第2話: 「お風呂にする? ご飯にする? それとも――」国民的アイドル様の自宅は、セキュリティ万全の愛の巣でした。

雨音はもう聞こえない。静寂と、高級車特有の革の匂いだけが漂う空間から、俺はさらに現実味のない場所へと連れてこられていた。


「……ここ、どこ?」


「私の家だよ。都内で一番セキュリティがしっかりしてるから、誰も入ってこれないの」


アイに手を引かれて降り立ったのは、都心の夜景を見下ろす超高層タワーマンションの最上階だった。エレベーターが上昇するにつれて耳がツンとする感覚。ガラス張りのロビー。まるで映画のセットのような空間に、濡れた制服姿の自分が異物のように感じられて、俺は思わず足を止める。


「俺、こんな汚い格好で……ここ、入っていい場所じゃないだろ」


「どうして?」


「どうしてって、泥だらけだし、濡れてるし……」


それに、ここは国民的アイドルの聖域だ。  クラスの底辺である陰キャが入っていい領域じゃない。


俺が尻込みしていると、アイは不思議そうに小首を傾げ、それからとびきりの笑顔で俺の手を強く引いた。


「ヤマトくんより大事な絨毯なんて、この家には一枚もないよ」


「……え」


「さ、入って。今日からここが、ヤマトくんの新しいお家なんだから」


ガチャリ、と重厚な扉が開かれる。広がるのは、一人暮らしには広すぎるリビングと、眼下に広がる宝石箱のような夜景。


俺は呆然と立ち尽くすしかなかった。数時間前まで、俺は教室で嘲笑われ、世界の終わりのような気分で公園にいたはずだ。それが今は、日本中の男が憧れる天道アイと、密室で二人きり。


脳の処理が追いつかない。


「んー! やっとマスク外せたぁ!」


アイは玄関の鍵を閉めると(厳重に三つもロックをかけた)、重たそうに息を吐いて伸びをした。無防備な仕草。テレビの向こうの「アイドル」から、昔よく知る「幼馴染」の顔に戻った瞬間だった。


「さて、ヤマトくん」


「は、はい!」


「まずは身体、温めないとね。風邪引いちゃう」


彼女は俺の胸元にスッと手を伸ばし、濡れたシャツのボタンに指をかけた。


「――お風呂、一緒に入ろっか?」


「はあああああ!?」


 俺は素っ頓狂な声を上げて飛び退いた。心臓が早鐘を打つ。


「な、ななな、何を言って……!?」


「えー? 昔はよく一緒に入ってたじゃん」


「それは幼稚園児の頃だろ! 今はダメだろ、アイドル的に!」


「私はいいよ? ヤマトくんなら」


アイは悪戯っぽく笑いながら、じりじりと俺を壁際に追い詰めてくる。 濡れたプラチナブロンドの髪が頬に張り付き、妙に色っぽい。青い瞳が、捕食者のように俺を捉えて離さない。


「冗談だよ。……今は、ね」


「っ……」


「お風呂、沸いてるから先に入ってきて。着替えはこれ使っていいから」


 そう言って渡されたのは、明らかに俺のサイズに合わせて用意された新品の部屋着だった。 高級ブランドのタグがついている。


「これ……」


「いつかヤマトくんが来ると思って、買っておいたの」


「……いつかって」


「ずっと前から、だよ」


 彼女の声のトーンが、ふと真剣なものに変わる。その瞳の奥に宿る熱量に、俺は息を呑んだ。  罰ゲームで付き合っていた元カノ・レナが見せていた冷たい瞳とは正反対の、火傷しそうなほどの熱。


