コクウ家。

 その家の名を知らぬ者は、この国にはいないとさえ言われる、皇国でも指折りの名家だ。それも、とびきりの。道を歩けば、皇族以外が全員その道を譲ると言われているほどの。

 びっくりしたよね? と笑う男を、祭祀官の誰もが遠巻きに見ていた。イツキが首を巡らすと、皆が皆、恐怖を顔に貼り付けて、下を向く。


(え、と……なにが、怖いの……?)


 確かに、先ほどのイツキはまるで氷のように冷たかったけれど。でも、アオイに触れる手はとても丁寧で優しいものだ。

 ゆっくりとしたアオイの話に、嫌な顔せず合わせてくれる温かい人だ。

 だから、皆がなにをそんなに怯えているのか、アオイにはわからない。

 彼女に向ける視線とは別に、イツキが周囲の人間を睥睨していることも、アオイにはわからない。

 そもそも、イツキが、氷冷の剣士と呼ばれていることを、アオイは知らない。コクウという名家の名は知っていても、イツキ個人のことは何も知らないのだ。

 故に――イツキが笑みを振りまいている状況が、祭祀官たちにはただの恐怖だった。

 イツキ・コクウという人物は、滅多なことでは笑わないのに、敵を前にしたときだけはその美貌に凍えるような笑みを浮かべることで、名のある家々では有名なのだ。

 "コクウ家の嫡男の笑みを見てはいけない"というのは、共通認識だった。

 小さく首を傾げるアオイにふんわりと笑いながら、イツキはそのまま祭祀官寝舎の正面扉を堂々と通り抜ける。


「コクウ殿!」


 正面出入口には、馬の繋がれた車があった。通常二輪の車体だが、これは四輪だ。後ろから乗り込むのではなく、横から乗るらしい。アオイがカグヤと判明してから迎え入れられたときとは、比べ物にならないほど豪奢な車だ。

 スタスタと後ろを振り向くこともなくイツキは歩く。本当に、彼の前には誰もいない。

 その後ろから呼び止めるような声を上げるのは、祭祀官長だった。バタバタと走り寄る姿は醜いことこの上ない。

 アオイを極力揺らさないように歩いていたイツキがピタリと足を止める。


「……祭祀官長殿。私が怒らない要件なんでしょうね?」


 前を向いて、瞳だけを傍らの太った男に向け、イツキがひどく低い声でそう言った。

 顔を青褪めさせながら、それでもコクコクと首を縦に振る中年の男は、なかなかに豪胆な男ではあった。


「いいか、カグヤ。コクウ殿とともに行くのであれば、お前の帰る場所は祭祀礼館にはもうないものと思え」


 祭祀官長のその言葉に、アオイの体が強張る。そして、彼女を抱くイツキの腕がピクリと動いた。


「……イツキ、さん」


「ん? なぁに?」


 鋭い瞳で愚かなことを吐かす男を見ていたイツキが、アオイの呼びかけに甘い声で応える。

 間近でその一部始終を見ていた祭祀官長は、今にも卒倒しそうになっていた。目の前で穏やかな会話が繰り広げられているのに、自分の首元には鋭利な刃物が突き立てられているような、そんな心地がしたからだ。

 そして、それはおそらく、間違ってはいない。

 三歩以上離れた場所でその光景を眺めていた白髪の男が、「殺気がだだ漏れだな……」と明後日の方向を向いて呟いていた。その科白が誰の耳にも届かなかったことが、良かったのか悪かったのかは定かではないが。


「あの……わたし、イツキさんのところに……行って、いいんですか? でも、その……」


 イツキに寄りかかりながら、アオイはモジモジとしながら尋ねた。

 本当に、良いのだろうか。祭祀礼館に戻らなくて。

 本当に、連れ出してくれるのだろうか。アオイをあの地獄から。


(でも、もし、出ていった先も地獄でも……もうこれ以上辛くなることなんてない、だろうし……)


 それに、と思う。

 チラ、と上向けた視線の先で、綺麗な顔がふわりと微笑んでいる。


(それに――イツキさんなら、怖くない……と、思う、し……)


