肆
寝ているアオイの頭をゆっくりと撫でながら、イツキは微かに眉をしかめていた。
アオイの細く骨ばった薄い体に、無数の痣があるのを見てしまった。
さすがに、淑女の診察に男は無用! と追い出されてそれ以上を見ることはなかったけれど、あまりの痛々しさに祭祀官たちへ殺意が湧いたのは確かだ。
まさか、皇国で皇王と並ぶほど貴い存在が、こんなふうに虐げられているとは思わなかった。
あの日、あの場所で、偶然にも彼女に出会わなければ、もしかしたらそのまま喪っていたのかもしれない。そう思うと、あの日の出逢いに感謝したくなる。
あの日――ほぼ一年前の満月の日。イツキは皇王城からの帰宅の途、どうしてか月嶺森林へと行かねばならない気がしたのだ。
彼の森の奥にある月の杜は、皇族と月の巫女、それに許可された名家の一部しか立ち入ることの許されていない禁域だ。祭祀を司る祭祀官、その長たる祭祀官長ですら、立ち入りを許されない。たとえ皇王が許可したとしても、巫女が許さなければそんな許可はないも同然だ。
その月の杜に建つ社に触れられるのは、月の巫女だけ。
あの日、社の階に座って泣いていた彼女が"カグヤ"だということは、本当はすぐにわかった。
コクウ家の嫡男である以上、カグヤの名前だって、当然知っていた。
それでも彼女に名を尋ねたのは――。
ただ、あまりにも、その立場と見た目がそぐわなかっただけで。
(あんなボロボロで、あんなふうに泣いてる女の子が、いと
アオイのために用意したベッドに浅く腰掛けながら、イツキはクシャリと髪を片手でかき上げる。
(でも、それでも――月に照らされた彼女はとても、美しかった)
長い黒髪は傷んでいても、烏の羽のように緑がかっていた。薄い琥珀色の瞳は光によって金色に輝いていて、そこから流れる涙は真珠のように綺麗だった。
まるで、
そう、思ってしまった時点で、イツキはもう駄目だった。
どうしても、この少女を欲しいと思った。
なにをしても。どんなことをしてでも。攫って、奪って、俺のものにしなければ。
そのためにはまず、自分のことを好きになってもらうのが最重要で、周囲に認めさせることが重要で。そして、余計な柵も、彼女を縛り付けるものも、すべて取っ払って大事に迎え入れてやらなければならない。
カグヤだなんだと関係ない。粗野に扱うのならもらい受けるまで。
(そう思っての一年計画でしたが……悠長にしすぎたな)
アオイがあんなに追い詰められているとは、考えもしなかった。そのことが、イツキの胸にズシリと重くのしかかる。
「もっと、早く……迎えに行くべきでした。ごめんね、アオイ……」
疲れたのか、限界だったのか。身動きすることもなく深い眠りにつくアオイに、イツキは懺悔をするように顔を寄せる。蒼白い額に唇を落とし熱を残す。
「もう、大丈夫だよ。安心して眠りな」
んぅ……と、可愛らしい声が、アオイから漏れた。動かなかった体がかすかに動き、敷布に置いていたイツキの指を探り当てる。
それをキュッと握りしめる稚さにそっと笑いながら、イツキはまた、アオイの頭をゆっくりと撫でた。
◇◇◇ ◇◇◇
「イツキ様。カグヤ様のご容態なのですが……」
「ああ、教えて」
指を握る力が緩んだところを見計らい、アオイの寝室を出たイツキは、その足で一つ下の客間へと向かった。
室内にいるのは、黒髪長髪を頭の高いところで結った剣士の男と、同じような黒髪長髪を結い上げ地味な簪でまとめているやや年嵩の女。それから、灰茶色の髪の眼鏡をした高齢の男だ。
立ち上がった高齢の男に座るように手で促して、イツキも
眼鏡の男は、コクウ家の専属医師だった。通常の怪我や病気だけではなく、魔力による不調なども診ることのできる医師だ。
北の大陸のポーラリア星王国へ医学を学びに渡り、その後戻ってきた、コクウに連なる者だった。
「カグヤ様のお怪我は、外傷こそ酷いのですが、体の内部にはあまり問題はないようです。栄養も滞っていたようで年齢の割にはお小さいのですが……」
「なんだ?」
