光景が、まるでドラマのワンシーンのように美しかった。
二人は、本当にお似合いだ。
明るくて、爽やかで、誰から見ても完璧なカップル。
僕なんかより、ずっと春海にふさわしい。
そう思うと、胸が締め付けられた。
僕は、弁当を食べる気力を失った。
ただ、遠くから二人を見つめることしかできなかった。
「拓海」
突然、後ろから声がかかった。
振り向くと、健斗が立っていた。
「また見てるのか」
「……」
「お前、本当に辛そうだな」
健斗は僕の隣に座った。
「でもな、見てるだけじゃ何も変わらないぞ」
「わかってる」
「わかってないだろ」
健斗は少し強い口調で言った。
「お前は、ずっと逃げてる。春海ちゃんから、自分の気持ちから、全部から」
「それは……」
「このまま何もしないで、後悔しないのか?」
その言葉に、僕は答えられなかった。
後悔——。
もう、十分してる。
あの時、気持ちを伝えていれば。
距離を取らずに、もっと春海の側にいれば。
そうすれば、何か変わっていたかもしれない。
でも、全部後の祭りだ。
「もう、遅いんだよ」
僕は呟いた。
「春海は、悠真のことが好きなんだ。それは変えられない」
「それでも——」
「もういいんだ」
僕は立ち上がった。
「俺、教室戻るわ」
そう言って、健斗を残してその場を去った。
後ろから健斗の視線を感じたけれど、振り向かなかった。
教室に戻る途中、もう一度だけ春海たちの方を見た。
二人はまだ、楽しそうに話していた。
僕の知らない世界で。
僕のいない場所で。
それが、たまらなく寂しかった。
でも、もう慣れなければならない。
春海のいない日常に。
春海を想わない日々に。
それが、僕に残された道だから。
十一月。
秋も深まり、街は紅葉で彩られていた。
そして、十一月十五日。
春海の誕生日がやってきた。
毎年、僕は春海に誕生日プレゼントを渡していた。
小さい頃は、手作りのカードや折り紙。
中学生になってからは、文房具や小物。
高校生になってからは、もう少し気の利いたものを選ぶようになった。
今年も、一ヶ月前から何を贈ろうか考えていた。
本屋で見つけた、春海が好きそうな小説。
雑貨屋で見つけた、可愛いブックマーク。
そして、彼女が好きだと言っていたアーティストのCDアルバム。
それらを全部買って、丁寧にラッピングした。
でも——。
誕生日当日、僕はそのプレゼントを渡すことができなかった。
朝、いつものように家を出ると、春海はもういなかった。
最近は、登校時間をずらしていたから、会うこともなくなっていた。
学校に着いても、春海の姿は見えなかった。
昼休み、中庭を通りかかると、春海と悠真がいた。
悠真が、小さな箱を春海に手渡していた。
「誕生日おめでとう、春海」
「ありがとう、悠真くん!」
春海は嬉しそうに笑って、その箱を受け取った。
おそらく、プレゼントだろう。
悠真が、春海に誕生日プレゼントを渡している。
その光景を見て、僕は自分が渡す資格などないと思った。
今の春海にとって、大切なのは悠真だ。
僕じゃない。
だったら、僕がプレゼントを渡したところで、迷惑なだけかもしれない。
放課後、僕はリュックの中のプレゼントを見つめた。
綺麗にラッピングされた、小さな包み。
これを、春海に渡したかった。
でも、できなかった。
結局、そのプレゼントは僕の部屋の引き出しの奥にしまった。
いつか、渡せる日が来るだろうか。
それとも、このまま永遠に渡せないままなんだろうか。
わからなかった。
その日の夜、僕はベッドに横たわりながらスマートフォンをいじっていた。
SNSを開くと、タイムラインにクラスメイトの投稿が流れてきた。
そして——。
その中に、ある写真があった。
スクロールする手が、止まった。
画面には、春海と悠真が並んで写っていた。
二人とも笑顔で、とても幸せそうだった。
キャプションには、「春海ちゃん誕生日おめでとう!お似合いすぎる二人♡」と書かれていた。
いいねの数は、すでに百を超えていた。
コメント欄には、「お似合い!」「付き合ってるの?」「可愛い!」という言葉が並んでいる。
僕は、その写真をじっと見つめた。
春海の笑顔。悠真の笑顔。
二人の距離の近さ。
そして、何より——二人が本当に幸せそうなこと。
胸が、締め付けられるように痛かった。
でも、不思議と怒りは湧いてこなかった。
ただ、寂しかった。
自分がその写真の中にいないこと。
春海の隣にいるのが、自分じゃないこと。
春海をこんなに笑顔にできるのが、自分じゃないこと。
全部が、ただただ寂しかった。
僕は、その投稿を保存した。
なぜかはわからない。
自分を苦しめるだけだとわかっていても、保存せずにはいられなかった。
その後、何度もその写真を見返した。
見るたびに胸が痛んだ。
でも、見ずにはいられなかった。
これが、現実なんだ。
春海は、悠真と一緒にいる。
そして、幸せそうだ。
僕にできることは、何もない。
ただ、遠くから見守ることしか。
スマートフォンを置いて、目を閉じた。
でも、瞼の裏には、あの写真が焼き付いていた。
二人の笑顔が。
幸せそうな姿が。
そして、僕のいない世界が。
眠れない夜が、また始まった。
次の日、僕は学校に行きたくなかった。
春海に会いたくなかった。
昨日の写真を思い出してしまうから。
でも、休むわけにもいかない。
重い体を引きずって学校へ向かった。
教室に入ると、いつものようにクラスメイトたちが談笑していた。
誰かが、昨日の写真の話をしている。
「春海ちゃんと山本くん、マジでお似合いだよね」
「絶対付き合ってるでしょ」
「いいなあ、青春って感じ」
その会話が、耳に痛かった。
僕は何も言わず、自分の席に座った。
「おはよう、拓海」
健斗が声をかけてきた。
「……おはよう」
「顔色悪いぞ。大丈夫か?」
「大丈夫」
嘘だった。全然大丈夫じゃなかった。
健斗は、僕の様子を見て何かを察したようだった。
「昨日のSNS、見たのか」
「……ああ」
「そっか」
しばらく沈黙が続いた。
そして、授業が始まるチャイムが鳴った。
一日中、僕は上の空だった。
授業の内容も、先生の話も、何も頭に入ってこない。
ただ、時間が過ぎるのを待つだけだった。
放課後、健斗が僕を屋上に呼び出した。
「話がある」
そう言って、有無を言わさず連れて行かれた。
屋上に着くと、健斗は真剣な表情で僕を見た。
「なあ、拓海。お前、このままでいいのか?」
「何が?」
「春海ちゃんのこと。このまま何もせずに、諦めるのか?」
「もう諦めてるよ」
僕は力なく答えた。
「春海は悠真のことが好きなんだ。それは変えられない」
「でも、お前はまだ春海ちゃんのことが好きなんだろ?」
その言葉に、僕は答えられなかった。
「好きだよ」
小さく呟いた。
「今でも、好きだ。でも、それがどうしたんだよ。春海の気持ちは変わらない」
「お前、気持ち伝えたのか?」
「伝えてない」
「だったら、わからないだろ!」
健斗は声を荒げた。
「お前が伝えてないんだから、春海ちゃんはお前の気持ちを知らない。知らないまま、他の奴のところに行っちゃったんだ」
「でも……」
「でも、じゃない」
健斗は僕の肩を掴んだ。
「それでも好きなんだろ? だったら、ちゃんと伝えろよ」
「今更無理だよ」
「無理じゃない。まだ遅くない」
「遅いよ。もう、春海は——」
「まだ付き合ってないだろ!」
健斗の言葉に、僕は言葉を失った。
「確かに、春海ちゃんは山本のことが好きかもしれない。でも、まだ正式に付き合ってるわけじゃないんだろ? だったら、まだチャンスはある」
「でも……」
「お前は、このまま何もしないで後悔するのか? 一生、『あの時伝えていれば』って思いながら生きるのか?」
健斗の目は、本気だった。
親友として、僕のことを心配してくれている。
その気持ちが、痛いほど伝わってきた。
「俺は……」
言葉が続かなかった。
健斗はため息をついた。
「まあ、無理にとは言わない。でも、考えろ。本当にこのままでいいのか。後悔しないのか」
そう言い残して、健斗は屋上を後にした。
一人残された僕は、フェンスに寄りかかった。
空は、灰色の雲に覆われていた。
今にも雨が降り出しそうだ。
健斗の言葉が、頭の中で繰り返される。
「それでも好きなんだろ?」
ああ、好きだよ。
今でも、春海のことが好きだ。
彼女の笑顔が見たい。
彼女の声が聞きたい。
彼女と一緒にいたい。
でも——。
その気持ちを伝える勇気が、僕にはなかった。
その日の夜。
家に帰っても、健斗の言葉が頭から離れなかった。
「このまま何もしないで後悔するのか?」
後悔——。
もう、十分している。
あの時、気持ちを伝えていれば。
