「……申し訳ありません、カグヤ様。驚かせてしまいましたね」


 そっと、アオイの手が温かな手のひらに包まれる。ハッとして上向いた先に、申し訳なさそうに笑う女性の姿があった。

 年の頃は、おそらくアオイよりもずっと上。もしかしたらイツキよりも、もっと。

 黒の袷に襷掛け。青みがかった黒髪は長く、けれどきっちり纏められ装飾の少ない簪で留められている。

 アオイを見つめる瞳は、透き通るような水色。薄れた記憶の片隅にある、故郷の海を思わせるような色だ。そこにアオイを蔑むような光は無く、ただ案じるようにアオイを見つめている。


「あ、の……」


「お目覚めになられていて嬉しくてはしゃぎすぎました。そうですね、まずは自己紹介からですね。私はイサク・シウと申します。カグヤ様の身の回りのお世話を任されました。どうぞ、よろしくお願いしますね」


 ベッドの脇に膝を付き、イサクが深々とアオイへ頭を下げる。


「えと……アオイ・ハクロウ、です。あの……よ、よろしく、お願いしま、す……?」


 頭を上げたイサクが、アオイの言葉に嬉しそうに微笑んだ。握られた手は温かい。こんなふうに触れてくれるのは、イツキ以来二人目だ。


「さて……ではカグヤ様。まず先に、お水を飲みましょうか。といっても、冷たいものは良くないので、お白湯にしましたよ」


 飲めますか? と問われ、アオイは頷いた。差し出される湯呑はほんのりと温かく、アオイの心までジンワリと温めてくれる。

 飲み終わった湯呑を片付けて、イサクはアオイの体を優しく拭き清めていく。

 髪は洗うことができずに申し訳ないと言われ、アオイは大きく首を振った。

 そんなに首を振ると取れてしまいますよ、と脅すように言われておかしくて、苦しくて、涙がホロリと零れ落ちる。

 その雫を手巾でそっと拭い取り、イサクは「失礼いたします」と言いながら、アオイをゆっくりと抱きしめた。

 久しく、感じていなかった温もりだった。イツキに抱き締められたときとは違う。どこか懐かしい温もりに、アオイの瞳からまたどんどん涙が溢れていく。声を抑えながら静かに泣くアオイを、イサクは痛ましそうな目で見下ろしていた。


(大声で泣ければ、もっと楽になるでしょうに……)


 優しい手付きで、イサクがアオイの髪を撫でる。

 それがまるで、幼い頃母に抱き締められた記憶を、アオイに蘇らせた。

 十歳で別れてから一度も会わない両親。金で売られたのだとわかっていても、恋しい気持ちは無くならなくて。ずっとずっと心の底に押し込めて蓋をしていたその感情が、溢れて止まらなくなってしまう。


 しばらくの間、静かに泣いていたアオイを、イサクは何も言わず抱きしめてくれていた。

 ようやく涙が収まり、しゃっくりが止まった頃、イサクがまたアオイに湯呑を差し出してきた。

 ベッドから降りる。可愛らしい装飾の長椅子ソファに腰かけ、喉を潤す。今度は白湯ではなく、甘い香りのお茶だった。

 ゆっくりと息を吐き、落ち着きを取り戻したアオイに、イサクが柔らかな笑みを向ける。

 そして、今度はソファの脇に膝をつくと、アオイの両手をそっと握って持ち上げた。


「カグヤ様。お願いがございます」


 改まってそう言うイサクに、アオイが緊張したように頷く。水色の瞳がとても真剣だった。

 

「アオイ様、とお呼びしても、よろしいですか?」


 その言葉に、アオイの視界がぶわりと歪んだ。

 イツキは、アオイをカグヤとは呼ばなかった。最初から、アオイをアオイとして扱ってくれた。

 でもイサクは、アオイをカグヤとして見た上で、アオイの名を呼ばせて欲しいと言ってくる。

 どちらも、嬉しかった。アオイは、カグヤであることが嫌だったわけじゃないから。

 誰かのために、この国の人たちのために、力を使えない自分が嫌いなだけだったから。


「も、……っ、もちろん、です……! アオイって、呼んで、ください……っ」


「……はい。アオイ様。ああもう……そんなに泣いたら、目が溶けちゃいますよ。さぁさ、涙を拭いて。アオイ様の可愛らしいお顔を、私に見せてくださいな」


 頬を包み込まれ、上を向かされる。泣きすぎてグシャグシャの顔を、また手巾で拭われて。「ほら、綺麗になりました」と微笑まれる。

 そんな子ども扱いが嫌ではなくて。むしろ擽ったくて。アオイはエヘヘと小さく笑みを浮かべた。


 ニコニコと、イサクと笑い合っていると、ガタンと激しい物音がした。なんだろう、とそちらに目を向けて、アオイは固まった。

 部屋の入り口に、呆然とした顔のイツキが立っていた。


「あ、アオイ……? どうして……?」


 ヨロヨロと、イツキが手を伸ばしながら室内へと入ってくる。イサクと手を取り合っていたアオイを、ヒョイッと抱き上げると、そのまま抱え込むようにして、ソファに腰を下ろす。

