第四話 崩壊のプレリュード

奏が私の前から姿を消して、一年半という月日が流れた。

季節は巡り、街の景色は変わっていくのに、私の時間だけは、あの日からずっと止まったままだった。奏がいない世界は、まるで色のないモノクロ映画のようで、息をするのさえ苦しい。


仕事も休みがちになり、アパレルショップの店長からは「月詠さん、最近顔色が悪いけど大丈夫?」と心配されることが増えた。心配してくれる友人もいたけれど、いつまでも暗い顔をしている私に、次第にみんな距離を置くようになっていった。誰も、私のこの深い悲しみを、本当の意味で理解してはくれなかった。


そんな私の、たった一つの心の支え。

それは、奏の大学時代の友人だという『橘』さんからの、不定期な連絡だけだった。

数週間に一度、時には一ヶ月以上間が空くこともある。その短いメッセージが届くたびに、私の心はジェットコースターのように揺さぶられた。


『奏は元気にしているみたいですよ。ただ、まだ帰れる状況ではないようです』

『詩織さんのこと、気にしていないはずがない。もう少しだけ、信じて待っていてあげてください』


その言葉だけを信じて、私はかろうじて日々を生きていた。奏は生きている。そして、いつか必ず私の元に帰ってきてくれる。そう信じることで、崩れ落ちそうな心を必死に支えていた。玲さんとの関係は、奏がいなくなってすぐに終わらせた。彼に会うたびに、あの日の罪悪感が蘇ってきて、耐えられなかったからだ。玲さんはあっさりとそれを受け入れた。私たちは、もとよりそんな程度の関係だったのだ。


ある日の午後、仕事を終えて重い足取りで自宅マンションへの道を歩いていると、スマートフォンの通知音が鳴った。橘さんだろうか。慌てて画面を確認すると、それは見知らぬアドレスからの、一通のメールだった。

怪訝に思いながらも、私はそのメールを開いた。件名はない。本文には、たった一文だけが記されていた。


『あなたの彼は、こんな男ですよ』


その一文の下に、いくつかのファイルが添付されていた。嫌な予感が、心臓を鷲掴みにする。震える指で、最初のファイルをタップして開いた。

そこに写っていたのは、見覚えのある横顔だった。皇玲さんだ。彼は、私の知らない、派手な身なりの女性と腕を組み、高級ホテルのエントランスへと入っていくところだった。写真の日付は、私とまだ関係が続いていた頃のものだった。

息が、詰まる。

次々と、他のファイルを開いていく。別の女性とレストランで親密そうに食事をする写真。高級ブランドの店で、女性にバッグを買い与えている写真。そして、極めつけは、玲さんと複数の女性たちとの、生々しいメッセージのやり取りを記録したスクリーンショットだった。


『詩織には悪いけど、やっぱお前が一番だよ』

『愛してるよ、美咲』

『今度の旅行、楽しみだな、由香』


同じ言葉、同じ口説き文句が、名前を変えて何度も繰り返されている。私の名前も、その中にあった。頭がぐらりと揺れて、立っていられなくなる。私は道端のガードレールに、思わず手をついた。