距離を取らずに、ずっと春海の側にいれば。
そうすれば、何か変わっていたかもしれない。
でも、全部手遅れだ。
春海は、もう悠真のことが好きなんだ。
それは、変えられない。
部屋のベッドに横たわり、天井を見つめた。
春海との思い出が、次々と浮かんでくる。
小さい頃、一緒に公園で遊んだこと。
小学生の時、一緒に帰り道で寄り道したこと。
中学生の時、一緒に勉強したこと。
高校生になって、一緒に登校したこと。
全部、全部、大切な思い出。
でも、もうあの頃には戻れない。
春海は、僕の知らないところで成長して。
僕の知らない人と、恋をして。
そして、僕の手の届かないところへ行ってしまった。
気づいたら、涙が溢れていた。
止めようとしても、止まらなかった。
初めてだった。
こんなに、心の底から泣いたのは。
声を殺して泣いた。
枕に顔を埋めて、誰にも聞こえないように。
でも、涙は止まらなかった。
好きだ。
春海のことが、好きだ。
今でも、ずっと、好きだ。
でも、伝えられない。
伝える勇気がない。
そして、もう遅い。
そう思うと、また涙が溢れた。
どのくらい泣いていただろう。
気づいたら、枕はびしょびしょに濡れていた。
体から力が抜けて、もう何も考えられなくなっていた。
ただ、虚無感だけが残っていた。
これで、終わりなんだ。
僕の初恋は、こうして終わる。
伝えることもなく。
叶うこともなく。
ただ、一人で泣いて終わる。
それが、僕の青春だった。
スマートフォンを手に取り、春海とのLINEを開いた。
最後のメッセージは、二週間前。
もう、何も送っていない。
指が震える。
何か、送りたい。
でも、何を送ればいいのかわからない。
「おやすみ」
ただ、それだけ打って、送信ボタンを押した。
すぐに、既読がついた。
そして、返信が来た。
「おやすみ、拓海くん」
それだけ。
でも、その言葉だけで、また涙が溢れた。
春海。
大好きだよ。
本当に、大好きだ。
でも、もう伝えられない。
伝える資格もない。
心の中で、何度も何度も繰り返した。
そして、いつの間にか眠りに落ちていた。
疲れ果てた体と心が、休息を求めていた。
夢の中で、春海が笑っていた。
でも、その隣にいるのは、僕じゃなかった。
悠真だった。
二人は手を繋いで、楽しそうに歩いている。
僕は、ただ遠くから見ているだけ。
声をかけようとしても、声が出ない。
手を伸ばそうとしても、届かない。
春海は、どんどん遠くへ行ってしまう。
「待って」
叫んだ。
でも、届かなかった。
春海の姿が、小さくなっていく。
そして、消えた。
目が覚めた。
朝だった。
窓から差し込む光が、部屋を照らしている。
涙の跡が残る枕。
重い体。
そして、空っぽの心。
これが、僕の現実だった。
春海のいない現実。
それを、受け入れなければならない。
ゆっくりと体を起こし、窓の外を見た。
空は晴れていた。
新しい一日が、始まろうとしている。
でも、僕の心には、まだ雨が降り続けていた。
十一月の半ば。
放課後、僕は何となく音楽室の前を通りかかった。
普段はあまり来ない場所だ。音楽の授業以外で、ここに来ることはほとんどない。
でも、その日は不思議と足が向いていた。
音楽室のドアは少し開いていて、中からピアノの音が聞こえてきた。
誰かが練習しているのだろう。
その音色は、どこか切なくて、優しかった。
僕は、ドアの隙間から中を覗いた。
そこには、春海がいた。
ピアノの前に座り、静かに鍵盤を叩いている。
その姿を見た瞬間、古い記憶が蘇ってきた。
小学三年生の時。
僕と春海は、同じ音楽クラブに入っていた。
春海はピアノを、僕はリコーダーを担当していた。
ある日の練習後、春海が一人でピアノを弾いていた。
「何弾いてるの?」
僕が聞くと、春海は恥ずかしそうに笑った。
「えっとね、自分で考えた曲」
「自分で? すごいじゃん」
「まだ途中だけどね。いつか完成させたいな」
そう言って、春海はまた鍵盤に向かった。
その時の春海の横顔が、今でも鮮明に思い出せる。
真剣で、でもどこか楽しそうで。
音楽を心から愛している表情だった。
そして、今。
目の前にいる春海は、あの頃と同じ表情でピアノを弾いていた。
時が止まったように、何も変わっていないように見えた。
でも、違う。
僕たちは、もう小学生じゃない。
高校三年生。もうすぐ卒業する。
そして、それぞれの道を歩んでいく。
春海の道に、僕はもういない。
そう思うと、胸が締め付けられた。
ピアノの音が止まった。
春海が、こちらを向いた。
「……拓海くん?」
僕は、慌ててドアから離れようとした。
でも、遅かった。
「どうしたの? こんなところで」
春海が、ドアを開けた。
「あ、いや、たまたま通りかかって」
「そっか。聞こえてた? ピアノ」
「ああ、少し」
「恥ずかしいな」
春海は照れくさそうに笑った。
その笑顔が、眩しかった。
「久しぶりだね、こうやって話すの」
春海の言葉に、僕は何も答えられなかった。
確かに、久しぶりだった。
ちゃんと二人で話すのは、いつ以来だろう。
「最近、拓海くん冷たいから。何か悪いことしたかな」
「そんなことない」
即座に否定した。
悪いのは、春海じゃない。
僕だ。
勝手に好きになって、勝手に傷ついて、勝手に距離を取った。
全部、僕が悪いんだ。
「本当に?」
春海は不安そうに僕を見つめた。
その瞳が、あまりにも純粋で。
僕は、目を逸らしてしまった。
「本当だよ。ただ、ちょっと忙しくて」
「そっか……」
春海は、少し寂しそうに微笑んだ。
「でも、良かった。拓海くんが嫌ってるわけじゃないんだね」
「嫌うわけないだろ」
僕は言った。
本当に。
嫌いなんかじゃない。
むしろ、好きすぎて辛いんだ。
でも、それは言えなかった。
「あのね、拓海くん」
春海が、ふと口を開いた。
「覚えてる? 小学生の時、一緒に音楽クラブにいたこと」
「ああ、覚えてる」
「あの頃は楽しかったね」
春海は懐かしそうに笑った。
「拓海くんのリコーダー、すごく上手だったよね」
「そんなことないって」
「いや、本当に。私、拓海くんの演奏好きだったんだ」
その言葉に、胸が温かくなった。
でも、同時に切なくもなった。
あの頃は、まだこんなに複雑じゃなかった。
ただの幼馴染で、ただの友達で。
でも、今は違う。
僕は春海を好きになってしまった。
そして、春海は違う人を好きになった。
もう、あの頃には戻れない。
「また、いつか一緒に演奏できたらいいね」
春海が言った。
「ああ……そうだな」
僕は曖昧に答えた。
「いつか」がいつ来るのか、わからなかったから。
もしかしたら、永遠に来ないかもしれない。
「じゃあ、私もうちょっと練習するね」
「ああ、頑張って」
春海は音楽室に戻っていった。
そして、またピアノの音が響き始めた。
僕は、その場を離れた。
でも、春海の弾くピアノの音は、廊下の先まで聞こえていた。
切なくて、優しくて、温かい音色。
それが、僕の心に深く染み込んでいった。
次の日の放課後。
僕はまた、音楽室の前を通りかかった。
昨日と同じように、中からピアノの音が聞こえてきた。
今日も春海がいるのだろうか。
そう思いながら、ドアの隙間から覗いた。
やはり、春海がいた。
でも、今日は一人じゃなかった。
ピアノの横に、メトロノームが置かれていた。
カチッ、カチッ、カチッ。
規則正しいリズムが、部屋に響いている。
春海は、そのリズムに合わせてピアノを弾いていた。
僕は、その光景をじっと見つめた。
メトロノームの音。
それは、時の流れを刻む音。
止まることなく、淡々と進んでいく時間。
春海は、その時間の中で前に進んでいる。
新しい恋をして。
新しい未来を描いて。
でも、僕は——。
僕は、まだあの夏に立ち止まったままだ。
春海を好きになった、あの時から。
時間は進んでいるのに、僕の心だけが取り残されている。
カチッ、カチッ、カチッ。
メトロノームの音が、心臓の鼓動と重なった。
どちらも、規則正しく響いている。
でも、どちらも冷たくて、機械的で。
感情なんてない。
ただ、時を刻んでいるだけ。
僕の心も、そうなってしまったのだろうか。
春海への想いを押し殺して。
ただ、日々を過ごしているだけ。
生きているけれど、生きている実感がない。
そんな毎日。
ピアノの音が止まった。
メトロノームだけが、カチッ、カチッと鳴り続けている。
春海が、ふと立ち上がった。
そして、メトロノームを止めた。
静寂が訪れた。
春海は、窓の外を見つめていた。
その横顔は、どこか寂しそうに見えた。
もしかして、春海も何か悩んでいるんだろうか。
悠真とのこと?