 離さないとばかりに抱きしめられているが、アオイの体の傷には響かないほどの強さ。けれど、下ろしてほしくて藻掻いても、絶対にその腕から逃れることのできない微妙な力加減。

 アオイを奪われたイサクは、やれやれと首を振って立ち上がった。茶器を手に離れていくところを見ると、また新しく茶を淹れ直すようだ。


「ねぇ、アオイ……。なんでイサクにあんな可愛い顔を見せているんです?」


「へ!? え……イ、イツキ、さん……?」


「あんな嬉しそうな笑顔で……俺が先に見たかったのに……俺にだってまだ笑ってくれたことないのに……」


 アオイの肩口に顔をうずめ、イツキが何やらボソボソと小声で呟き始めた。

 残念ながらアオイにその声は届かなかったけれど、イサクと、イツキとともに入室してきた男が何かを察したような顔で、二人同時に頭抱えていた。


「イツキ様……もう、そのくらいで」


「そうですよ、ぼっちゃ……おほん、イツキ様。アオイ様が混乱しております」


 その後もまだ少しぐだくだとアオイに抱きついて文句を垂れていたイツキは、しばらくしてようやくアオイから顔を上げた。ただし、その手は離れないし、アオイを椅子に座らせることもない。

 自身の膝の上に彼女を乗せたまま、イツキはアオイの指先をそっと握る。その爪の先に柔らかな唇を落とし、ふふっと甘く笑みを浮かべた。


「アオイ。体の具合はどう?」


「あ、あの……えと、はい。大丈夫、です」


「ん……わかった。でもアオイのその『大丈夫』は俺、信じないことにするね」


「!?」


 ちゅ、ちゅ、と指先やら頬に落とされる口づけよりも、イツキのその唇から落とされる言葉のほうがとても無慈悲だ。


「だ、だいじょうぶ……あの、本当に、大丈夫、なんです……」


「うん。そうだね。アオイは大丈夫だと思ってる。でも、俺は大丈夫だとは思っていません。だから、俺がもう大丈夫だと思うまでは、あなたのその『大丈夫』だけは信じないことにする」


(そ、そんなことって……ある、の?)


 じゃあ、この先アオイが何度『大丈夫』と伝えても、イツキは信じてくれないということではないか。

 非難を込めた瞳で見上げたアオイだが、イツキの瞳を見た瞬間、言葉が喉の奥に引っ込んでいった。吸い込まれそうなほどに綺麗な瞳に、アオイだけが映っていた。

 女性よりも綺麗な顔で、アオイが今まで相対してきた男性とは違う、何か熱の籠もったような瞳。そんなで見られたことがないせいで、そこにどんな意味が込められているのかが全くわからない。

 けれど、どうしようもなく、胸の奥底がソワソワして落ち着かない。

 スル……とイツキの指先が、アオイの頬に落ちてきた髪を撫でて払う。


「なにも、ずっと信じない、と言ったわけじゃないでしょう? アオイは、俺にその言葉を信じさせる努力をしないつもりかな?」


 その言葉に、アオイの肩がピクリと動く。おずおずとしながらも、アオイはイツキにしっかりと顔を向けた。

 努力は、報われないことばかりだったけど、ずっとしてきた、つもりだ。だって努力をしなければ、アオイはあの場所で生きていくことなどできなかったから。

 だから、努力しない人間だなんて思われるのは嫌だ。


(イツキさんにだけは、そう思われるのは嫌だ)


「そ、そんなこと、ない、です。絶対、イツキさんに信じて、もらい、ます……っ」


 途切れ途切れで格好の悪いアオイの宣言を、イツキは蕩けるような笑顔で受け止める。


「うん、信じてるよ。そうですね……ではまずは、しっかり食事をして、しっかり睡眠を取って、怪我を癒やして、慣れたら運動がてら俺と遠がけに行きましょう」


「はえ……?」


「遠がけ。アオイは馬に乗ったこと、ある?」


「え、いえ……ない、です」


 そっか、と言って笑うイツキはなぜかとても嬉しそうだ。その笑顔に、やたらとドキドキしてしまうのはなぜか。

 きゅうっと締め付けるように痛くなる胸を両手で押さえて、アオイは、首を傾げた。

 遠がけよりも何よりも、努力の方向性がそれでいいのだろうか。


(それって……誰でもしてること……なんじゃ……?)