 続く言葉を出せぬまま過ぎる刻を埋めるように、イツキが細い体を抱きしめ直した。名前を呼ばれてアオイの胸が苦しくなる。

 片腕で抱きかかえられ、もう片手が頬に添えられる。怪我に響かないようにゆっくりと上向かされた。目の前に、玲瓏な美貌が迫り、アオイの白い頬が赤く染まっていく。

 それにクスリと笑みを浮かべて、イツキはコテンと首を傾けた。


「ウチに、おいで?」


 低いのに、柔らかな声音で促され、アオイは熱に浮かされたようにコクリと頷いていた。

 それに対して嬉しそうに笑う男を、周囲は恐怖の眼差しで見つめている。

 慈しむようにアオイに笑いかけると同時に、すぐ隣にいる祭祀官長には殺気を向けるという、非常に器用なことを、イツキはやってのけていた。


「では、行きましょう。……ああ、祭祀官長殿」


「は、はひっ」


「アオイの使っていた部屋は、そのまま手を付けないでおいていただけますか?」


「え、い、いや……それは」


「……なにか問題でも?」


 薄っすらと口元に笑みを浮かべるイツキに、祭祀官長は震え上がる。ブルリと肉を震わせて、体が揺れた。


「と、と、とんでもない」


「そうですか。では……ユヅル」


 イツキの呼びかけに、車の近くに立っていた男が近寄って来る。長い青混じりの黒髪を頭頂部で一つに結んだ男だ。

 彼は剣士のようだった。腰に、イツキと似たような剣を佩いている。


「祭祀官長殿に付き添ってやれ」


 その言葉に、長髪の男が頭を下げる。

 彼は、「祭祀礼館まで行き、アオイの部屋から私物を全部取ってこい」という、イツキの言葉の裏をしっかり読み取っていた。


 ◇◇◇ ◇◇◇


 車に乗り込むと、馬が駆けて走り出す。

 アオイは相変わらずイツキの腕の中にいた。

 降ろしてほしいと伝えたが、「怪我がひどいから駄目」と言われてしまい、離してもらえなかったのだ。確かに、四輪の馬車とはいえ、座っていたら振動が響いただろう。


(でもでも……だけど……!)

 

 先ほどから、イツキの指先がアオイの頭を撫で、頬を撫で、今は髪の毛をクルクルと弄っている。

 これからどこへ行くのか、とか。

 アオイを引き取ったのはなぜなのか、とか。

 コクウの家で自分は何をすればいいのか、とか。

 聞きたいことはたくさんあるはずなのに、イツキがあまりにも嬉しそうにアオイに触れているから、聞きたいこともすっかりどこかへと飛んでいってしまう。

 これじゃ駄目だと思っても、言葉が人より遅いアオイは、何からどう話していいのかわからなくなってしまうのだ。

 結果、何も言えずにイツキの腕の中でじっとしていることになった。

 そうなるともう、イツキのやりたい放題だ。

 蹴られていたアオイの体を気遣いながら、肩や背中、果ては腰まで触れてくるからどうしていいのかわからない。恥ずかしいけれど、嫌ではない自分の感情に、アオイは動揺した。


「あ、あああ、あの、イツキ、さん……っ」


「うん? どうした?……痛かった? 俺が触って痛かったら、ちゃんと痛いって言うんだよ?」


 あとで医師に診せるから。そう言ってまたイツキの指がアオイの体を這う。

 体の具合を診てくれていたのだと気がついて、アオイは良からぬ想像をした自分を恥じた。良からぬ想像ってなんだ、と思うけど。


(そうだよ……イツキさんが、こんな貧相な体に触りたいなんて、思うわけない、もの……)


 よくわからない感情で一人落ち込んだ。

 アオイの体に触れるイツキの指先は相変わらず優しくて、痛みなど少しも感じない。

 急に押し黙ったアオイに何を思ったのか。イツキが彼女を持ち上げるようにして抱き締める。

 アオイの、きちんと洗えていない髪に、イツキの熱い吐息を感じた。驚いて身動ぎをしようとしても、しっかり抱き締められていて動くことすらできない。


(は、恥ずかしい……恥ずかしい! お風呂に入らせてもらえないから井戸で体拭いたりしてたけど、だから、きっと、わたし……く、臭い、のに……!)


 羞恥にきつく目を閉じていると、暫くして、ガタガタガタッと車が揺れた。


「ごめんね。この辺道が悪くて。アオイは俺が抱っこしててあげるから、そのまま楽にしてて。あ、でも、もしも怪我に響くようだったら、ちゃんと俺に言わないと駄目だよ?」


「え……あ、はい……」


 本当に駄目だからね、と念を押されアオイは素直に頷いた。

 そしてまた、落ち込む。

 イツキは、アオイの体を気遣ってくれただけなのに。

 抱き上げて運んでくれたのは、アオイが蹴られて動けなかったから。

 座席に下ろしてくれないのは、車の揺れが傷に障るから。

 体が浮くように抱き締められたのは、悪路の揺れがアオイに響かないように。

 そのどれもこれもがアオイのためだというのは分かるけれど、なぜイツキがそこまでしてくれるのかがわからない。

 知り合いだったから?

 それとも――


(わたしが"カグヤ"、だったから?)


 ああ、それなら納得ができると、思った。

 イツキはきっと知っていたのだ。アオイがカグヤだと。この国に於いて最も重要な存在だと。

 それがこんな小汚い小娘で、夜の社で一人で泣いていて……。きっとただ、興味が惹かれただけなのだ。

 この優しさも、温かさも、アオイがカグヤだったから、与えられたものだ。


(そんなの、最初から、わかってた……はずなのに)


 どうしてこんなにも、胸が痛くなるのだろう。

 どうしてまた、期待なんてしてしまったんだろう。

 ――それでも。


(そうだとしても、わたし……イツキさんなら、いい、かなぁ)


