「ナイアガラの縁で」

ナイアガラの縁で掴む命の重さ

1. 霧の向こう側


その夜、ユキノはナイアガラの滝の縁に立っているような気分だった。一歩踏み外せばすべてが終わる。轟音だけが、耳の奥で鳴り響く。

「……もう、限界よ」

思わず、声が漏れた。空気は重く、冷たい。自宅のアパートを抜け出して訪れたのは、薄暗い安酒場。焼酎ではなく、安いウィスキーをストレートで呷る。喉の奥が焼けつくように熱く、胸の奥の冷たい塊を一瞬だけ溶かす。


「ふう……」

アルコールの匂いが鼻に貼り付く。胃がじんわり温まり、指先の震えがわずかに収まる。今日一日、頭の中でリフレインされていたのは、**「生きててごめんなさい」**という氷のような言葉。


隣の男が、グラスをちらりと見てニヤリと笑った。

「そりゃ効くだろ。危ない飲み方してるね」

低く粗野な声が、妙に安心して耳に入る。ユキノは一瞬、ためらったが、ここでは誰も自分を知らない。


「危ないのはお酒だけじゃないわ」

グラスの縁を指でなぞり、低く囁く。


「へえ。ナイアガラか、エンジェルフォールか、どっちが好き?」

男は面白がるように尋ねた。


「……滝壺の底で何も考えなくていいなら、どっちでもいい」

薄暗い光の中、彼の瞳の色はよく見えなかった。


男は笑わず、グラスを差し出す。安物バーボンの甘い木の匂い。

「そんな顔してる女は、今夜、一人で帰っちゃいけない」

その言葉は魔法の呪文のようだった。同情でも愛でもない、ただの提案。しかし、ユキノの心にすぐ届く、必要な「承認」の形だった。


「わかってる。一杯ひっかけて、誰かに抱かれているのが、一番たやすい」

理性は、これが脆く刹那的な行為だと知っている。それでも、生身の温もりが命綱だった。


「なら、行こう。君の家じゃない場所で」

彼の言葉に、ユキノはうなずいた。すべてをどうでもいいと思いながらも、一晩だけの渇望に体を委ねる。


2. 一夜花の安息


男の部屋は簡素だった。煙草と古い革の匂いが漂う。窓の外は闇。


ユキノは彼の腕の中にいた。肌の温もりが、冷えた皮膚を溶かす。

「名前は?」顔を胸に埋めたまま訊く。


「どうでもいいだろ。明日には忘れるんだから」


名前を尋ねない。呼ばない。この夜は、現実の重さ――息子、経済、不意に消された小説――から切り離された**純粋な「今」**でなければならなかった。


彼の肌は少しざらついていた。その確かな感触が、ユキノに「生きている」という実感を与える。心臓の鼓動が耳元で響き、弱々しい自分の鼓動と重なる。


「なんで震えてるんだ」

背中を大きな手で撫でる。


「寒いから……」


「嘘だ。怖いんだろ、滝に落ちるのが」

図星だった。ユキノは目を閉じ、涙を頬に伝わせる。冷たい涙は、すぐに男の体温で温められた。


「……ねえ、抱いてくれてありがとう」

言葉は感謝ではない。**「私を今夜だけここに存在させてくれてありがとう」**という、救いを求める叫び。


「礼を言うな。一人が嫌だっただけだ」

彼はそれ以上何も訊かず、抱きしめ続けた。この一夜だけ、私は誰かの優先順位の一番上にある。


肌を重ね、ユキノは自己の存在を確認する。脆くとも必要な、自己肯定感をかき集める。「わたしもまだまだ……」と、心の中で呟く。都合のいい女として自らを演じることは、現実から逃れるための唯一の武器だった。


3. 朝チュンの別れ


夜が明け、窓の外で鳥のさえずり。無邪気な音が現実への警鐘。


男はまだ眠り、呼吸の重みが肩に心地よい。


朝チュンが聞こえるころ、ユキノは静かに腕から抜け出す。肌が離れる瞬間の冷たさに、夢の終わりを突きつけられる。シーツに体温が残る。


心の中で、昨夜への感謝と別れの言葉を唱えた。服を着て、匂いが染み付いたまま部屋を出る。ドアを閉めるカチリの音は、夢の扉が閉じた証。


自宅の玄関の埃っぽい匂い。現実の重さが鉛のように肩にのしかかる。


「……」

リビングで大きくため息をつく。息子、病院、年金、凍結されたインセンティブ、消された小説。ナイアガラの轟音が、また耳の奥で鳴り始める。


単に都合のいい軽い女。それでも、昨夜掴んだ熱を手放さない。


「命以上に重いものはないのさ」

窓の外の朝焼けに向かって、そっと呟く。声は震えていたが、嘘はない。


ナイアガラの縁に咲いた一輪の紅い花は、冷たい朝の光の中、命の重さを抱きしめ、次の夜明けを待つ。


ナイアガラ 縁に咲かせし 一夜花

抱かれて掴む 命の重さ




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『識字障害の作家は、AIとともに立つ』 @mai5000jp

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