それとも、受験のこと?
わからない。
もう、僕は春海の心の中を知ることができない。
距離を取ってしまったから。
自分から、彼女を遠ざけてしまったから。
春海は、小さくため息をついた。
そして、また椅子に座り、ピアノに向かった。
でも、鍵盤に触れることはなかった。
ただ、じっと鍵盤を見つめている。
その姿が、あまりにも切なくて。
僕は、ノックをした。
コンコン。
春海が振り向いた。
「拓海くん」
驚いた表情で、春海が僕を見た。
「また来たんだ」
「ああ、たまたま」
嘘だった。
偶然じゃない。
春海に会いたくて、ここに来たんだ。
でも、それは言えなかった。
「どうぞ、入って」
春海が微笑んだ。
僕は、音楽室に入った。
久しぶりに入る音楽室。
懐かしい匂い。懐かしい空気。
そして、春海がいる。
「メトロノーム、使ってたんだな」
「うん。リズムを正確に取るために」
春海は、メトロノームを指差した。
「でも、なんか息苦しくなっちゃって」
「息苦しい?」
「うん。機械的すぎるっていうか。音楽って、もっと自由でいいはずなのに」
春海は少し悲しそうに笑った。
「メトロノームに合わせようとすると、なんか自分らしさがなくなっちゃう気がして」
その言葉が、胸に刺さった。
メトロノームに合わせる。
規則正しく、正確に。
でも、それは本当の自分じゃない。
僕も、そうなのかもしれない。
周りに合わせて。
普通を装って。
でも、心の中では苦しんでいる。
「春海らしく弾けばいいんじゃないか」
僕は言った。
「メトロノームなんて気にせずに」
「でも、正確じゃないとダメだって言われて」
「誰に?」
「音楽の先生。コンクールに出るなら、正確なリズムが必要だって」
「コンクール?」
「うん。卒業前に、一度挑戦してみたくて」
春海は少し照れくさそうに笑った。
「でも、自信ないんだよね」
「春海なら大丈夫だよ」
僕は言った。
「小学生の時から、ずっとピアノ好きだったじゃないか。その気持ちがあれば、きっとうまくいく」
「拓海くん……」
春海は、僕を見つめた。
その瞳は、少し潤んでいるように見えた。
「ありがとう。そう言ってもらえると、自信が出る」
「いや、本当のことだから」
僕は照れくさくなって、視線を逸らした。
しばらく、沈黙が続いた。
カチッ、カチッ、カチッ。
またメトロノームが鳴り始めた。
あれ? さっき止めたはずなのに。
見ると、春海がメトロノームを動かしていた。
「やっぱり、これがないと不安で」
春海は苦笑した。
「矛盾してるよね」
「そんなことないよ」
僕は言った。
「不安な時は、何かに頼りたくなるのは当然だ」
「拓海くんは、何か頼ってる?」
突然の質問に、僕は言葉に詰まった。
頼っているもの?
ない。
強いて言えば——春海だった。
春海の存在が、僕を支えていた。
でも、もうそれも言えない。
「わからない」
僕は正直に答えた。
「でも、いつか見つかるといいな」
「そうだね」
春海は優しく微笑んだ。
その笑顔が、あまりにも眩しくて。
僕は、もうこの場にいられなくなった。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「え、もう?」
「ああ、用事があるから」
嘘だった。
何の用事もない。
ただ、これ以上ここにいたら、泣いてしまいそうだったから。
「そっか。じゃあね、拓海くん」
「ああ、また」
音楽室を出て、廊下を歩く。
後ろから、またピアノの音が聞こえてきた。
そして、その音に重なるように、メトロノームの音も。
カチッ、カチッ、カチッ。
時を刻む音。
僕の心臓も、それに合わせて鼓動している。
でも、その音は冷たくて、寂しかった。
十一月の終わり。
学校では、文化祭の準備が始まっていた。
高校最後の文化祭。
みんな張り切っていて、教室は活気に満ちていた。
僕たちのクラスは、劇をすることになった。
脚本を書く係、演出を担当する係、大道具を作る係——。
みんな、それぞれの役割を果たしている。
僕は、大道具を作る係になった。
あまり目立たない役割だけれど、それが僕には合っていた。
放課後、体育館の裏で大道具を作っていると、誰かが話しかけてきた。
「拓海くん」
振り向くと、春海がいた。
「春海」
「今、大丈夫? ちょっと話したいことがあるんだけど」
春海の表情は、いつもより真剣だった。
「ああ、大丈夫」
僕は作業の手を止めた。
「どうしたの?」
「ここじゃなくて、ちょっと場所変えていい?」
「わかった」
僕たちは、体育館の裏から中庭へと移動した。
夕日が西に傾き、空はオレンジ色に染まっていた。
ベンチに座り、しばらく沈黙が続いた。
春海は、何か言いたそうにしていたけれど、なかなか言葉が出てこないようだった。
「春海、どうしたんだ?」
僕から切り出した。
春海は、小さく息を吸って、口を開いた。
「あのね、拓海くん。私、ずっと気になってたことがあって」
「何?」
「最近の拓海くん、すごく冷たい気がするの」
その言葉に、僕は何も答えられなかった。
「昔は、もっと一緒にいたよね。一緒に登校して、一緒に帰って、一緒に勉強して」
「……ああ」
「でも、最近は全然。私、何か悪いことした?」
春海の瞳は、不安そうに揺れていた。
「してないよ」
僕は答えた。
「春海は、何も悪くない」
「じゃあ、どうして?」
「それは……」
言葉が出てこなかった。
理由を説明できない。
春海のことが好きだから。
でも、春海は悠真のことが好きだから。
だから、距離を取ったんだ。
そんなこと、言えるはずがない。
「ごめん」
僕はただ謝ることしかできなかった。
「ちょっと、いろいろあって」
「いろいろって?」
春海は食い下がる。
「教えてよ、拓海くん。私たち、幼馴染じゃん。何でも話せる仲だと思ってた」
その言葉が、胸に刺さった。
幼馴染。
そう、僕たちは幼馴染だ。
でも、僕は春海のことを、それ以上の存在として見てしまった。
そして、その気持ちを隠すために、距離を取った。
「春海」
僕は意を決して口を開いた。
これが、最後のチャンスかもしれない。
春海と、ちゃんと話せる最後の機会。
「俺、実は——」
言いかけた瞬間。
「春海!」
後ろから声がした。
振り向くと、悠真が立っていた。
「悠真くん」
春海が立ち上がった。
「ごめん、待った?」
「ううん、今来たところ」
悠真は春海の隣に立った。
そして、僕に気づいた。
「あ、君は……確か春海の幼馴染の」
「橋本拓海」
「そうだ、橋本くん。よろしく」
悠真は爽やかに笑って、手を差し出した。
僕は、その手を握った。
大きくて、温かい手だった。
「じゃあ、行こうか、春海」
「うん。あ、拓海くん、続きはまた今度でいい?」
春海が申し訳なさそうに言った。
「ああ、大丈夫」
僕は笑顔を作った。
「じゃあね」
「うん、またね」
春海と悠真は、並んで歩いていった。
二人の背中を見送りながら、僕は深くため息をついた。
結局、何も言えなかった。
最後のチャンスだったのに。
また、逃してしまった。
もう、本当に遅いんだ。
春海は、悠真のものだ。
僕が入る隙間なんて、どこにもない。
夕日が、どんどん沈んでいく。
空の色が、オレンジから紫へと変わっていく。
そして、やがて暗闇が訪れる。
僕の恋も、そうやって終わっていくんだろう。
静かに、音もなく。
誰にも気づかれないまま。
その日の夜、僕は自分の部屋で一人、考え込んでいた。
今日、春海に何かを伝えようとした。
でも、結局何も言えなかった。
悠真が来たから——それは言い訳だ。
本当は、悠真が来る前に言えたはずだった。
でも、言わなかった。
いや、言えなかった。
なぜ?