「……ありがとう、借りるよ」


「うん。ごゆっくり♡」


逃げるように脱衣所へ駆け込む俺の背中を、アイはいつまでも見つめていた。


 ◇


 一方その頃。ファミレスの騒がしい喧騒の中で、西園寺レナはドリンクバーのメロンソーダをかき混ぜながら高笑いしていた。


「あー、マジでスッキリしたぁ! あいつの顔見た? 『え、別れる?』って、マヌケ面晒しちゃってさ!」


「ギャハハ! あれは傑作だったな。お前の演技力すごすぎ」


 向かいに座るサッカー部の翔が、ポテトをつまみながら同調する。


「でしょ? 一ヶ月もあんな根暗に付き合ってあげたんだから、私ってホント慈悲深いわー」


「違いねえ。あいつ、今頃枕濡らして泣いてんじゃね?」


「間違いなく泣いてるでしょ。明日、学校来れるかなぁ? 来たらまたイジってやろっと」


レナはスマホを取り出し、SNSに投稿する。 『罰ゲーム終了! 解放感ヤバいw 今日から翔くん一筋だよ♡』  すぐにクラスメイトたちから「いいね」がつく。


 自分が世界の中心にいる。レナはそう信じて疑わなかった。自分が捨てた男が今、このファミレスの会計の何百倍もの価値があるディナーを、国民的アイドルと食べていることなど、知る由もなかった。


 ◇


 タワマンの一室。広すぎるバスルームで身体を温め、用意された着心地の良い部屋着に着替えた俺は、リビングに戻った。


 そこには、信じられない光景が広がっていた。


「あ、上がった? ご飯できてるよー!」


 キッチンに立つアイが、エプロン姿で振り返る。テーブルの上には、デリバリーの高級寿司……ではなく、歪な形をしたオムライスと、少し焦げたハンバーグが並んでいた。


「……これ、アイが作ったの?」


「うん! ヤマトくん、昔オムライス好きだったでしょ? 頑張って作ってみたんだけど……久しぶりだから、味は保証できないかも」


 トップアイドルが、俺のために料理を?  俺は震える手でスプーンを握り、オムライスを一口食べた。  ……卵は少し固いし、味付けも濃い。けれど。


「……うまい」


「本当!?」


「ああ、すごく美味い。……温かいな」


 元カノには、手料理なんて一度も振る舞われたことはなかった。いつも俺が作る側で、「味が薄い」「彩りが悪い」と文句を言われるだけだった。誰かが俺のために作ってくれた温かい料理が、こんなに心に染みるとは思わなかった。


 気づけば、視界が滲んでいた。ポロポロと、涙がこぼれ落ちる。


「えっ、ちょ、ヤマトくん!? そんなに不味かった!?」


「ちが……違うんだ。嬉しくて……」


 俺が涙を拭おうとすると、アイが隣に座り、俺の頭を優しく抱き寄せた。


「……辛かったね」


「う……ぅ……」


「もう頑張らなくていいよ。無理して誰かに尽くしたり、顔色伺ったりしなくていいの」


 アイの手が、俺の背中を一定のリズムで叩く。バニラの香りが俺を包み込む。


「これからは私が、ヤマトくんを甘やかす番だから」


 その言葉は、俺の凍りついた心を確実に溶かしていった。  


「だからね、ヤマトくん」


 アイは俺の耳元で、とろけるような甘い声で告げた。


「明日、学校なんて行かなくていいよ。一日中、ベッドの中で私と過ごそう?」


 その提案はあまりにも魅力的で。俺は危うく、その甘い毒に頷きそうになった。


 だが、心のどこかで警鐘が鳴る。ここで逃げたら、本当に俺はダメになってしまう気がする。それに、元カノにあんな言われ方をして逃げ出すのは、なんだか負けた気がして悔しかった。


「……いや、行くよ」 「


え?」


「学校、行く。逃げたくないんだ」


 俺が涙を拭いて顔を上げると、アイは一瞬驚いた顔をして――それから、もっと深くて暗い、愛おしそうな瞳で俺を見つめた。


「そっか。ヤマトくんは、強いね」


「強くなんてないよ。ただの強がりだ」


「ううん、強いよ。……わかった。じゃあ、私も頑張らなきゃね」


 アイが不敵に微笑む。その笑顔の意味を、俺はまだ知らなかった。


「覚悟しててね、西園寺レナ。……私のヤマトくんに手を出したこと、後悔させてあげる」


 小さな呟きは、俺の耳には届かなかった。  ただ、明日の学校で何かが起こる予感だけが、静かに漂っていた。


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

あとがき

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