途中で言葉を止めた医師は、どこか腑に落ちないような顔をして、眼鏡を押し上げる。
「……カグヤ様の魔力数値は1。普通なら生きるので精一杯の魔力量です。ですが、カグヤ様はあれだけ虐げられた様子なのに、肉体的にも精神的にも、ギリギリのところで生きているんです」
アオイの持つ魔力量であの仕打ち。本来ならとっくに死んでいてもおかしくはないと、この医師は言いたいのだろう。
それは、イツキも感じていたことだ。
腕を組みながら、イツキは片手で顎を押さえた。唇の下を指差で何度も撫でる。
「イツキ様は、ご存知ですか? ポーラリア星王国に生まれる星の力を持つ者たちは、皆が皆、他者を癒やす力を持っていると」
「ん……ああ、知っているが」
「あれは、聖魔力とは違い、自身の生命力を他者に分け与える力です」
そして、その失った生命力はまた、星の力が補填する。
唇の下を擦るイツキの指が止まった。目の前にある応接用の卓子を鋭く見つめながら、息を吐く。
「……なるほど」
ピンと空気が張った。その鋭さに剣士の男と医師がビクリと身を震わせる。ただ一人、女だけはのほほんとした顔でイツキを見ている。
「それで、アオイの治療にはどれくらいかかる?」
「は……そうですね――」
冷や汗を吹きつつ眼鏡を押し上げる医師の話を聞きながら、深く眠っていたアオイの寝顔を思い出していた。
パタンと扉が閉まる。それを見つめつつ、イツキは客間に残った男と女を手で呼び寄せる。
他に誰もいなくなった室内では遠慮という文字がどこかに行くのだろうか。
まあ座れ、とイツキが言う前に、二人ともさっさとソファに座っているのだから、苦笑するしかない。
「それで、イツキ様。サンウ殿の話からすると、カグヤ様は力が使えないのではなく――」
座るなり話しかけてくる男を手で制し、イツキは深くソファに沈み込む。いまここにいるのはこの二人だけ。はしたない! 行儀悪い! と窘められることもなく、イツキはダレる。
その様子を正面から見つめ、男女二人は思った。完璧御曹司のこんな姿カグヤ様には見せられないな、と。
「ところでユヅル。アオイの私物はどうなった?」
それに警戒もせず口を付けながら、イツキは剣士の男――ユヅルに声をかける。
そのイツキの言葉に、ユヅルの眉が一瞬曇ったのを、二人とも見逃さなかった。
「それが……カグヤ様の持ち物は、これだけでした」
そう言って、ユヅルがずっと手に持っていた風呂敷をテーブルの上に置く。結び目を解いて現れたのは、純白の単に緋の袴。限りなく薄い紗の打ち掛け――羽衣だ。そのいずれにも、このルナティリス月皇国を象徴する花、桜花の花弁が舞っている。
「これは……カグヤの正装か」
「はい。もう、十数年は皆の前で披露目されたことはありませんが」
そっと、手を伸ばし、羽衣を撫でてみる。手に吸い付くような滑らかな感触がする。
いつも、通常の巫女と変わらぬ白の単に朱の袴を着ていた彼女だが、もしかしたら人一倍カグヤに憧れていたのかもしれない。
自身に与えられた力を使いこの衣装を纏うことを、誰よりも望んでいたのだろう。
退室していったヒビキ・サンウの言葉を反芻する。
(星の力を持つ者は乙女に限らず自身の生命力を分け与え他者を癒やす。そして失った生命力を星の力が補填する……。月の力を持つカグヤは大地を癒やし潤いを齎す。――今代のカグヤはその力を解放できない"出来損ない"だと、祭祀官長は陛下に進言していたが……)
そこまで考えて、イラッとした。ピシリと音がする。テーブルに置いていた湯呑に罅が入り少しずつ緑の液体が滲んで卓上を濡らしていく。
(あの祭祀官長、やはり殺しておくべきだな。しかも、なんでしたっけ? 今代のカグヤは我儘し放題で自ら望んで祭祀礼館に引きこもった……だったか? チッ、やはりこの国に祭祀礼館など必要ないな。早く殿下を焚き付けて祭祀官共々解体及び
滲み始めた茶が、ピキピキと凍っていく。途端にぐんと下がった室内の温度に、ため息を付きながら、ユヅルともう一人の女は自らに淹れた茶を啜った。
この二人の湯呑が凍っていないのは、女が極微量の炎魔力を放出して溶かしているからだ。
ちなみにユヅルの適正魔力も水属性なので、氷にも耐性がある。いや、小さい頃から耐性をつけさせられたと言う方が正しいかもしれない。
「ほらほら坊っちゃま。殺気も魔力もだだ漏れですよ。完璧で冷徹な護衛剣士と言われているあなた様のそのようなお姿、カグヤ様が見たらどう思いますかねぇ」
ズズッと茶を啜りながら女がニッコリと笑う。イツキやユヅルよりもいささか年上の彼女は、イツキの斬るような殺気にも動じない。
「……イサク」
「カグヤ様の境遇を知って坊っちゃまがお怒りになるのはわかりますけどね。それよりも今後の話し合いのほうが大事でしょう?」
ユヅルと同じ水色の瞳をピタリとイツキに当てて、女――イサクは笑みの形を変える。その表情を見たイツキの殺気がふっと霧散した。
「い、イサク。坊っちゃまはやめろ、といつも言っています」
「まあまあ。ご自身の殺気も制御できない方に、そんなこと仰られても、ねぇ?」
「……そこで俺を見るなよ、姉さん」
イサクとイツキから目を逸らし、ユヅルが気まず気に咳払いをする。
凍った室内が温もりを取り戻し、罅の入った湯呑からまたチロチロと茶が漏れ出す。それをグイッと呷ると、イツキは湯呑に魔力で水を入れてから、魔力で風を起こして乾かした。
取り敢えず、後で金継ぎの工房に持って行こうと決意する。この湯呑は成人した日にイサクが祝いでくれたイツキのお気に入りだ。本人の目の前で壊してしまった。
「……アオイの治療にはだいたい
「……承知しました」
「わかりました。でも、坊っちゃま」
「だから、坊っちゃまはやめろと……なんですか」
神妙に頭を下げる二人だが、イサクだけは顔を上げてイツキをひたりと見据える。
「カグヤ様の体は、私たちが健やかになるようにお手伝いいたします。けれど、カグヤ様のお心は……たくさん傷ついたであろうお心は、攫ってきたあなた様しか癒やすことはできません。そのことは努努お忘れなきよう」
ゴクリとイツキの喉が上下する。
そんなこと、言われるまでもなかったが、イサクから発される圧に気圧されていた。
実力も立場も何もかも、イツキのほうが上だというのに、彼はいつまで経っても彼女には勝てない。
「わかっている。そんなことは」
「本当ですね? 約束ですよ、坊っちゃま」
「だから、坊っちゃまはやめなさい!」
昔から変わらない、二人の相変わらずなやり取りを横目で眺め、黒髪の護衛剣士は、はぁ、と一つ溜息を吐いた。
◇◇◇ ◇◇◇
目が覚めたとき、見知らぬ天井が目に飛び込んできてアオイは大いに慌てた。
体が沈み込むほどにふかふかの
(あ、ここ……)
掛布から顔だけ出して室内を見回したアオイは、ゆっくりと肩から力を抜いた。
「イツキさんのおうち……」
よかった、とそう思った。また祭祀官寝舎に戻されたわけではなくて。
安堵して深く息を吐いていると、コンコンという音が聞こえ、アオイは体を起こした。
「失礼いたします……あら、お目覚めになられたのですね。よかった。お体の具合はいかがですか? お腹は空いていません? あ、それよりも喉が渇きましたでしょうか」
「えっ、ぁ、あの……その……」
矢継ぎ早に質問され、アオイの頭が混乱する。
こうやって、色々聞かれてしまうと、なにを言っていいのかわからなくなる。だから、今までも周りにいた巫女や祭祀官、はたまた巫女見習いや下級祭祀官まで、アオイのことを疎んじていたのだ。
「えと……その……」
ぐるぐると混乱して、なにを問いかけられたのかももうわからない。
(どうしよう、どうしよう……早くしないと、この人にも嫌な思いさせちゃう……!)
ジワリと、涙が浮かんだ。もうずっと、泣くのを我慢していたのに、イツキに出会ってからアオイの涙腺はとても緩くなってしまった。ここで泣いてしまえば、問いかけてくれたこの女の人にも迷惑がかかるというのに。
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