答えは簡単だ。
怖かったからだ。
春海に気持ちを伝えて、断られるのが怖かった。
今の関係さえも失ってしまうのが怖かった。
だから、何も言えなかった。
ベッドに横たわり、天井を見つめる。
スマートフォンを手に取り、春海とのLINEを開く。
何か送ろうか。
でも、何を送ればいいのかわからない。
指が震える。
文字を打とうとしても、すぐに消してしまう。
結局、何も送れなかった。
僕は、本当に臆病だ。
春海への想いを、誰にも言えない。
春海本人にも、言えない。
ただ、心の中で叫ぶことしかできない。
好きだ、と。
大好きだ、と。
でも、その声は誰にも届かない。
ただ、自分の中で響くだけ。
窓の外を見ると、月が出ていた。
満月に近い、大きな月。
あの月は、春海も見ているだろうか。
同じ月を見ながら、何を思っているんだろう。
悠真のことを、考えているのかな。
そう思うと、また胸が痛んだ。
スマートフォンに通知が来た。
LINEだ。
春海からだった。
心臓が、ドキッと跳ねた。
メッセージを開く。
「今日はごめんね。途中で悠真くんが来ちゃって」
「また、ゆっくり話そうね」
それだけだった。
僕は、返信を考えた。
「ああ、大丈夫。気にしないで」
打ち込んで、送信する。
すぐに既読がついた。
でも、返信は来なかった。
春海は、今何をしているんだろう。
悠真と電話でもしているのかな。
そんなことを考えると、また苦しくなった。
もう、やめよう。
考えるのを、やめよう。
どうせ、何も変わらないんだから。
僕は、スマートフォンを枕元に置いた。
そして、目を閉じた。
でも、眠れなかった。
春海のことが、頭から離れない。
春海の笑顔。
春海の声。
春海の全て。
それが、僕を苦しめる。
好きだという気持ちが、僕を苦しめる。
でも、嫌いになることはできない。
諦めることもできない。
ただ、この想いを抱えたまま、日々を過ごすしかない。
それが、僕の運命なんだ。
時計を見ると、もう深夜一時を回っていた。
明日も学校がある。
寝なければ。
でも、眠れない。
そんな夜が、また始まった。
春海を想う、長い夜が。
十二月に入り、冬が本格的に訪れた。
校庭の木々は葉を落とし、冷たい風が吹き抜ける。
教室では、暖房が効いていて、窓は結露で曇っている。
そして、カレンダーを見るたびに気づく。
卒業まで、あと三ヶ月しかない。
クラスの雰囲気も、少しずつ変わっていった。
進路が決まった者、まだ受験勉強を続けている者。
それぞれが、卒業後の未来を意識し始めていた。
「なあ、卒業したらどうする?」
ある日の昼休み、健斗が聞いてきた。
「どうするって?」
「大学決まったら、何したい?」
「うーん、まだわからないな」
正直、そんなことを考える余裕もなかった。
春海のことで頭がいっぱいで。
「俺は、バイトしてバイク買うんだ」
健斗は嬉しそうに言った。
「で、夏休みに日本一周したい」
「いいな、それ」
「お前も一緒に来る?」
「考えとくよ」
曖昧に答えた。
その頃、僕がどこにいるのか、何をしているのか。
想像もつかなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
春海とは、もう一緒にいない。
それだけは、わかっていた。
放課後、廊下を歩いていると、春海とすれ違った。
「あ、拓海くん」
「春海」
一瞬、立ち止まる。
でも、すぐに歩き出した。
「待って」
春海が呼び止めた。
「何?」
「あのね、文化祭のこと」
「文化祭?」
「私のクラス、演劇やるんだけど、良かったら見に来て」
「ああ……わかった」
「本当に? 約束だよ」
春海は嬉しそうに笑った。
「うん、約束」
僕も笑顔を作った。
でも、心の中では、約束を守れる自信がなかった。
春海の演劇を見に行く。
それは、また傷つくことを意味していた。
でも、断れなかった。
春海の期待を裏切ることが、できなかった。
「じゃあね、拓海くん」
「ああ、またな」
春海が去っていく。
その背中を見送りながら、僕は小さくため息をついた。
卒業まで、あと三ヶ月。
この三ヶ月を、どう過ごせばいいんだろう。
春海を忘れることもできず。
かといって、気持ちを伝える勇気もなく。
ただ、日々が過ぎていくのを待つだけ。
それが、僕の現実だった。
教室に戻ると、窓の外は雪が降り始めていた。
今年初めての雪。
白い結晶が、静かに舞い降りてくる。
その光景を見ながら、僕は思った。
雪のように、この想いも溶けてなくなればいいのに。
そうすれば、もっと楽になれるのに。
でも、現実はそう甘くなかった。
春海への想いは、雪のように溶けることはなかった。
むしろ、日が経つにつれて、ますます強くなっていった。
好きだ。
今でも、ずっと。
その想いだけが、僕の心を支配していた。
十二月の半ば。文化祭の日がやってきた。
校内は、生徒たちの熱気で溢れていた。出し物の準備、装飾、リハーサル——。みんな、最後の文化祭を楽しもうと必死だった。廊下には手作りの看板が並び、各クラスの出し物を宣伝している。教室からは笑い声や音楽が聞こえてくる。
僕たちのクラスの劇も、午前中に無事に終わった。演目は『星の王子さま』。大道具が少し倒れるハプニングはあったけれど、なんとか乗り切った。観客からは大きな拍手をもらい、クラスメイトたちは満足そうだった。
「お疲れ様、拓海!」
健斗が背中を叩いてきた。
「大道具、完璧だったぞ」
「いや、途中で倒れたじゃん」
「あれは演出ってことで」
健斗は笑った。彼はいつでも、物事をポジティブに捉える。
午後、僕は春海のクラスの演劇を見に行った。約束だから。あの日、文化祭の演劇を見に来てほしいと言われていた。断る理由もなかった。いや、本当は行きたかった。春海の演技を見たかった。
体育館は、すでに多くの観客で埋まっていた。春海のクラスの演劇は人気があるらしく、立ち見の人もいる。僕は、後ろの方の席になんとか座ることができた。
そして、開演を待った。胸が、ドキドキしている。緊張しているのか、期待しているのか、自分でもわからない。
幕が開いた。舞台には、春海が立っていた。
主役ではなかったけれど、重要な役どころだった。春海は、純粋で優しい少女の役を演じていた。
春海の演技は、素晴らしかった。セリフを言う時の表情。動きの一つ一つ。感情の込め方。全てが、役になりきっていた。
僕は、ただ見入ることしかできなかった。
こんなに輝いている春海を、久しぶりに見た気がした。いや、もしかしたら初めて見たのかもしれない。
舞台の上の春海は、いつもとは違っていた。より大人びていて、より美しくて。そして、手の届かない存在に思えた。まるで、別世界の人のように。
ストーリーが進んでいく。春海の演じる少女は、困難に直面しながらも、希望を失わずに前に進んでいく。その姿が、どこか春海自身と重なって見えた。
劇が終わり、大きな拍手が湧き起こった。観客たちは立ち上がり、スタンディングオベーションをしている。僕も、精一杯拍手した。手のひらが赤くなるまで。
キャストたちが舞台に並び、お辞儀をする。その中に、春海がいた。笑顔で、誇らしげに。頬が紅潮していて、達成感に満ちた表情。
その瞬間、春海の視線が僕の方を向いた。目が合った。
春海は、少し驚いたような表情をした。まさか僕が来ているとは、思っていなかったのかもしれない。でも、すぐに笑顔になった。満面の笑みで、小さく手を振った。
僕も、手を振り返した。でも、すぐに視線を逸らしてしまった。春海の笑顔が、眩しすぎたから。直視できないくらい、輝いていたから。
