第五話 空っぽのエピローグ

復讐の幕は、静かに上がった。

俺は『K』として、皇玲が勤めるアーク・スタイル社内のコンプライアンス部門へ、一本の匿名通報を入れた。


『ECサイトリニューアルプロジェクト責任者の皇玲氏に、情報漏洩の疑いがあります。添付のログファイルをご確認ください』


俺が添付したのは、玲が会社の顧客データをライバル企業へ横流ししているかのように見える、完璧に偽装された証拠の数々だった。もちろん、実際にデータが流出したわけではない。俺が用意したダミーサーバーへのアクセス記録を、巧妙にライバル企業のIPアドレスに見せかけただけだ。しかし、アクセスログ、通信記録、そして彼のPC内に残された痕跡は、どこからどう見ても本物としか思えないほど精巧に作り込まれていた。彼のPCから抜き出した、経費の私的流用や機密データの個人クラウドへのコピーといった『小さな悪事』の証拠も、彼の人物像を貶める補強材料として添えておいた。


結果は、即座に出た。

アーク・スタイル社は、社運を賭けたプロジェクトの責任者による重大なコンプライアンス違反の疑いに色めき立った。玲は即日プロジェクトから外され、自宅待機を命じられる。そして、徹底的な社内調査の末、偽装された証拠は『決定的』と判断された。彼がどれだけ無実を訴えても、PC内に残された動かぬ証拠の前では、もはや誰も彼の言葉に耳を貸さなかった。

最終的に、玲は会社の信用を著しく毀損したとして、懲戒解雇処分となった。


だが、俺の復讐はそれだけでは終わらない。

玲が社会的信用を失った、まさにそのタイミングを見計らって、俺は次の一手を打った。玲のスマートフォンから抜き出した、複数の女性たちとの生々しいやり取りの証拠。それらを、それぞれの女性たちへ匿名で送りつけたのだ。もちろん、送信元が俺だとバレないよう、海外のサーバーを経由するなどの痕跡の偽装は完璧に行っている。


自分の他にも複数の女がいたこと、そして自分がただの遊び相手だったことを知った女性たちの怒りは、一斉に玲へと向かった。

「結婚をちらつかされていた」

「精神的苦痛を受けた」

彼女たちは示し合わせたかのように、次々と玲に対して高額な慰謝料を請求する訴訟を起こした。彼の傲慢さが招いた、当然の報いだった。

社会的信用、積み上げてきたキャリア、そして彼が最も執着していたであろう女性からの人気と財産。そのすべてを、皇玲はあっけなく、そして完全に失った。彼の転落劇を、俺は遠い街から、ただモニター越しに冷たく見届けていただけだった。


そして、最後の仕上げ。

月詠詩織。

彼女に対しては、もう何もする必要はなかった。玲の破滅と、彼が自分を裏切っていたという事実。そして、俺の失踪の本当の理由。それらすべてを知った彼女は、すでに精神的な地獄の淵に立っているはずだ。


俺は『橘』のアカウントから、彼女に最後のメッセージを送った。

これが、俺から彼女への、永遠の訣別の言葉だ。


『奏はもう、君の前には二度と現れません。君がしたことを、彼は最初から知っていました。どうか、幸せに』


最後の『どうか、幸せに』という一文に、ありったけの皮肉と侮蔑を込めて。

送信ボタンを押し、俺はそのアカウントをサーバーのログごと、この世から完全に消去した。彼女が今、どこで何をしているのか。絶望の底で泣き叫んでいるのか、それとも抜け殻のようになっているのか。もう、俺の知ったことではないし、興味もなかった。

自分の裏切りが決して許されることなく、愛した人にもう二度と会えないという事実を胸に抱えて、残りの人生を生き続けること。それが、彼女に与えた、死ぬよりも辛い罰だった。


すべてを終えた俺は、パソコンの電源を落とし、大きく息を吐いた。

一年半に及んだ復讐が、終わった。

胸の中に渦巻いていた、どす黒く、冷たい塊が、すっと消えていくのを感じた。達成感も、喜びもない。ただ、空っぽの静寂だけが、そこにはあった。


それから、さらに半年が過ぎた。

俺は『神凪要』として、この日本海に面した穏やかな街で、新しい人生を歩んでいた。フリーランスのITエンジニアとしての仕事は順調で、時折舞い込む大きなプロジェクトをこなすだけで、十分に生活していけるだけの収入があった。東京にいた頃のような、時間に追われる殺伐とした日々はもうない。


初夏の強い日差しが降り注ぐ、ある晴れた日の午後。

俺はいつものように、近所の古びた喫茶店で、一人コーヒーを飲んでいた。カウンターの向こうで、マスターがサイフォンで丁寧にコーヒーを淹れている。店内に流れる、静かなジャズの音色。窓の外では、眩しい光の中で街路樹の緑が鮮やかに揺れていた。

小説を読みながら、ふと顔を上げて窓の外に目をやった、その時だった。


店の前を、一人の女性が通り過ぎていくのが見えた。

俯きがちに、力なく歩くその姿。風に揺れる、見覚えのある髪型。

一瞬、心臓がどきりと跳ねた。詩織によく似ていた。

だが、俺の心は凪いだまま、それ以上揺れることはなかった。たとえ彼女本人だったとしても、今の俺には、遠い過去の風景にしか見えない。俺は彼女の姿を目で追うこともなく、すぐに手元の小説へと視線を戻した。ページを一枚めくる。新しい章が始まっていた。


コーヒーを飲み干し、俺は会計を済ませて店を出た。

過去を洗い流すかのように、強い日差しが容赦なく俺の全身に降り注ぐ。眩しさに少しだけ目を細めながら、俺は大きく息を吸い込んだ。肺を満たす、潮の香りが混じった初夏の空気。

失った時間は、もう戻らない。

愛した人を信じていた、あの頃の純粋な自分も、もうどこにもいない。

しかし、俺は自らの手で、過去を清算し、新しい未来への道を切り拓いたのだ。


もう二度と、後ろを振り返ることはないだろう。

俺は、どこまでも青く澄み渡った空を見上げた。その空の下、かつて『天羽奏』だった男は死に、『神凪要』としての俺が、今、ここに立っている。

ゆっくりと、しかし確かな足取りで、俺は新しい人生の一歩を踏み出した。その先に何が待っているのかはわからない。だが、もう何も恐れることはなかった。空っぽになった心に、いつかまた何かを宿す日が来るのかもしれない。そんな予感が、不意に胸をよぎった。

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