ドミニク

菊地公

プロローグ

 見頃を迎えた百合が優雅に揺れるアルテンブルグ家のハーブ園。

 薬になるカモミールやミント、食用のセージやパセリ、ローズマリー。その中に埋まるように、草刈り鎌を片手にハーブの収穫をする青年がいた。薄らと額に浮かぶ汗を拭えば、額に土が付いてしまう。それには気も止めず、ラベンダー色の瞳はきらきらと、このハーブが食卓に並ぶ様を夢に見ている。母の料理は余程絶品らしい。ビンゲンの聖ヒルデガルドも育てていたという、神聖な扱いを受けているハーブも、彼の前ではただの食材のようだ。

 太陽も真上に上り、真夏の匂いが漂ってきた頃。青年は朝の作業を終えると、先ほど収穫したハーブを一杯に入れた籠と、一つに結んだプラチナブロンドの長い髪を軽快に揺らしながら両親の待つ我が家へと向かう。走り出した足を止め、ふと振り返ってハーブ園の全景を見ると不思議と心が安らいだ。

 青年レオンハルトはその端正な顔に微かに笑みを浮かべた。


 ただいま、と声をかけながら、青年は我が家の戸を開ける。

「お帰りなさい。まぁ、沢山採ってきましたね」

 母にハーブの籠を渡すと、引き換えにタオルを受け取る。顔の土や首の汗を拭きながら、手持ち無沙汰に家を見渡す。ふと視線を奥へ遣ると、神妙な面持ちをした父が食卓に座っていた。

「レオンハルト。大事な話がある」

 いつも温厚な父のただならぬ様子に怯えながらも、促されるまま父の向かいに座った。このような状態の父には何も言わぬが吉だと知っていたからだ。使い古した木製の椅子が軋んだ悲鳴をあげた。

「我が息子よ、よく聞け。お前には…もう一人の父がいる。私とお前は、血が繋がっていないんだ」

 物心ついた時から、薄々勘付いていたことだった。父は赤毛、母はブラウン。この二人からブロンドが生まれるわけが無いと。レオンハルトだって馬鹿ではない。でもいざ真正面からこの現実を突きつけられると、心にくるものがある。複雑な感情のまま静かに頷いた。

「お前の実の父の名前は、ドミニク・シュレーゲル。私の良き理解者だった。お前と同じ色の瞳を持つ、容姿端麗な男。お前をレオンハルトと名付けたのも彼だ」

「…父さん、それをどうして今?」

 言うタイミングなんて、今までに何度もあったはずだ。

「今日はな、シュレーゲルからお前を預かった日なんだ。シュレーゲルからの伝言で、十八年後の今日読ませてくれと一緒に預かった本がある」

 義理堅い父のことだから、その言葉を忘れずにいたのだろう。父は一冊の古びた本を机に置いた。ご丁寧に鍵まで付いている。

「私は未だ目を通せていない。だがお前には、読む権利がある」

 息子の目を見据えながら、本をレオンハルトの手に握らせる。

「鍵は壊してあるが、読むも読むまいもお前の自由だ。私は強制しない」

 父はそれ以上は言わずに目を伏せ、立ち上がって扉へと向かう。その表情は微妙な感情を写していた。

「じゃあ、母さん達は少し出掛けてくるわ。いい子で待っていらっしゃい」

 その場の空気を和ませるように母は柔く微笑み、十八になるというのにまだまだ幼く見える息子のブロンドを一撫ですれば、父の後を追って出ていく。

「待って!」

 レオンハルトは弾かれたように立ち上がった。勢い余って椅子が倒れてしまうのには目もくれずに、言葉を続けた。

「血が繋がってなくても、父さんは父さんだし母さんも母さんだ。だから…」

 だから。何だ。そこから先の言葉が出てこない。息子は唇を噛んで目を泳がせながら必死に思考を回した。その沈黙を破ったのは母だった。

「心配しなくても、あなたは母さん達の一番大切な息子よ」

 ふわりと抱きしめられて、その女神のような微笑みを見てしまったら。三人の間にもう言葉はいらない。こくりと頷いて、二人を見送った。


 この家には、レオンハルト。と、あの本。

 お前には、読む権利がある。父はそう言っていた。だが、本当にそうなのだろうか。レオンハルトの中では、そんな葛藤が渦を巻いていた。

「…実の、父親の…」

 重い足取りで自室に戻るとレオンハルトは、言葉で言い表せない複雑な思いを胸にしばらく何も書いていない表紙を見つめ続けた。経年による劣化はしているが重厚な革張りで、輝きを失った金属の留め具が規則正しく並んでいる。それを指先でなぞれば、刻まれた細かな傷達が持ち主の思いを語っているように感じた。

 その傷達に吸い込まれるように、彼の手は表紙を開いた。

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ドミニク 菊地公 @kiku_3

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