劇が終わり、観客たちが体育館を出ていく。僕も、その流れに乗って外に出た。廊下は人でごった返していて、前に進むのも大変だった。
「拓海くん!」
後ろから声がした。春海の声だ。
振り向くと、春海が走ってきた。まだ舞台衣装を着たままだった。髪も舞台用のヘアスタイルのまま。でも、その姿がとても似合っていた。
「来てくれたんだ! 嬉しい!」
春海は息を切らしながら、満面の笑みを浮かべた。
「ああ、約束だから」
「ありがとう。どうだった? 私の演技」
「すごく良かったよ。春海、演技上手だな。感動した」
本心から言った。本当に素晴らしかった。
「本当? 嬉しい!」
春海は目を輝かせた。
「実はすごく緊張してて。セリフ忘れちゃったらどうしようって。でも、拓海くんが見に来てくれたって思ったら、頑張れた」
その言葉に、胸が温かくなった。同時に、切なくもなった。春海は僕のことを、まだ大切な幼馴染として思ってくれている。それは嬉しいけれど、僕が求めているのはそれ以上の関係だった。
「拓海くん」
春海が真剣な表情になった。
「あのね、後で話したいことがあるの。文化祭が終わった後、屋上で待っててくれる?」
その言葉に、心臓がドキッとした。話したいこと? それは何だろう。
「わかった。何時頃?」
「五時くらいに。お願い」
「ああ、わかった」
「ありがとう。じゃあ、また後でね!」
春海は、そう言って走っていった。舞台衣装のスカートをひらひらとなびかせながら。
僕は、その場に立ち尽くした。後で話したいこと——。それは何だろう。悪い予感がした。もしかして、悠真と正式に付き合うことになった報告だろうか。それとも、僕との距離について、はっきりさせたいのか。
わからない。でも、胸騒ぎがした。何か、大きなことが起こりそうな予感がした。
文化祭が終わり、片付けも一段落した頃。時計を見ると、午後四時半。もうすぐ、春海との約束の時間だ。
僕は教室で、屋上に行く時間を待っていた。机に座り、窓の外を見つめている。空は曇っていて、今にも雪が降り出しそうだった。
「おーい、拓海」
健斗が声をかけてきた。
「お前、何ボーッとしてんの? さっきから全然動いてないぞ」
「いや、何でもない」
「嘘つけ。顔に書いてあるぞ。何か考え事してるだろ」
健斗はニヤニヤと笑った。そして、僕の隣の席に座った。
「春海ちゃんと何かあったんだろ?」
「……実は」
僕は、春海から屋上で話したいと言われたことを伝えた。
「おお、ついに来たか」
「何が?」
「決着の時だよ」
健斗は真剣な表情になった。
「春海ちゃんが話したいってことは、何か重要なことがあるんだろ。たぶん、お前との関係について」
「でも、たぶん悠真と付き合うことになったって報告だよ」
「そうかなあ」
健斗は首を傾げた。
「それだったら、わざわざ屋上に呼び出す必要ないだろ。LINEで伝えればいいし」
「じゃあ何だって言うんだよ」
「わかんないけど、お前にとって大事な話なんじゃないか?」
健斗は僕の肩を掴んだ。
「なあ、拓海。これが最後のチャンスかもしれないぞ」
「最後のチャンス?」
「ああ。お前の気持ちを伝える、最後のチャンス」
その言葉に、僕は息を呑んだ。でも、すぐに首を横に振った。
「もう遅いよ。春海は悠真のことが好きなんだ」
「でもお前、まだ正式に告白してないだろ?」
「してないけど……」
「だったら、まだ勝負はついてない」
健斗は強い口調で言った。
「お前はずっと逃げてきた。春海ちゃんへの気持ちから、自分の本心から。でも、もう逃げられない。今日が、その日なんだ」
「でも、怖いんだよ」
僕は正直に言った。
「春海に気持ちを伝えて、断られるのが。今の関係さえも失ってしまうのが」
「このまま何もしないで卒業したら、一生後悔するぞ」
健斗の言葉が、胸に響いた。
「ちゃんと終わらせろ。自分の気持ちに、決着をつけろ。それが、お前にとっても春海ちゃんにとっても、一番いいことなんだ」
「健斗……」
「お前は、ずっと中途半端だった。好きなのに、伝えない。距離を取るのに、完全には離れない。そんなの、お互いにとって辛いだけだろ」
確かに、そうだ。僕は中途半端だった。春海への想いを隠しながら、でも側にいたいと思っている。それは、春海にとっても迷惑だったかもしれない。
「わかった」
僕は答えた。
「ちゃんと、向き合ってくる。今日こそ、自分の気持ちを伝える」
「おう、それでいい!」
健斗は笑顔で背中を叩いてくれた。
「俺、応援してるから。頑張れよ」
「ありがとう」
時計を見ると、もうすぐ五時だった。僕は教室を出て、屋上へと向かった。
階段を上りながら、心臓が激しく鼓動している。手のひらに汗をかいている。緊張と不安で、足が震えている。
でも、進まなければならない。もう、引き返せない。健斗の言う通り、今日が最後のチャンスなんだ。
三階、四階、そして屋上へのドアの前に立った。深呼吸をする。一度、二度、三度。
そして、ドアを開けた。
屋上には、すでに春海が立っていた。
フェンスに寄りかかり、夕日を見つめている。舞台衣装は着替えて、制服姿に戻っていた。髪も、いつものストレートに戻している。
冬の夕日は、もう西の空に傾いていた。オレンジ色の光が、春海の横顔を照らしている。その姿が、とても美しかった。
「春海」
僕が声をかけると、春海が振り向いた。
「来てくれたんだ。ありがとう」
「ああ」
僕は、春海の隣に立った。二人とも、しばらく何も言わなかった。ただ、夕日を見つめていた。
冬の夕日は、早く沈む。空は、オレンジから赤へと変わっていく。そして、やがて紫色に染まる。
「綺麗だね」
春海が呟いた。
「ああ」
「こうやって、二人で夕日を見るの、久しぶりだね」
「そうだな」
昔は、よく一緒に夕日を見た。帰り道で。公園で。河川敷で。でも、最近はそんな機会もなくなっていた。
風が吹いて、春海の髪が揺れた。冷たい風。でも、春海は寒そうにはしていなかった。ただ、じっと夕日を見つめている。
「あのね、拓海くん」
春海が口を開いた。その声は、いつもより少し震えているように聞こえた。
「私、ずっと気になってたことがあるの」
「何?」
「拓海くん、最近ずっと冷たいでしょ。避けられてるような気がするの」
その言葉に、僕は何も答えられなかった。図星だった。
「私、何かしたかな。拓海くんを怒らせるようなこと、傷つけるようなこと」
「してないよ」
僕は答えた。
「春海は、何も悪くない。本当に」
「じゃあ、どうして? どうして距離を置くの?」
春海は、僕の顔を見つめた。その瞳には、不安と寂しさが浮かんでいた。
「私、拓海くんと疎遠になるの、すごく嫌なの」
「春海……」
「だって、拓海くんは私の大切な幼馴染だから。ずっと一緒にいた、大事な存在だから」
春海の声が、少し震えていた。
「卒業したら、もっと会えなくなるかもしれない。だから、今のうちに元に戻したいの。昔みたいに、何でも話せる関係に」
春海の言葉が、胸に突き刺さった。
春海は、僕を幼馴染として大切に思ってくれている。それは嬉しい。でも、同時に辛かった。僕が春海に抱いている感情は、幼馴染としてのものじゃない。もっと違う、特別な感情。
でも、春海は気づいていない。いや、気づいているのに、気づかないふりをしているのかもしれない。
「なあ、春海」
僕は意を決して口を開いた。もう、逃げられない。今言わなければ、一生言えない。
「俺、お前に話したいことがある」
「何?」
春海が、不安そうな表情で僕を見た。
深く息を吸った。心臓が、激しく鼓動している。手が震えている。でも、言わなければならない。
「俺、お前のことが好きだ」