 首を傾げるアオイの唇に、イツキの人差し指が添えられる。

 コツンと額に額を当てられて、その距離の近さに、アオイは今更ながらに慌てることになった。


「あ、あああ、あの、イツキ、さ……」


「アオイは、そんなこと誰でもしてること……なんて思ってる?」


「え?……え、と……」


 言葉に詰まるアオイの思いを、イツキは簡単に掬い上げてしまう。


「そうだね。本当なら、誰でもしてることだね。どんなに貧しい家の者でも、夜寝ることだけは放棄してないかもね。でも……ねぇ、アオイ。あなたは、今まで、その誰でもしている"当たり前"を、奪われてきたんです。そして、本来それは、搾取されてはならないものなんです。だから、あなたはここで精一杯努力して、ちゃんと取り戻して?」


 イツキが語ることは、ただの綺麗事なのだと、アオイは知っている。頭の良いだろうイツキなら、もっとわかっているはずで。だから、それが、アオイのための詭弁なのだろうことも、アオイにはよくわかった。別に騙されているとか、煙に巻かれているとか、そんなことは微塵も感じないけれど。


(それがきっと、イツキさんの優しさで……出来損ないで落ちこぼれのカグヤを拾ってきた、イツキさんなりの、責任のとり方なんだろうなぁ)


 ――すべては、アオイがカグヤだから。


 そのことを思い出して、アオイのドキドキしていた胸がズキズキに変わる。

 どうして、そう考えるだけで、胸が張り裂けそうに痛むのだろう。

 どうして? という自問がまだひとつ、増えた。


「アオイ、お返事は?」

 

 黙り込むアオイを、イツキは静かに見つめていた。


(お、お返事? ええと……お返事……なんのお返事だっけ……?)


 別のことに意識を奪われて、直前の会話を思い出すのに時間がかかる。

 えっとえっとと戸惑う間にも、イツキは、アオイを見つめ続ける。その視線に耐えきれなくなり、アオイはぎゅっと両目を瞑って、コクコクと何度も頷いた。


「ん……いいこ」


 その言葉通り、イツキに頭を撫でられる。

 まるで、彼専用の愛玩動物にでもなった気分だ。


(けど、それも……悪くない気がしてきた……)


 撫でる手は、少しひんやりとして、でも温かくて心地好い。無意識に擦り寄るアオイを見て、イツキの目元がほんの少し細くなる。


「じゃあ、アオイ。俺からもう一つ、あなたにお願いがあるんだ」


「……お願い、ですか?」


 トロンとしたでイツキ見上げ、アオイが眠そうに尋ねる。ゆっくり撫でられる手のひらが気持ちよすぎて、アオイの意識を半ば奪っていた。

 その様子に「かわいいな」と口の中で転がして、イツキはまた蕩けるような笑みを浮かべた。


「俺と、結婚しよう」


 ガシャン、と何かが落ちる音がした。ガツン、と何かがどこかにぶつかった音も。そして、壁際に控えていたはずの剣士の男が、脛を押さえて蹲っている。

 イサクが呆然とした顔でこちらを見ているのがわかる。その手元で茶器がぶっ倒れて茶が散乱している。火傷をしなかったのだろうか。

 意識の逸れたアオイを咎めるように、イツキが彼女の頬に手のひらを滑らせて上へと向けさせる。

 真剣な濃碧玉の瞳と、見つめ合うこととなった。


「は、へ……?」


「アオイ。だめです。俺に集中して。もう一回言うから、ちゃんと『うん』て言うんだよ?」


「……は、あの……」


「アオイ。俺と結婚してくれる? いや、違うな。俺と結婚して、俺のものになって?」


「…………え?」


 なんだか突拍子もない台詞に思考が停止した。

 顔が、どんどん近づいてくる。先ほどおでこコツンしたときよりも、なんだか濃密な気配を伴って、イツキがアオイに近づいてくる。

 ふわりと、なにやら甘い良い香りがする。なんの香だろ……というどうでもいいことがアオイの脳裏を掠めた。


「あ、あの……あの、イツキ、さ……ンぅ」


「はぁ……やっぱり少しだけ黙って、アオイ。もう、俺我慢できない。アオイがかわいくてかわいくて、俺の理性を狂わすんです」

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