信じられない。信じたくない。

玲さんに限って、そんなはずはない。私に対しては、本気だったはずだ。奏がいなくなって落ち込む私を、あれほど優しく慰めてくれたじゃないか。

これは何かの間違いだ。誰かの、悪質ないたずらに違いない。


私は半狂乱の状態でスマホを取り出し、玲さんの番号を呼び出した。数コールで、いつもと変わらない、少し気だるげな彼の声が聞こえる。


「もしもし、詩織?どうした、急に」

「玲さん……!今、変なメールが届いて……玲さんが、私以外にもたくさんの女の人と……!」


言葉がうまく紡げない。涙で声が震える。しかし、電話の向こうの玲さんの反応は、私の想像とはまったく違うものだった。


「ああ、なんだよ、その話か」


鼻で笑うような、馬鹿にしたような声。その声色に、全身の血が逆流するような感覚に陥った。


「え……?」

「だから、なんだよって言ってんだよ。そんなの、ただの遊びだって。本気なのは詩織だけだよ。まさか俺が、お前みたいなのと結婚でもすると思ってたわけ?」


遊び。本気なのは、詩織だけ。

その言葉が、鋭いナイフとなって私の胸に突き刺さった。目の前が、真っ暗になる。

奏が与えてくれた、見返りを求めない、深くて温かい愛情。それとは似ても似つかない、あまりにも薄っぺらく、自己中心的で、汚れた関係。

なんで、私はこんな男に心を許してしまったんだろう。なんで、奏というかけがえのない存在を、こんな男のために裏切ってしまったんだろう。


「……ひどい……」

「はっ、今更何言ってんだか。お前だって、彼氏がいながら俺と寝てたクチだろ。お互い様じゃないか」


一方的に電話を切られ、耳元でツーツーという無機質な音が響く。スマホを握りしめたまま、私はその場に立ち尽くした。行き交う人々が、怪訝な顔で私をちらちらと見ていく。でも、そんなことはもうどうでもよかった。

頭の中で、バラバラだったパズルのピースが、恐ろしい音を立ててはまっていく。


奏がいなくなった、あの日。

会社からの連絡で、彼は『無断欠勤』だと聞いた。警察に相談した時も、会社に確認した時も、誰も彼が早退したなんて言っていなかった。橘さんからも、そんな話は聞いていない。

でも、本当にそうだっただろうか?

記憶の霧を、必死で掻き分ける。そうだ、最初の頃、会社に電話した時、事務の人が言っていた気がする。でも、その後の混乱の中で、私はその重要な事実をすっかり忘れてしまっていた。

いや、忘れていたんじゃない。無意識のうちに、自分に都合の悪い記憶に蓋をしていたんだ。


私はスマートフォンの履歴を、狂ったように遡った。奏がいなくなった、あの日。玲さんと私が合流し、部屋に招き入れた時間。午後二時過ぎ。

奏の会社の定時は、午後六時だ。

彼が早退したのが、もし、午後三時だとしたら?


計算するまでもない。

私と玲さんがベッドの中で貪り合っていた、まさにその時。

奏は、家にいたのだ。


そして、すべてを、見ていた。

聞いていたのだ。


「あ……」


口から、乾いた声が漏れた。

血の気が、さーっと引いていく。全身の力が抜け、立っているのがやっとだった。

ローテーブルの上に置かれていた、あのケーキ。私が欲しがっていた、あの店のケーキ。それは、奏からのサプライズなんかじゃなかった。彼が、私を喜ばせるために買ってきた、愛情の証だった。そして、彼はその愛情が踏みにじられる現場を、すぐそばで、目の当たりにしていた。

無言で消えた理由。

解約された携帯電話。

誰にも告げずに辞めた会社。


事件でも、病気でも、仕事のプレッシャーでもなかった。

彼をこの部屋から、私の人生から消し去ったのは、他の誰でもない。

この私自身の、軽率で、身勝手な裏切りだったのだ。


「ああ……あ……あああああああああっ!」


遅すぎた真実が、容赦なく私を打ちのめす。

自分が、どれほど愚かだったか。奏の深い悲しみを、絶望を、想像することすらしてこなかった。悲劇のヒロインを気取って、彼の帰りを待つ健気な自分に酔っていた。そのすべてが、醜悪な勘違いだった。

失ったものの大きさに、ようやく、今、気づいた。

もう二度と、あの優しい笑顔は見られない。

もう二度と、「ただいま」と私の頭を撫でてくれる温かい手にも触れられない。

私が、この手で、すべてを壊してしまったんだ。


アスファルトの冷たさが、膝から伝わってくる。私はその場に崩れ落ち、もう誰の目も気にすることなく、ただただ泣き叫んだ。後悔しても、もう遅い。謝罪の言葉は、もう彼には届かない。

取り返しのつかない罪の重さに押しつぶされ、私の心は、完全に引き裂かれてしまった。

奏、ごめんなさい。

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――。

誰にも届かない叫び声だけが、雑踏のノイズに虚しく吸い込まれて消えていった。

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