その言葉が、口から出た。
春海の目が、大きく見開かれた。
「え……」
「ずっと好きだった。幼馴染としてじゃなくて、一人の女の子として。恋愛対象として」
僕は、一気に言葉を吐き出した。もう、止まらなかった。
「でも、言えなかった。お前が悠真のことを好きだって知って、余計に言えなくなった。一緒にいると、苦しかったんだ」
「拓海くん……」
「距離を取ったのも、全部そのせいだ。お前と一緒にいると、この気持ちを隠すのが辛くて。笑顔を作るのが辛くて。普通を装うのが辛くて」
春海は、ただ黙って僕の話を聞いていた。表情は読めなかった。驚いているのか、困っているのか、それとも——。
「ごめん。こんなこと言って、困らせて」
僕は、うつむいた。もう、春海の顔を見ることができなかった。
「でも、言わなきゃいけないと思った。このまま卒業したら、一生後悔すると思ったから。ずっと『あの時伝えていれば』って思いながら生きるのは、嫌だったから」
沈黙が訪れた。長い、長い沈黙。
風が吹いて、髪を揺らす。夕日は、もう地平線に沈みかけていた。空が、だんだんと暗くなっていく。
どのくらい時間が経っただろう。一分? 三分? もっと? 時間の感覚がわからなくなっていた。
春海が、ゆっくりと口を開いた。
「拓海くん」
その声は、優しくて、でも少し悲しげだった。予想していた声。でも、聞きたくなかった声。
「ありがとう。気持ちを伝えてくれて」
僕は、顔を上げた。春海は、涙を浮かべていた。
それを見た瞬間、全てを悟った。答えは、もう出ていた。
「でも、ごめんね」
春海は、涙を拭いた。でも、次々と新しい涙が溢れてくる。
「私、悠真くんのことが好きなの」
わかっていた。わかっていたけれど、実際に言葉にされると、こんなにも胸が痛むものなのか。
「拓海くんのこと、大好きだよ。幼馴染として、大切な存在だって心から思ってる。ずっと一緒にいたから、家族みたいに感じてる」
「でも、恋愛感情とは違うんだな」
僕が言うと、春海は申し訳なさそうに頷いた。
「……うん。ごめんね」
「いいんだ」
僕は、無理やり笑顔を作った。でも、顔の筋肉が引きつっているのがわかった。
「わかってたから。だから、返事は期待してなかった。ただ、伝えたかっただけなんだ」
「拓海くん……」
「ずっと胸の中にしまっておくのは、辛すぎたから。このまま卒業して、一生秘密にするのは、無理だと思ったから」
春海は、また涙を流した。その涙が、夕日に照らされてキラキラと輝いている。
「本当にごめん。もっと早く気づいてあげられたら……」
「気づかなくていいよ」
僕は遮った。
「気づかれてたら、もっと辛かったと思う。春海が気を遣って、距離を取ったりしてたら、それはそれで苦しかった」
「でも……」
「お前は何も悪くない。勝手に好きになったのは、俺の方だから。お前には、何の責任もない」
春海は、顔を覆って泣いた。肩が震えている。
僕は、春海を慰めたかった。でも、今の僕にはその資格がない。春海を泣かせているのは、僕なのだから。
「大丈夫。これで、俺も前に進める」
嘘だった。前に進めるなんて、思っていなかった。でも、春海を安心させたかった。これ以上、春海を苦しめたくなかった。
「本当に……大丈夫?」
春海が、涙で濡れた顔を上げた。
「ああ、大丈夫」
また嘘をついた。全然大丈夫じゃない。胸が張り裂けそうなくらい痛い。呼吸するのも辛い。でも、それを見せるわけにはいかない。
「ありがとう、春海」
僕は言った。
「今まで、ずっと側にいてくれて。いつも笑顔で接してくれて。俺の幼馴染でいてくれて」
「拓海くん……」
「これからも、幼馴染として、よろしくな」
「うん……」
春海は、小さく頷いた。でも、その表情は苦しそうだった。
夕日が、完全に沈んだ。空は、暗闇に包まれていく。街灯が、ぽつぽつと灯り始めた。
僕の恋も、こうして終わった。静かに。優しく。でも、確実に。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか。寒いし」
僕は言った。できるだけ明るい声で。
「……うん」
春海と一緒に、屋上を後にした。階段を降りながら、涙をこらえた。春海の前では、泣くわけにはいかない。強がらなければならない。
昇降口で、春海と別れた。
「じゃあね、拓海くん。また明日」
「ああ、またな」
春海は、もう一度申し訳なさそうな表情をした。そして、去っていった。
僕は、その背中を見送った。もう、追いかけることはない。もう、想いを伝えることもない。全て、終わったんだ。
家に帰る途中、涙が溢れた。
もう、誰も見ていない。だから、泣いてもいい。
声を殺して、泣いた。ポケットに手を突っ込んで、俯きながら歩いた。涙で視界が滲んで、前がよく見えない。
胸が痛かった。息ができないくらい、苦しかった。
告白して、断られた。予想していたことだった。でも、実際に経験すると、こんなにも辛いものなのか。
春海の「ごめんね」という言葉が、何度も頭の中で繰り返される。優しい声。申し訳なさそうな表情。涙を浮かべた瞳。
春海は、悪くない。僕も、悪くない。ただ、僕の想いが、一方通行だっただけ。それだけのこと。
でも、それがこんなにも辛いなんて。
家に着いた。玄関のドアを開ける前に、涙を拭いた。母に心配をかけたくない。
「ただいま」
できるだけ普通の声で言った。
「おかえり。文化祭、どうだった?」
リビングから母の声が聞こえた。
「良かったよ。みんな頑張ってた」
「そう。夕飯できてるから、手を洗って食べなさい」
「うん」
でも、食欲はなかった。自分の部屋に直行したかった。でも、それをしたら不自然だ。
手を洗い、リビングに行った。食卓には、いつもの夕食が並んでいた。でも、どれも美味しそうに見えなかった。
「いただきます」
箸を持つ手が震えている。ご飯を口に運ぶけれど、味がしない。喉を通らない。
「どうしたの? 元気ないわね」
母が心配そうに言った。
「ちょっと疲れてるだけ。大丈夫」
「そう。無理しないでね」
「うん」
なんとか食事を済ませ、自分の部屋に入った。ドアを閉めた瞬間、張り詰めていた糸が切れた。
ベッドに倒れ込み、顔を枕に埋めた。そして、声を殺して泣いた。
どのくらい泣いていただろう。気づいたら、枕はびしょびしょに濡れていた。涙で、目が腫れている。
スマートフォンを手に取った。春海とのLINEを開く。最後のメッセージは、今朝のもの。「文化祭、頑張ろうね」という春海のメッセージに、僕は「うん」とだけ返信していた。
もう、こんな気軽にメッセージを送ることはできないんだろうか。告白して断られた後、どう接すればいいのかわからない。
でも、不思議と後悔はなかった。伝えられて、良かった。断られても、伝えられて良かった。これで、ようやく前に進める——そう、自分に言い聞かせた。
でも、本当は。まだ、春海のことが好きだった。今でも、ずっと。それは、変わらなかった。
窓の外を見ると、雪が降り始めていた。白い結晶が、街灯の光に照らされて輝いている。
春海も、この雪を見ているだろうか。同じ空の下で、何を思っているんだろう。
僕のことを、考えているだろうか。それとも、もう悠真のことを考えているんだろうか。
そんなことを考えると、また涙が溢れた。
次の日、学校に行くのが怖かった。
春海に会うのが怖かった。どんな顔をして、どんな言葉をかければいいのかわからなかった。
でも、休むわけにもいかない。月曜日。新しい週の始まり。普通を装って、学校に行かなければならない。
