死者の待つ部屋 

満月の夜は、“古いもの”が目を覚ます。

消えたはずの声も、途切れた記憶も、

生の気配に似た何かを帯びて蘇る。


冥府省の黄泉送り──メイは、

その揺らぎを、今夜はひどく強く感じていた。


生と死の境目が、ほんの少しだけ揺らぐ夜。

満月が、やけに近い。


▼△▼


ビール片手にベランダへ出たメイの目に映ったのは、

月光を浴びるひとりの青年だった。


ゆるく束ねた黒髪が風に揺れ、着物の裾が淡く光る。


「……ぴよ丸?」


声に、青年はゆっくり振り向く。


そこには“生きた人間”が立っている──

だが襟元に浮かぶ赤い線が、静かに真実を告げていた。


それは首実検の跡。


月の光に照らされて、線はかすかに滲み、

まだ温かい血のように見える。


――何百年も前に死んだはずの青年。

けれど今、満月の夜だけ“生きて”いる。


「なんだ、その顔は」


泰朝が少しだけ苦笑する。


「ねぇ、なんであんた、満月の夜に人に戻るのよ?」


「そうだな……」


視線は空のまま。


「あの夜も、こんな月だったからかもな」


「……殺された夜?」


「ああ」


会話が落ちた瞬間、静かな間が満ちた。


遠くの車の音。

どこかの部屋のテレビの笑い声。

街の“生”の気配だけが続いている。


「何を願ったのか、思い出せそう?」


「いいや。さっぱりだ」


泰朝は髪をかき上げ、自嘲めいた表情をする。


「……しかし変な感じね。うちに着物を着た男がいるなんて」


「ふむ。モフモフの方がよいと?」


「愛嬌はあるわよね、あっちは」


軽口のくせに、目をそらすのが一瞬遅れた。


満月の光が、泰朝の横顔をくっきり縁取る。

その影が、やけに綺麗で寂しい。


「……メイはそそっかしくて危なっかしいからな」


空を見上げたまま、泰朝がぽつりと続ける。


「我が目を離すと、すぐ問題に巻き込まれそうで落ち着かぬ」


「なにそれ。保護者気取り?」


鼻で笑おうとしたが、うまく強がれない。


泰朝は目を伏せた。


「保護者、というより──」


夜風が二人のあいだをそっと抜ける。


「……結局、誰も守れずに死んだのでな」


声は驚くほど静かだった。


「せめて死んだ後くらい……守り切りたいものだ」


缶ビールを握るメイの指先に力がこもる。


うまく笑えず、ベランダの手すりを見つめた。


誰も守れずに死んだ──

その言葉が胸の奥で重く沈む。


昼間、雛菊が言っていた。


“一度三途の川を渡ったはずの魂らが──黄泉がえってきとる”


冷たい声が耳にひっそり残っていた。


「……やめてよ」


喉の奥からようやく声を絞り出す。


「そんな重い話、満月のベランダでする?

……せっかく気持ちよく飲んでたのに」


「すまぬな」


泰朝は短く言って、黙った。


沈黙が落ちる。


だがそれは気まずさではなく、

同じ場所に立つ者の静けさだった。


──ピンポーン♪


インターホンが静寂を破る。


「……客か?」


「こんな時間に?」


メイはビールを置き、玄関へ向かう。

背後から泰朝の気配がついてきた。


モニターを確認し、喉がひゅっと鳴る。


恐る恐るドアを開けた。


「こんばんは」


そこには、紙袋を提げた異国の死神が立っていた。


くすんだ金髪。青灰色の瞳。

少しゆるめたネクタイ。

まるで外国映画から抜け出してきた人物のようだ。


「……なんで、あなたが」


メイは顔をしかめる。


「今日から隣に引っ越してきたんだ。

 ご挨拶を……日本の“黄泉送り”、メイさん」


レオンが丁寧に頭を下げる。


「ちょっ……なんで私の名前を!?

 名乗ってないわよね!? しかも隣って……昨日亡くなったばかりじゃ?」


「同じ街で働く同業者の名前くらい把握している。

 昨晩のような異常事態には協力が必要だろう?」


そして、穏やかに微笑んだ。


「隣室については、会社の手配でね。

 我が社は──葬儀から不動産業界まで手広く扱っているんだ」


背後から泰朝が現れる。


その気配に、レオンの目が細くなった。


「へえ……君、今夜は“人間”なんだね。

 “願掛けロック”か……興味深い」


泰朝は低く答える。


「……勝手に覗くな。

 それから──メイに馴れ馴れしくするな」


空気が張りつめる。


メイは慌てて二人の間に入った。


「はいストップ。ここ廊下だから。

 ご近所迷惑」


レオンは肩をすくめ、紙袋を差し出した。


「引っ越しのご挨拶。向こうの国では砂糖菓子を配るんだ。

 ……日本式にクッキーにしておいたけど」


それは、予約必須の洋菓子店のものだった。


「……ありがたく頂くわ」


「よかった」


すると、レオンの表情が仕事のそれに変わる。


「ところで──早速なんだが」


「……なによ」


「俺の部屋に、“昨日死んだ男”が帰ってきてるんだが?」


玄関の奥から、冷たいものが這い上がる感覚。


「……は?」


泰朝も眉をひそめる。


レオンはさらりと言う。


「あれは、君の死霊カスタマーだ。

 しかし、部屋の奥で俺を――待っている」


青灰の瞳に、冷たい光が宿る。


「君から“狩り”の許可が欲しくてね。」


さっきまでとは違う、

薄氷のような冷気がメイの背を撫でていった。





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