第三話 偽りのリブート
天羽奏が、その名前と共に東京から姿を消して、一年が過ぎた。
日本海に面した、とある地方都市。かつて城下町として栄えたその街の古い街並みに溶け込むようにして、俺は生きていた。黒く染めた髪を無造明に伸ばし、度のない黒縁の伊達眼鏡をかける。服装も、以前の小綺麗なシャツスタイルから、ラフなパーカーやTシャツが中心になった。鏡に映るその姿は、『天羽奏』の面影をほとんど留めていない。
俺は今、『神凪要(かんなぎかなめ)』という偽りの名で暮らしている。
この一年、俺はひたすらにスキルを磨き続けた。昼夜を問わずコードを書き、最新の技術を貪るように吸収した。その結果、フリーランスのITエンジニア『K』として、俺は業界内で静かに、しかし確実にその名を轟かせるようになっていた。高度なセキュリティ対策から、複雑なシステムアーキテクチャの設計まで。『K』に解けない問題はない。顔も本名も明かさない謎の凄腕エンジニア。そんな都市伝説めいた評判が、俺の身を守る最高の盾になっていた。
地方での生活は、驚くほど穏やかだった。東京の喧騒が嘘のように、ここでは時間がゆっくりと流れている。時折、近所の寂れた喫茶店でコーヒーを飲みながら、窓の外をぼんやりと眺める。そんな何でもない時間が、死んでしまった俺の心を少しずつ癒していくようだった。
だが、忘れたわけじゃない。一瞬たりとも。
寝室のドアの隙間から漏れ聞こえた、あの声。愛した女の喘ぎ声と、知らない男の卑しい声。あの瞬間、俺の世界を粉々に砕いた絶望を。そして、心の奥底で今もなお静かに燃え続けている、復讐の炎を。
準備は、整った。
復讐の舞台は、皮肉にも俺がかつて身を置いていたITの世界だ。
数ヶ月前、『K』として請け負った仕事の中に、ひときわ興味を引く案件があった。大手アパレル企業が社運を賭けて立ち上げる、大規模ECサイトのリニューアルプロジェクト。その企業名を見て、俺の心臓は静かに、しかし力強く鼓動した。
『株式会社アーク・スタイル』
月詠詩織が勤めるブランドの、親会社だった。
俺はプロジェクトの技術顧問という立場で、オンラインでの参画を申し出た。顔を合わせる必要のないリモートワークは、正体を隠したい俺にとって最高の隠れ蓑だ。そして、俺の予想通り、プロジェクトの主要メンバーリストの中に、あの男の名前を見つけた。
『皇玲(すめらぎれい)』
プロジェクトの責任者として、その名前は燦然と輝いていた。
最初のオンラインミーティングの日。俺はカメラをオフにした状態で、会議に参加した。画面の向こう、複数の参加者が映るウィンドウの一つに、奴がいた。一年ぶりに見るその顔は、記憶の中にあるものと変わらず、自信に満ち溢れていた。
「――以上が、本プロジェクトの概要となります。そして、今回、技術顧問として我々をサポートしてくださる、外部のスペシャリストをご紹介します。『K』さんです」
玲が、俺を紹介する。俺はマイクのミュートを解除し、あらかじめ調整しておいた、少し低めの声で応えた。
「『K』です。神凪と申します。皆様、どうぞよろしくお願いいたします」
『神凪要』。それが、奴らの前で俺が名乗る名前だ。
会議が始まると、俺はすぐさまその能力を発揮した。彼らが提示した基本設計の脆弱性を的確に指摘し、より堅牢で効率的な代替案を提示する。俺の言葉に、他のエンジニアたちが息を飲むのが画面越しに伝わってきた。
会議の終わり際、玲が感嘆したような声で俺に話しかけてきた。
「神凪さん、素晴らしいご意見、ありがとうございました。正直、驚きました。ぜひ、今後も密に連携を取らせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんです。皇さんのご意見も、非常に参考になりました」
内心で冷たく嘲笑しながら、俺は当たり障りのない言葉を返す。愚かな男だ。俺の卓越した技術力に感嘆し、自分の手柄にしようと積極的に取り入ろうとしてきているのが手に取るようにわかる。それでいい。その傲慢さが、お前の首を絞めることになるのだから。
その日から、俺と玲は、チャットツールで頻繁にやり取りをするようになった。俺は奴の自尊心をくすぐるように能力を褒めそやし、少しずつ、だが確実に信頼関係を築いていった。そして、復讐の第一歩として、巧妙な罠を仕掛けた。
「皇さん、先日の件、資料を拝見しました。いくつか修正案をファイルにまとめましたので、ご確認いただけますか」
そう言って俺が玲に送ったのは、一見するとただのドキュメントファイルだ。だが、その内部には、俺が独自に開発したごく微小なプログラム――トロイの木馬を巧妙に仕込んである。彼がファイルを開いた瞬間、そのプログラムは彼のPCの奥深くに静かに潜り込み、俺だけがアクセスできるバックドアを構築する。
計画は、完璧に成功した。
その日の深夜、俺は自室のPCから、玲の社用PCへの侵入を試みた。築き上げたバックドアを通り抜けると、そこはまさに宝の山だった。会社の経費を私的な飲食代に流用していることを示す経費精算データ。部下の手柄を横取りしたことを自慢する、同僚とのチャット履歴。そして、会社の機密情報に近い顧客データを、興味本位で自身のクラウドストレージにコピーしているログ。どれも小さな不正だが、積み重なれば彼の社会的信用を失墜させるには十分な材料だった。
さらに俺は、社用PCを踏み台にして、彼のプライベートなスマートフォンへのアクセス経路を確保した。そこには、俺の予想を上回る、吐き気を催すような現実が広がっていた。
『詩織には悪いけど、やっぱお前が一番だよ』
『今度、二人だけで温泉でも行こうか』
『愛してるよ』
同じような文面のメッセージが、詩織を含め、同時に五人以上の女性に送られている。甘い言葉を囁き、高級ホテルでの情事を重ねる生々しいやり取り。ご丁寧にも、それぞれの女性とのツーショット写真まで保存されていた。
俺はそれらのデータを、一つ残らず自分のサーバーへとコピーしていく。その作業をしながら、俺の心は不思議なほど凪いでいた。怒りも、嫉妬も、もう感じない。ただ、淡々と、処刑執行のための準備を進めるだけだった。
玲への罠を仕掛け終えた俺は、次なるターゲットへと駒を進めた。
月詠詩織。
彼女には、物理的な破滅よりも、精神的な地獄を味わわせる必要がある。希望と絶望の間を永遠に彷徨い、自分の犯した罪の重さに苛まれ続ける、終わりのない罰を。
俺はSNSで、複数のダミーアカウントを作成した。そして、その中の一つを使い、詩織に接触を図った。アカウント名は『橘(たちばな)』。奏の大学時代の友人を名乗る、架空の人物だ。プロフィール写真には、ネットで拾った当たり障りのない風景写真を設定した。
彼女のSNSアカウントを見つけるのは、容易いことだった。奏がいなくなり、悲劇のヒロインを気取っている彼女は、SNSに「#大切な人」「#行方不明」「#会いたい」といったハッシュタグを付け、奏との思い出の写真を頻繁に投稿していたからだ。その痛々しい自己陶酔に、吐き気がした。
『橘』のアカウントから、詩織にダイレクトメッセージを送る。
『突然のご連絡失礼します。月詠詩織さんでしょうか?俺、天羽奏の大学時代の友人で、橘と申します。奏のこと、ずっと心配されていると思って……いてもたってもいられず、連絡してしまいました』
返信は、すぐに来た。食いついてきた、という表現が正しいだろう。
『橘さん……!奏の、お友達……!何か、奏のことで何か知っているんですか!?』
藁にもすがる思い、といったところか。俺は画面の前で、冷たく笑った。ここからは、慎重な綱渡りが必要になる。与えすぎず、しかし希望は捨てさせない。彼女の心を、じわじわと揺さぶり続けるのだ。
『実は、少し前に一度だけ、奏から連絡があったんです。生きてはいるみたいです』
『本当ですか!?彼は、今どこに!?』
『それは……詳しくは教えてくれませんでした。ただ、今はどうしても君には会えない理由がある、とだけ。何か、大きなことに巻き込まれてしまったのかもしれません』
『君に会えない理由』。その言葉が、彼女の罪悪感を巧妙に逸らす盾となるだろう。自分のせいではなく、何か外的要因で奏は帰れないのだと、そう思い込ませる。
『そんな……。でも、生きていてくれたんですね……よかった……!』
安堵と混乱が入り混じった彼女の返信を見て、俺は満足気に頷いた。
希望という名の、甘い毒。
俺はこれから、数週間に一度、あるいは一ヶ月に一度という不定期な間隔で、この『橘』として彼女に接触し続ける。奏は生きている、でも帰れない。もう少しの辛抱だ。そんな曖昧な言葉で彼女を繋ぎ止め、決して答えは与えない。
じわじわと、だが確実に彼女の精神を蝕んでいく。
希望に縋り、待ち疲れ、やがて疑心暗鬼に陥り、そして最後にすべての真実を知った時、彼女は一体どんな顔をするのだろうか。
復讐の舞台は、完璧に仕上がった。
役者も、小道具も、すべて揃った。
俺は冷たい光を放つモニターの前で、静かにその時を待つ。すべてが崩壊する、その瞬間を。
玲の社会的生命を絶ち、詩織の心を永遠に壊す。それが、あの日に死んだ『天羽奏』にできる、唯一の弔いだった。
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