朝、いつもより早く家を出た。春海と会わないように。登校時間をずらして、一人で学校へ向かった。
教室に着くと、まだ数人しかいなかった。自分の席に座り、窓の外を見つめた。昨日の雪は、もう溶けていた。地面は濡れていて、空は灰色に曇っている。
「おはよう、拓海」
健斗が声をかけてきた。
「おはよう」
「昨日、どうだった?」
その質問に、僕は小さく首を振った。
「ダメだった。断られた」
「そっか……」
健斗は、同情するような表情をした。
「でも、伝えられたんだな」
「ああ」
「それだけでも、前進だよ」
「そうかな」
「ああ。少なくとも、お前は逃げなかった。ちゃんと向き合った。それは、すごいことだ」
健斗の言葉が、少しだけ心を軽くしてくれた。
「ありがとう、健斗」
「これからどうすんの?」
「わからない。でも、春海とは友達として、普通に接するつもり」
「そっか。まあ、無理すんなよ」
「ああ」
授業が始まり、一日が過ぎていく。でも、全然集中できなかった。昨日のことが、何度も頭の中でリプレイされる。
春海の涙。「ごめんね」という言葉。「悠真くんのことが好き」という告白。
それが、心に深く刻まれている。
昼休み、中庭を通りかかった時、春海と悠真を見かけた。
二人は、ベンチに座って弁当を食べていた。楽しそうに話していて、時々笑い声が聞こえてくる。
春海は、幸せそうだった。昨日のことなど忘れたかのように、明るい表情をしていた。
それを見て、少しだけ安心した。春海は、前を向いている。悠真との恋を、大切にしている。
それでいいんだ。春海が幸せなら、それでいい。
僕は、そう自分に言い聞かせた。でも、胸の奥は、まだ痛んでいた。
放課後、廊下で春海とすれ違った。
「あ、拓海くん」
春海が立ち止まった。少し気まずそうな表情。
「春海」
「昨日は……ごめんね」
「もういいよ。気にしないで」
僕は笑顔を作った。
「俺たち、これからも友達だろ?」
「うん……」
春海は、ほっとしたような、でも少し寂しそうな表情をした。
「ありがとう、拓海くん。優しくしてくれて」
「当たり前だろ。幼馴染なんだから」
そう言って、僕は先に進んだ。春海と長く話していると、また辛くなりそうだったから。
これから、どうやって春海と接していけばいいんだろう。友達として、普通に話せるようになるんだろうか。
わからなかった。でも、時間が解決してくれることを願うしかなかった。
それから数日が経った。
僕と春海の関係は、微妙に変わっていた。以前のような距離感ではない。でも、完全によそよそしくなったわけでもない。
学校で会えば、挨拶をする。軽い会話もする。でも、それ以上は踏み込まない。お互いに、見えない線を引いていた。
ある日の放課後、図書館で勉強していると、春海が入ってきた。僕に気づいて、少し迷った表情をした。でも、こちらに歩いてきた。
「拓海くん、隣いい?」
「ああ、どうぞ」
春海は、僕の隣に座った。それぞれの参考書を開き、勉強を始める。
しばらく、二人とも黙々と問題を解いていた。でも、春海は集中できていないようだった。何度もペンを止めて、ため息をついている。
「どうしたの?」
僕が聞くと、春海は少し躊躇ってから口を開いた。
「あのね、拓海くん。この前のこと、まだ気にしてる?」
「気にしてないよ」
嘘だった。毎日考えている。でも、それを言うわけにはいかない。
「本当に?」
「ああ」
春海は、安心したような、でも申し訳なさそうな表情をした。
「私ね、拓海くんのこと傷つけちゃったんじゃないかって、ずっと心配してた」
「大丈夫だよ。俺、もう吹っ切れたから」
また嘘をついた。でも、春海を安心させたかった。
「良かった……」
春海は、小さく微笑んだ。でも、その笑顔は少し寂しそうに見えた。
「でも、ありがとう」
「何が?」
「気持ちを伝えてくれて。勇気を出して、ちゃんと言葉にしてくれて」
春海の目が、少し潤んでいた。
「私、全然気づけなくて。拓海くんがそんな風に思ってくれてたなんて、想像もしてなかった」
「気づかなくて正解だったと思うよ」
僕は言った。
「気づいてたら、もっと気まずくなってたと思うから」
「でも、もっと早く気づいてあげられたら……」
「変わらないよ」
僕は遮った。
「春海が悠真のことを好きなのは、事実なんだから。俺がいつ告白しても、結果は同じだった」
春海は、涙をこらえているようだった。
「ごめんね、拓海くん。本当にごめん」
「謝らなくていいって」
僕は優しく言った。
「恋愛って、そういうものだろ。誰かを好きになって、誰かに好きになってもらって。タイミングとか、相性とか、いろんな要素があって」
「でも……」
「春海は、悠真を大切にしてあげて。彼は、きっといい人だから」
その言葉を言うのは、とても辛かった。でも、言わなければならなかった。
「拓海くん……」
春海は、とうとう涙を流した。
「ありがとう。本当にありがとう。拓海くんは、本当に優しいね」
優しくなんかない。ただ、春海の幸せを願っているだけ。自分が辛くても、春海が笑っていてくれれば、それでいい。
そう思っている自分が、少し情けなかった。
「じゃあ、俺もう行くよ。勉強、頑張ってな」
「うん……ありがとう」
図書館を出て、廊下を歩いた。後ろから、春海の小さな泣き声が聞こえた気がした。でも、振り返らなかった。
これでいいんだ。春海は前を向いて、悠真との恋を育んでいく。僕は僕で、前を向いて歩いていく。
たとえ、心の中ではまだ春海のことを想っていても。
たとえ、毎日が辛くても。
それが、僕に残された道なんだ。
冬が終わり、春がやってきた。
三月。桜の蕾が膨らみ始め、空気も少しずつ温かくなってきた。そして、卒業式の日がやってきた。
体育館には、卒業生とその保護者、そして在校生たちが集まっていた。壇上には、校長や来賓が座っている。
卒業証書授与式が始まった。一人ずつ名前が呼ばれ、壇上で卒業証書を受け取る。
「佐藤春海」
春海の名前が呼ばれた。
春海は、凛とした表情で壇上に上がった。卒業証書を受け取り、一礼する。その姿は、とても美しかった。
僕は、客席から春海を見つめた。この三年間、ずっと一緒だった。でも、今日で終わる。それぞれの道を歩んでいく。
春海は、悠真と一緒にいるだろう。二人は、同じ大学に進学することが決まっていた。これから先も、ずっと一緒にいるんだろう。
「橋本拓海」
僕の名前が呼ばれた。
立ち上がり、壇上へ向かった。卒業証書を受け取る。重みを感じた。これが、三年間の証。
客席を見下ろすと、両親が笑顔で手を振っていた。健斗も、親指を立てて励ましてくれた。
そして、春海を探した。
春海は、涙を拭いながら拍手をしていた。その笑顔を見て、僕も少しだけ笑顔になれた。
式が終わり、教室に戻った。最後のホームルーム。担任の先生が、別れの言葉を述べる。
「みんな、三年間お疲れ様でした。これから、それぞれの道を歩んでいくと思いますが、この三年間の思い出を忘れないでください」
クラスメイトたちは、泣いたり笑ったりしている。別れを惜しむ声が、教室に響いている。
僕は、窓の外を見つめていた。桜の木が、風に揺れている。もうすぐ、満開になるだろう。
でも、僕はもうこの学校にはいない。この景色を見ることもない。
全てが、終わっていく。
ホームルームが終わり、校庭に出た。
みんな、写真を撮り合っている。友達と、恩師と、家族と。最後の思い出を、カメラに収めている。
僕も、健斗や他のクラスメイトと写真を撮った。
「拓海、これからも連絡取ろうな」
「ああ、もちろん」
「夏休み、本当に日本一周行くからな。お前も来いよ」
「考えとく」