 名家の御曹司だ。彼には何よりも相応しい相手がいるはずだ。だから、彼の一時の興味対象になるくらいなら、アオイは耐えられると思う。

 その後興味を失ったとしても、頑張って働いて、他の仕事を紹介してもらえるくらいの存在にはならないと。

 黙って抱かれたまま、イツキの胸元にアオイは顔を押し付ける。その頭頂部に、イツキが何度も羽が触れるような口づけを落としていることに、気が付かない。イツキも気付かせるつもりがない。

 斜め下にアオイの思考が燻っていることにも気が付かず、ようやく止まった車からイツキはアオイを抱いたまま外に出た。


 イツキの腕の中で外の景色を見て、アオイはポカンと口を開けた。

 そこは、緑が生い茂る森の中だった。

 確かに、ルナティリス月皇国は、大陸のほとんどが森や林の国だ。それに付随して、河川や湖も多くある。周りは海に囲まれていて、山や川、海からの資源が豊富だ。

 でもだからといって、木々のただ中に家を作る国民はそういない。


「……すごい」


 屋敷の正面にあたる大門は大きく立派だった。祭祀礼館よりも装飾は少なく、華美さは控えめ。けれど、掘り出されている彫刻がとても繊細で、見事だということはアオイにもわかる。

 四方を囲む塀は高く、中を窺い知ることはできないけれど、きっと、とても広いのだろう。迷子にならなければいいな、とアオイはイツキに運ばれながら思った。


「こら、アオイ。駄目だよ。怪我が酷いんだから、ジッとしてて。そのうちちゃんと案内してあげますから」


 首をひねってあたりを見回すアオイに、イツキが苦笑する。

 おとなしくなったアオイを抱えて大門をくぐると、広い中庭があった。そこをスタスタと通り過ぎると、奥に見える建物の小さな階を昇る。

 入り口から中に入ると、ズラリと並んだ使用人が両脇で頭を下げていた。

 吃驚して固まるアオイの腕を、イツキの指先が宥めるように撫でる。

 階段を上がり最後の階に辿り着くと、イツキは回廊を渡り、一つの部屋へと入った。

 室内を見渡して、アオイの口から感嘆のため息が零れ落ちた。

 木の雰囲気をそのままに敷き詰められた床板は、丁寧に蜜蝋が塗られ艶々と輝いている。

 その床に、円形の敷物が敷かれていた。華美ではなく、しかし質素でもない。青い地に薄黄色の満月、そして羽ばたく黒色の三本脚の鳥の姿が織られている。それは間違いなく、コクウ家を象徴する大鴉だろう。もしかしたら手織りかもしれないと思うと、足を下ろすのも躊躇われそうだ。

 観音開きの扉は外に出られるようになっていた。庇付きの縁側は、上階にあるとは思えないほどに広い。アオイが祭祀礼館で使用していた部屋が三つは入ってしまいそうだ。

 扉の横に二つある明り取り用の丸い窓には、格子が填められている。その意匠は大ぶりの花と満月だ。陽が射した時にたいそう美しい影を床に落とすのだろう。

 奥には、足の低い寝牀ベッドが置かれている。丸卓子テーブルに、猫脚の小さな収納棚、壁側に据え付けられた大きな衣装箪笥。それらすべてが、部屋の調和を保ってそこにあった。


「……かわいい」


 そう。とても可愛らしいのだ。この部屋は。広さも、調度品の高価さも、驚くほどだけれど。それよりも、使われている家具の形状や、絽の窓帷カーテンやベッドの敷布や掛布などの色が、どう見ても若い女性向けなのだ。

 ポツリと呟いたアオイの言葉に、イツキが吐息で笑う。


「気に入ってもらえたようで、よかった」


 アオイをそっとベッドに寝かせると、イツキは彼女の髪をゆっくりと指で梳いた。


「本当は、お風呂に入れてあげたいけれど、やめておこう。おそらく、医師から許可が下りないと入れないと思う」


 ごめんね、と済まなそうに眉を下げられ、アオイはふるふると首を振った。

 本音では、体を清めたいけれど、こればかりは仕方がない。こんな体でこんな綺麗なベッドを汚してしまうことに、少しだけ抵抗はあるけれど。


「だい、じょうぶ……です」


 健気にそう言うアオイを見つめ、イツキの濃碧玉の瞳が微かに揺れた。


「うん……あなたは、しっかり休んで、しっかり食べて、ちゃんと怪我を直さないと。でもまあ、そうだな……」


 横になったアオイの手を取り、イツキが指先に静かに口づける。


「イ、イツキ、さ……!?」


「……ようこそ、コクウ家へ。俺は、あなたをここへ連れてくることを、ずっと心待ちにしていた」


 ふわりと優しく微笑まれ、アオイの頭の中で渦巻いていた言葉が、あっという間にどこかへ吹っ飛んでいく。

 驚きで目を見開く少女を面白そうに見つめ、イツキは立ち上がった。


「医師を手配してくる。紹介したい人もいるから、少しだけ待っていてね」


 ゆっくりと頭を撫でながら「寝ちゃってもいいよ」と囁かれ、ずっと限界だったアオイの瞼が抗えずに下へと落ちていく。

 最後に感じたのは、額に触れる温かな感触だった。

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