そんな会話を交わしながら、笑顔で写真に収まった。
「拓海くん」
後ろから声がした。振り向くと、春海が立っていた。
「春海」
「一緒に、写真撮らない?」
春海は、少し照れくさそうに言った。
「ああ、いいよ」
僕たちは、桜の木の下に並んだ。健斗がカメラを構えてくれた。
「はい、チーズ!」
シャッターが切られる。
僕と春海は、並んで笑顔を作った。でも、その笑顔の裏には、複雑な想いが隠されていた。
春海は、僕に申し訳なさを感じている。僕は、春海への想いをまだ引きずっている。
でも、それを表には出さない。ただ、笑顔で写真に収まる。
「もう一枚撮ろうか」
健斗が言った。
「今度は、もっと笑って」
もう一度、シャッターが切られる。
今度は、もっと自然な笑顔ができた気がした。
「いい写真だな」
健斗が画面を見せてくれた。
そこには、僕と春海が笑顔で並んでいた。まるで、何も問題がない二人のように。幸せそうな、幼馴染の二人。
でも、それは表面だけ。心の中は、もっと複雑だった。
「ありがとう、拓海くん。一緒に写真撮ってくれて」
「こちらこそ」
春海は、少し寂しそうに微笑んだ。
「これから、どうするの? 大学決まったって聞いたけど」
「ああ、A大学に受かった。春から東京」
「すごい。おめでとう」
「ありがとう。春海は?」
「私も東京。C大学」
「そっか」
同じ東京。でも、大学は違う。きっと、会うこともないだろう。
「もし東京で会ったら、声かけてね」
「ああ、もちろん」
また嘘をついた。会っても、声をかける自信がない。
「じゃあ、私もう行くね。悠真くんが待ってるから」
「ああ、行ってらっしゃい」
春海は、去っていった。悠真のいる方へ。
僕は、その背中を見送った。これが、最後かもしれない。春海と、こうやって話すのは。
でも、それでいい。それが、二人にとって一番いい。
夕方、校門の前に立った。
もう、ほとんどの生徒は帰っていた。校舎は静かで、風だけが吹いている。
振り返って、校舎を見つめた。三年間、毎日通った場所。たくさんの思い出が詰まった場所。
そして、春海との思い出も、たくさん詰まっている。
一緒に登校した朝。一緒に帰った夕方。一緒に勉強した放課後。
全部、大切な思い出。
でも、もうここには来ない。この門をくぐることもない。
「さよなら」
小さく呟いた。
学校に。青春に。そして、春海への想いに。
全てを、心にしまって。
前を向いて、歩き出した。
新しい未来へ。新しい人生へ。
春海のいない世界へ。
それが、辛くても。寂しくても。
前に進まなければならない。
家に帰る途中、春海の家の前を通った。窓から明かりが漏れている。春海は、もう帰っているんだろう。
足を止めて、その窓を見つめた。
中で、春海は何をしているんだろう。悠真と電話でもしているのかな。明日からの新生活について、話しているのかな。
そんなことを考えると、また胸が痛んだ。
でも、もう慣れなければならない。この痛みに。この寂しさに。
深呼吸をして、歩き出した。
家に着き、自分の部屋に入った。制服を脱ぎ、ベッドに座る。
卒業証書を見つめた。これで、高校生活も終わり。
引き出しを開けた。その奥に、あの日渡せなかったプレゼントがある。
春海の誕生日プレゼント。本と、ブックマークと、CD。
もう、渡すことはないだろう。でも、捨てることもできない。
これも、思い出の一つとして、ずっと取っておこう。
スマートフォンを手に取った。春海とのLINEを開く。
最後のメッセージは、今日の昼。「卒業おめでとう」という春海からのメッセージに、僕は「ありがとう。春海もおめでとう」と返信していた。
これが、最後のやり取りになるかもしれない。
指が震える。何か、送りたい。最後に、何か伝えたい。
でも、何を送ればいいのかわからない。
結局、何も送らなかった。
これでいいんだ。もう、終わったんだから。
スマートフォンを置き、窓の外を見た。
夜空には、星が輝いていた。
春海も、同じ星を見ているだろうか。
そんなことを考えながら、目を閉じた。
それから数ヶ月が経った。
僕は、東京の大学に通い始めた。新しい環境。新しい友達。新しい生活。
最初は戸惑うことも多かったけれど、少しずつ慣れてきた。
春海のことを考える時間も、少しずつ減っていった。
でも、完全に忘れることはできなかった。ふとした瞬間に、春海のことを思い出す。
桜を見た時。雨の日。ピアノの音を聞いた時。
そのたびに、胸が痛んだ。でも、その痛みも、以前よりは和らいでいた。
ある日、大学の帰り道。
渋谷の交差点で、人混みの中を歩いていた。
ふと、向こう側に見覚えのある姿を見つけた。
春海だった。
悠真と一緒に、手を繋いで歩いている。二人とも笑顔で、幸せそうだった。
僕は、立ち止まった。声をかけようか、迷った。
でも、やめた。
今の春海は、もう僕の知っている春海じゃない。新しい生活を始めて、新しい幸せを見つけている。
そこに、僕が入る余地はない。
信号が変わり、二人は渋谷の雑踏の中に消えていった。
僕は、その場に立ち尽くしていた。
でも、不思議と悲しくはなかった。
むしろ、ほっとした。
春海は、幸せそうだった。それだけで、十分だった。
歩き出した。春海とは反対方向へ。
これでいいんだ。これが、僕たちの選んだ道なんだ。
夜、自分の部屋で、ノートを開いた。
日記を書くようになっていた。東京に来てから始めた習慣。
今日のことを、書き留める。
「今日、春海を見かけた。悠真と一緒に、幸せそうだった」
「僕は、声をかけなかった。それが、正解だと思った」
「春海への想いは、まだ完全には消えていない。でも、以前よりは楽になった」
「これでいいんだと、思えるようになった」
ペンを置き、窓の外を見た。
東京の夜景が、キラキラと輝いている。
無数の光。無数の人生。無数の物語。
その中の一つが、僕の人生。
そして、もう一つが、春海の人生。
交わることのない、二つの物語。
でも、それでいい。
僕は僕の人生を生きる。春海は春海の人生を生きる。
いつか、この想いも、完全に過去のものになるだろう。
いつか、春海のことを思い出しても、笑顔でいられるようになるだろう。
いつか、新しい恋をするかもしれない。
でも、今は、まだ。
今は、まだこの想いを抱えたまま、前に進んでいく。
それが、僕に残された道だから。
ノートを閉じ、ベッドに横たわった。
天井を見つめながら、呟いた。
「これは、最後の恋だった——」
春海への想い。
それは、僕の初恋であり、そして最後の恋だった。
これ以上、誰かをこんなに好きになることはないだろう。
こんなに苦しくて、でもこんなに美しい感情を、もう味わうことはないだろう。
それは、確信だった。
春海は、僕にとって特別な存在だった。
幼馴染。友達。そして、初恋の人。
その全てが、春海だった。
目を閉じた。
春海の笑顔が、瞼の裏に浮かんだ。
でも、もう涙は出なかった。
ただ、温かい気持ちだけが残った。
「さよなら、春海」
「さよなら、青春」
心の中で、静かに別れを告げた。
そして、眠りについた。
明日からまた、新しい一日が始まる。
春海のいない世界で。
でも、それでいい。
それが、僕の選んだ道だから。
外では、春の風が吹いていた。
桜の花びらが、舞い散っていく。
季節は巡り、時は流れる。
そして、僕も前に進んでいく。
この想いを胸に、新しい未来へ。
——完——
サヨナラ~終わりを告げる青春。最初で最後の恋~ Nemu° @daihuku723
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます